とりどりに森の香まとい茸汁   和泉田 守

とりどりに森の香まとい茸汁   和泉田 守

『この一句』

 この句が発表された句会では「森の香まとい、がいいですね」(方円)という句評があったが、まさにその通り。この句はこれで成り立っている。
 今や「入山禁止」とか「キノコ取らないで下さい」の看板があったりで、昔は気軽にやっていた里山の茸狩りも思うに任せなくなった。しかし、地方の「道の駅」や駅前の市場などには地元の人が採った「自然のキノコ」が積まれていることがある。十年ほど前、芭蕉が辿った奥の細道をゆく吟行会を重ねた折に、地場のキノコを買い求めては口福に酔いしれた。この大袈裟な表現が決して嘘ではなく、自然のキノコは味わい深く、何より香気がある。「沢山のきのこを知ってるわけじゃありませんが、きのこごとにそれぞれの香りがします」(青水)と、越後で生まれ育った人が言うのだから間違いは無い。
 この取り立てのいろいろな茸を取り合わせた味噌汁は実にうまい。味噌ではなく、油揚か豆腐を入れて醤油をちょっと差した清し仕立ての茸汁もいい。口にすると山気というかキノコの香気が鼻腔を抜ける。汁をすすり、茸を噛むとそれぞれの茸特有の香りがする。確かに「森の香まとい」である。
 今やそうしたキノコがスーパーでいとも簡単に極めて安価に手に入る。キノコ好きの筆者は毎日キノコ汁や茸料理である。しかし、残念ながら「森の香」はほとんどしない。それは心の中で感じなさいということか。
(水 25.10.19.)

国東の水澄む磯の兜蟹      嵐田 双歩

国東の水澄む磯の兜蟹      嵐田 双歩

『季のことば』

 たしかな秋の季節に入れば水が澄んでくる。池、湖、川はもちろん、海までも心なしか透明度が増してくるような気がする。秋の気持よさを表す季語の一つが「水澄む」である。水澄むところがどこかにあれば句を詠めそうだ。またこの澄明な季語を拝借して自分の心情をうたう抒情句を詠むこともできよう。
 作者は舞台を大分の国東半島にもってきた。国東では神話の岩戸神楽にちなむ夜神楽が集落の秋の行事になっているようである。歴史遺産なら神仏習合発祥の地を物語る熊野摩崖仏があるほか、別府湾に面した日出町の崖上に日出城址がある。城下かれいで有名な磯浜が石垣の下まで迫り、海中からは清水がこんこんと湧き出ていて、かれいを美味にしているという。掲句は日出浜の風景を借りて、まさに「水澄む」を詠みあげたものと推察する。訪ねたことがない人でもこの風景を想像できるのではないだろうか。
 「兜蟹」という古生代の生き物はこのあたりにもいるようだ。これが「水澄む」と対比をなしている。エイかと見まがうような、見るからに異形の節足動物がノソノソと磯に上ってきている光景だろう。神話の国東の水澄む透明感と、食用にならない兜蟹の無様な存在が句を面白くしている。新聞社の写真部記者であった作者が、いつか取材の途中見た実景と受け取っても間違いでなさそうに思えるのだが。
(葉 25.10.17.)

鰯雲手足拡げて露天風呂     前島 幻水

鰯雲手足拡げて露天風呂     前島 幻水

『季のことば』

 鰯雲は秋の空を代表する雲だ。抜けるような青空いっぱいに白い雲の切れ端が絣のように並ぶ。大海原を大群のイワシが寄せて来るように見えるところから「鰯雲」と呼ばれるようになった。実際、この雲が現れると鰯が大漁になるとも言われている。また、魚の鱗に似ているところから「鱗雲」と言われ、鯖の腹背の斑紋のようにも見えるから「鯖雲」とも呼ばれる。とにもかくにも天高き空にこの雲が現れると、いかにも秋という感じになり、晴々とした気分になる。
 この句はあまり混雑しない山間の温泉だろう。早めに宿について早速露天風呂に浸かる。誰もいない。思い切って大の字になり湯に浮かぶと、天高く晴れた空に鰯雲が広がっている。「ああ、いいですねえ。露天風呂で両手をう~んと拡げ空を仰いだら鰯雲。こちらも気持よくなってきました」(斗詩子)という句評が言い尽くしているが、まさに寿命が伸びる気がする。
 この場面は年齢性別関係なく気持の良いものだろうが、特に年寄りには何とも言えない心地良さを与えてくれる。70歳を超えれば大概どこか具合の悪いところを抱えている。ましてや連れ合いに去られての独り住まいや、連れ合いが具合を悪くして自分も昔ほど自由に動けないといったことになれば、ごくたまに訪れるこうした機会は本当に極楽気分ということになる。
(水 25.10.15.)

生きること生きていること水澄めり 山口斗詩子

生きること生きていること水澄めり 山口斗詩子

『この一句』

 作者が体調不良やコロナ禍で、句会に顔をお見せにならなくなって久しい。それでも、毎月メール投句で句会に参加され、欠席選評も欠かさず送って来られ、それらを通してご健在を確認している。今春には、会報に随想を書いて欲しいとお願いしたところ、快くお引き受けいただき、ご自身の育った下落合の「おとめ山公園」散策にまつわる一文を頂戴した。亡くなられたご主人とのお見合いのエピソードなども交えた読み物で、初稿から最終稿に至るプロセスも含めて楽しませていただいた。
 さて、この句。「生きること」と「生きていること」はどう違うのだろうと、思わず考えさせられてしまう。「生きること」は、まさに生きる営みそのもので、能動的な意志のようなものが感じられる。「生きていること」には、受動的に自身の生の在り様を振り返るような視線が感じられる。両者のあわいにあるもの、あるいは、両者合わさったものが、人生なのかもしれない。「水澄めり」の季語は、そのように人生を見つめる作者の心境を反映しているのだろう。
 いずれあてずっぽうの解釈ではあるが、さらりと平易に詠まれているのにも拘らずとても意味の深い句である、という実感は間違っていない気がする。作者のつつがなきことをお祈りしたい。
(可 25.10.13.)

あるじなき庭にすゝきと思い草  工藤 静舟

あるじなき庭にすゝきと思い草  工藤 静舟

『この一句』

 「思い草」とはまた珍しい草花を見つけてきたものだ。ススキなどイネ科の植物の根っこに取り付いて養分をもらい花咲かせる寄生植物で、正式な名前はナンバンギセルという。花の形が南蛮人のくわえているパイプに似ているからと、植物分類学が意識され出した江戸時代後期にそういう名前が付けられたようだが、それよりずっと以前から、日本人はそのひっそりと下を向いて咲く姿を好ましく感じたのだろう、「思ひ草」という名前をつけて愛玩し、歌に詠むなどしていた。『万葉集』にも一首載っている。
  道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ (巻十)
「ススキの根方にうなだれて咲いている思ひ草のように今更ぐじゅぐじゅ思い悩んだってしょうがないや」といった、失恋のもやもやを吹っ切ろう、しかし、吹っ切るのもなかなか難しいという、涙ぐましい努力の、なかなか面白い歌だ。
 掲句はどうか。住む人が居なくなって荒れた庭にススキが生茂り、そこにナンバンギセルが見る人もないままに咲いているという寂しい情景である。恋も失恋も無い。少子高齢化、地方都市の過疎化といった令和の今を詠んでいる。古風な衣装をまとった時事句とでも言えばよかろうか。これまた面白い句だ。
(水 25.10.11.)

アフリカより来たる人類鰯雲   廣田 可升

アフリカより来たる人類鰯雲   廣田 可升

『この一句』

 こうした破調で字余りで、しかも些か捉えどころのないモチーフで詠った俳句は、毀誉褒貶半ばすることが多い。果たして句会でもあまり賛同は得られなかった。でもわずか17音という弱小芸術で、こういう大ぶりな視点で・大仰な表現で訴えられると、何故か心にしみて来る。この季語にぶつけたこの想念に、ボクはすっかりやられてしまった。
 大陸を渡ってきた透き通った秋の空は、それだけで気持ちいい。忙しなく働いている時でも、交差点で立ち止まっている時でも、ふと天を仰いだ瞬間、たちまちのうちに、すーっと気持ちが整ってゆくことがある。何故か一瞬のうちに心が洗われ、力が注入される。ましてや山に向かって、沖に向かって、腰を落ち着けて、どこまでも青く澄み渡っている秋の空に浸っていると、心身ともに現実から遊離して行く。
 そんな時、人によって思うことはさまざま。作者同様、ボクも勝手に心がさ迷い出してゆく経験が何度もある。古今東西、老若男女、いつの時代でも良くあることに違いない。
 ところが作者はこの季語に、よりによってこんなエピソードを添えた。言い方を変えるとこれ見よがしに聞こえかねない気障な想念である。でもこれが肝である。教養が零れてしまった、とも言える。だってそう思った、そう感じたんだから。そんなあっけらかんとした作者の呟きが聞こえてくるようだ。
(青 25.10.09.)

親子連れ図鑑片手の茸狩り    加藤 明生

親子連れ図鑑片手の茸狩り    加藤 明生

『合評会から』(日経俳句会)

迷哲 子どもってきのこ図鑑好きですね。食べられるきのこより毒きのこが好きで、火焔茸とかそういうのを読まされました。
朗 こういう光景、実際あるのではないか。森の中を歩きながら図鑑で照らし合わせる親子の姿は微笑ましい。
枕流 茸は食べられるかどうかの判断が難しい。いちいち図鑑を参照する親子の姿がほほ笑ましい。でも危険ですが……。
十三妹 思わぬ毒茸もありますからね。図鑑片手の親子がユーモラス。
定利 こういう素直な句も良いですね。
三薬 山の親父の話を聞くと、図鑑なんか見たって毒きのこかどうか素人には絶対に分からない。だから知らないきのこには絶対に手を出すなって、警告されました。
          *       *       *
 9月句会の兼題が「茸」だったので、きのこを詠んだ面白い句が沢山出て来た。この句も微笑ましい情景を詠んで人気を博した。ただ三薬さんの言うのはもっともで、この「図鑑片手の茸狩り」は危ない。シメジにそっくりで、地味な姿で、いかにも旨そうなのが毒茸だったという話はよく聞く。それはそれとして、近頃はやたらに熊が出て来るから、毒茸にあたる前に熊にやられてしまう物騒なご時世になった。桑原くわばら。
(水 25.10.07.)

つるされて五線譜のようあんぽ柿  久保 道子

つるされて五線譜のようあんぽ柿  久保 道子

『この一句』

 あんぽ柿とは干柿の一種で、渋柿を硫黄で燻蒸した後に乾燥させたもの。普通の干柿に比べ水分量が多く、鮮やかなオレンジ色で羊羹のような味わいである。福島県伊達市で大正時代に製法が開発され、福島を代表する特産品のひとつとなっている。
 掲句はあんぽ柿が干されてる様子を「五線譜のよう」と表現したところが共感され、句会で二桁の高点を得た。評者はその光景を見たことがなく、縦に吊るされた干柿をイメージしたため採れなかった。
 句会で「あんぽ柿は横線に吊るして干す」(三薬)との解説があり、写真を検索してみた。すると干し場に縄を横に張り渡して、そこに柿を吊るしている。縄が幾重にも張られた様子は、まさに五線譜であり、柿の音符が連なっているように見える。あんぽ柿ならではの光景と言え、「景を知らないとこういう句は作れません」という百子さんの句評に得心した。
 秋が深まる頃、農家の軒先に干柿が下がっている様は、日本の原風景ともいえる。吊り方のタテヨコはあるにせよ、作者はそこに五線譜を見出し、素直に詠んだ。その若い感性が、11点もの高点を呼び込んだ理由ではなかろうか。作者が五線譜からどんなメロディー、楽曲をイメージしたのか、聞いてみたい。
(迷 25.10.05.)

毒キノコ傘艶やかに誘ひ来る   久保田 操

毒キノコ傘艶やかに誘ひ来る   久保田 操

『合評会から』(日経俳句会)

三薬 歌舞伎町のおねーちゃんみたいに誘って来る。確かに毒キノコにはそんな感じがある。
豆乳 私も現物を見たことがないんですが、図鑑なんかで見ると毒々しいですね。そんなイメージをうまく捉えていると思いました。
二堂 確かに毒キノコほど「食べてごらん、美味しいよ」と誘って来るように色鮮やかです。
十三妹 ムムム!キノコには美魔女が多いものです。ご用心!
          *       *       *
 テングタケのように艶やかな茶色の傘の上面に白いポツポツがあり、真っ白な茎の途中にツバがあったり、といったいかにも奇妙な感じを受けるものは危険だと分かる。ベニテングタケのように鮮やかな紅色だったりすればなおさらだ。しかし、ブナやナラなどの雑木林や松林に生える茶色のカキシメジやクサウラベニタケは食用のシメジによく似ており、いかにも美味そうに見える。畑や庭、公園の草地などに生えるオオシロカラカサタケは真っ白な饅頭型でホワイトマッシュルームの親類かと思ってしまう。
 「艶やかに誘ひ来る」のなら用心していれば大丈夫だが、一見地味でおとなしそうに見えるが実は・・というのが怖い。だけどそれは、何もキノコの世界に限らないよ・・という声が聞こえる。
(水 25.10.03.)

夜の森きのこ宇宙と交信す    岩田 千虎

夜の森きのこ宇宙と交信す    岩田 千虎

『この一句』

 9月の日経俳句会で16点という、めったにない高点を得て一席に輝いた句である。その一方で、全く評価しない人もいて、議論を呼んだ句でもある。
 採った人の多くは「メルヘンを感じます。童話の世界ですね 百子」とか、「ジブリの世界です。宇宙との交信も、ありうる 木葉」など、ファンタジックな雰囲気に惹かれたようだ。宇宙人との交流を描いた映画ETを連想した人もいた。
上手いのは上五の「夜の森」で時間と場所を限定し、真っ暗な森で光る茸を読者にイメージさせる点だ。月夜茸や夜光茸など光を発する茸は日本では十種類ほど知られている。夜の森に息づき、幻想的に光る茸から、「宇宙と交信す」との空想につなげる流れに無理がない。茸が胞子を飛ばす様子を宇宙との通信と見たのかも知れない。
 これに対し「全然、感心しなかった。奇を衒っているだけだと思った 水牛」、「異色な句だから、点が集まったんでしょう 双歩」など歯牙にもかけない人も複数いた。この違いは、俳句の世界にどこまで幻想や空想を許容するかによるのではないか。現実離れした内容をメルヘンと見た人と、嘘っぽいと思った人に分かれたのであろう。
SFやファンタジー映画を愛好する人ほど許容の幅は広くなる。句を採った16人のうち男性が14人を占めた。宇宙人の存在を心に秘めた〝少年〟が、それだけ多くいるということだろう。
(迷 25.10.01.)