仕事持つ母の休日とろろ汁 高井 百子
仕事持つ母の休日とろろ汁 高井 百子
『この一句』
とろろ汁は作り出せば簡単である。しかし、まず出汁を取り、醤油と味醂の塩梅良い合わせつゆを作り、さまして置く工程がある。一方、山芋の皮をこそげ取り、酢水に浸す下拵えがある。そして、擂鉢、擂粉木などの道具立てがあり、やおらきれいにした山芋を卸金で擂鉢に擦り下ろし、ごりごりと擂粉木を回し始める・・等々を考えると、つい億劫になってしまう。ましてや仕事を持つ母親ともなれば週日にはちょっと手を出しかねる。
しかし、とろろ汁は子供が大喜びする。大人だって「ああ、秋だなあ」と嬉しがる。かくて日曜日は「母さんのとろろ汁の日」ということになる。子供たちは擂鉢を押さえたり、スリコギを持って手伝ったりと大騒ぎだ。しかしこれが何よりの母子のスキンシップになる。擦っている途中に汁が跳ね飛んだり、十分に擦れていなかったりしたって、何ほどの事があろう。子供たちは自分たちが「一緒に作った」ことが何より嬉しくて、美味しさも倍増、いつもよりうんと炊いたご飯がすぐにすっからかんになってしまう。
この句を選句表に見つけて、真っ先に取った。「こども」という言葉が出てはいないが、子供のはち切れるような笑顔がぱっと浮かぶ。
同じ句会に私は「擂鉢は妻が抑へてとろろ汁」と老老家庭の情景を詠んで出したのだが、このいかにも寂しい句に比べて、掲句のなんと溌剌たることよ。
(水 25.11.27.)
『この一句』
とろろ汁は作り出せば簡単である。しかし、まず出汁を取り、醤油と味醂の塩梅良い合わせつゆを作り、さまして置く工程がある。一方、山芋の皮をこそげ取り、酢水に浸す下拵えがある。そして、擂鉢、擂粉木などの道具立てがあり、やおらきれいにした山芋を卸金で擂鉢に擦り下ろし、ごりごりと擂粉木を回し始める・・等々を考えると、つい億劫になってしまう。ましてや仕事を持つ母親ともなれば週日にはちょっと手を出しかねる。
しかし、とろろ汁は子供が大喜びする。大人だって「ああ、秋だなあ」と嬉しがる。かくて日曜日は「母さんのとろろ汁の日」ということになる。子供たちは擂鉢を押さえたり、スリコギを持って手伝ったりと大騒ぎだ。しかしこれが何よりの母子のスキンシップになる。擦っている途中に汁が跳ね飛んだり、十分に擦れていなかったりしたって、何ほどの事があろう。子供たちは自分たちが「一緒に作った」ことが何より嬉しくて、美味しさも倍増、いつもよりうんと炊いたご飯がすぐにすっからかんになってしまう。
この句を選句表に見つけて、真っ先に取った。「こども」という言葉が出てはいないが、子供のはち切れるような笑顔がぱっと浮かぶ。
同じ句会に私は「擂鉢は妻が抑へてとろろ汁」と老老家庭の情景を詠んで出したのだが、このいかにも寂しい句に比べて、掲句のなんと溌剌たることよ。
(水 25.11.27.)
電柱は地中化してよ鰯雲 須藤 光迷
電柱は地中化してよ鰯雲 須藤 光迷
『この一句』
のっけから脱力感が横溢していて、なんとも言えない詩情が広がる。勉強不足で多くの作品に接したわけではないが、類句を懸念する必要がなさそうだ。よって既視感もない。
出勤する。電車に乗る。買物に出る。散歩する。旅に出る。どんな時でもわれわれは景色を見ている。春夏秋冬、似たような景色を見ている。でもその時々で目に映り込んでくる景色は変わる。移る。そしてどんな時も我々は無意識のうちに或るものを消し去って、眼前の光景に見とれる。そうです。いつも眼前の電柱を、電線を消し去って景色を堪能しています。
この句の手柄は我々の無意識の行為を、さらりと文字化して見せたところです。しかも内心の無意識を、口語にして呟かせたところです。このさりげなさと季語が合体して、句となり昇華したのです。作者によると邪魔なのは電柱ではなく電線だろうなどとも思って、いろいろ推敲したが、結局は電柱に落ち着いたそうです。
ところでボクはかつて、伊豆へ向かう途中で鰻のために沼津に下車して、市内を散策したことがありました。沼津で見る富士山は千葉の自宅から見るのと違い、眼前にぬうっと迫ります。その時も家々の隙間から、縦横に張り巡らされた電線の隙間から、霊峰が迫ってきました。そしてその時。電線がバリアーとなって、ボクを霊峰の魔力から守ってくれているような気分になりました。邪魔なはずの電線に感謝していました。
(青 25.10.25.)
『この一句』
のっけから脱力感が横溢していて、なんとも言えない詩情が広がる。勉強不足で多くの作品に接したわけではないが、類句を懸念する必要がなさそうだ。よって既視感もない。
出勤する。電車に乗る。買物に出る。散歩する。旅に出る。どんな時でもわれわれは景色を見ている。春夏秋冬、似たような景色を見ている。でもその時々で目に映り込んでくる景色は変わる。移る。そしてどんな時も我々は無意識のうちに或るものを消し去って、眼前の光景に見とれる。そうです。いつも眼前の電柱を、電線を消し去って景色を堪能しています。
この句の手柄は我々の無意識の行為を、さらりと文字化して見せたところです。しかも内心の無意識を、口語にして呟かせたところです。このさりげなさと季語が合体して、句となり昇華したのです。作者によると邪魔なのは電柱ではなく電線だろうなどとも思って、いろいろ推敲したが、結局は電柱に落ち着いたそうです。
ところでボクはかつて、伊豆へ向かう途中で鰻のために沼津に下車して、市内を散策したことがありました。沼津で見る富士山は千葉の自宅から見るのと違い、眼前にぬうっと迫ります。その時も家々の隙間から、縦横に張り巡らされた電線の隙間から、霊峰が迫ってきました。そしてその時。電線がバリアーとなって、ボクを霊峰の魔力から守ってくれているような気分になりました。邪魔なはずの電線に感謝していました。
(青 25.10.25.)
うつる空両手ですくう秋の水 久保 道子
うつる空両手ですくう秋の水 久保 道子
『合評会から』(日経俳句会)
朗 秋の水に雲と言うか空が映っていたので、それを手で掬うというのは、とてもおしゃれです。
戸無広 掬う水は青い空を映しているが、いざ掬って見ると青い水ではなくなる。そういうアニメーションのような感じが出ている。
実千代 水に映る空はどこでしょうか。秋の清々しさが伝わってきました。
千虎 水に映った真っ青な空を掬うという発想がいい。
二堂 秋は空気が澄んでいるので、水に映る空もよく見えます。確かに掬ってみたくなりますね。
定利 空の青さ、思わず手を入れたくなる。
* * *
これは類句があるような気もするけれど、とても気持の良い、いい句だ。澄んだ水に映る白雲を浮かべた青空を掬いたくなって、思わず両手を差し伸べるというのは誰もがやることで、ごく自然な動作だ。そういうところをすっと詠んだのがいい。秋の水の感じを感じたままに素直に詠んだところにも、誰もが好感を抱いたのだろう、同じような句評が相次いだ。これぞ異口同音というところか。
(水 25.10.23.)
『合評会から』(日経俳句会)
朗 秋の水に雲と言うか空が映っていたので、それを手で掬うというのは、とてもおしゃれです。
戸無広 掬う水は青い空を映しているが、いざ掬って見ると青い水ではなくなる。そういうアニメーションのような感じが出ている。
実千代 水に映る空はどこでしょうか。秋の清々しさが伝わってきました。
千虎 水に映った真っ青な空を掬うという発想がいい。
二堂 秋は空気が澄んでいるので、水に映る空もよく見えます。確かに掬ってみたくなりますね。
定利 空の青さ、思わず手を入れたくなる。
* * *
これは類句があるような気もするけれど、とても気持の良い、いい句だ。澄んだ水に映る白雲を浮かべた青空を掬いたくなって、思わず両手を差し伸べるというのは誰もがやることで、ごく自然な動作だ。そういうところをすっと詠んだのがいい。秋の水の感じを感じたままに素直に詠んだところにも、誰もが好感を抱いたのだろう、同じような句評が相次いだ。これぞ異口同音というところか。
(水 25.10.23.)
しっぽ立て迎える猫のいない秋 斉山 満智
しっぽ立て迎える猫のいない秋 斉山 満智
『この一句』
愛猫を亡くした作者の悲しみが惻々と伝わってくる句である。家に帰るといつも玄関に出迎えていた猫が死んだ。ドアを開けても、しっぽを立てて「お帰りなさい」と鳴き声をあげていた猫の姿はない。作者はその現実に、改めて喪失感をかみしめているのである。句末にぽつんと置かれた「秋」という言葉の持つ寂寥感が、作者の心境に重なり合っている。
犬がしっぽを振るのは喜びの表現であると、よく知られている。猫が飼い主にしっぽを立てるのも同様で、愛情、喜び、甘えを表しているという。子猫の時にしっぽを立てて母猫に構って欲しいとアピールしていた名残りのようだ。飼い主を母と慕い、しっぽを立てて出迎える猫。それが分かっている作者だから、子供を亡くしたような悲しみに暮れているのであろう。
作者は番町喜楽会で一番の愛猫家として知られ、可愛がっている猫のことを何度も句に詠んでいる。その猫がこの夏に病気の末に死んだと推察される。8月例会に「差し入れの新蕎麦すする猫の通夜」の句が出され、9月には「夜の秋猫の気配を撫でており」と続いた。そして10月は掲句のほかに「愛しいはいないの自乗彼岸花」という句もあった。猫の不在を実感するたびに、愛しさが募るというのである。作者の悲しみは薄れるどころか、秋の深まりとともに心の奥底まで広がっているようだ。
(迷 25.10.21.)
『この一句』
愛猫を亡くした作者の悲しみが惻々と伝わってくる句である。家に帰るといつも玄関に出迎えていた猫が死んだ。ドアを開けても、しっぽを立てて「お帰りなさい」と鳴き声をあげていた猫の姿はない。作者はその現実に、改めて喪失感をかみしめているのである。句末にぽつんと置かれた「秋」という言葉の持つ寂寥感が、作者の心境に重なり合っている。
犬がしっぽを振るのは喜びの表現であると、よく知られている。猫が飼い主にしっぽを立てるのも同様で、愛情、喜び、甘えを表しているという。子猫の時にしっぽを立てて母猫に構って欲しいとアピールしていた名残りのようだ。飼い主を母と慕い、しっぽを立てて出迎える猫。それが分かっている作者だから、子供を亡くしたような悲しみに暮れているのであろう。
作者は番町喜楽会で一番の愛猫家として知られ、可愛がっている猫のことを何度も句に詠んでいる。その猫がこの夏に病気の末に死んだと推察される。8月例会に「差し入れの新蕎麦すする猫の通夜」の句が出され、9月には「夜の秋猫の気配を撫でており」と続いた。そして10月は掲句のほかに「愛しいはいないの自乗彼岸花」という句もあった。猫の不在を実感するたびに、愛しさが募るというのである。作者の悲しみは薄れるどころか、秋の深まりとともに心の奥底まで広がっているようだ。
(迷 25.10.21.)
とりどりに森の香まとい茸汁 和泉田 守
とりどりに森の香まとい茸汁 和泉田 守
『この一句』
この句が発表された句会では「森の香まとい、がいいですね」(方円)という句評があったが、まさにその通り。この句はこれで成り立っている。
今や「入山禁止」とか「キノコ取らないで下さい」の看板があったりで、昔は気軽にやっていた里山の茸狩りも思うに任せなくなった。しかし、地方の「道の駅」や駅前の市場などには地元の人が採った「自然のキノコ」が積まれていることがある。十年ほど前、芭蕉が辿った奥の細道をゆく吟行会を重ねた折に、地場のキノコを買い求めては口福に酔いしれた。この大袈裟な表現が決して嘘ではなく、自然のキノコは味わい深く、何より香気がある。「沢山のきのこを知ってるわけじゃありませんが、きのこごとにそれぞれの香りがします」(青水)と、越後で生まれ育った人が言うのだから間違いは無い。
この取り立てのいろいろな茸を取り合わせた味噌汁は実にうまい。味噌ではなく、油揚か豆腐を入れて醤油をちょっと差した清し仕立ての茸汁もいい。口にすると山気というかキノコの香気が鼻腔を抜ける。汁をすすり、茸を噛むとそれぞれの茸特有の香りがする。確かに「森の香まとい」である。
今やそうしたキノコがスーパーでいとも簡単に極めて安価に手に入る。キノコ好きの筆者は毎日キノコ汁や茸料理である。しかし、残念ながら「森の香」はほとんどしない。それは心の中で感じなさいということか。
(水 25.10.19.)
『この一句』
この句が発表された句会では「森の香まとい、がいいですね」(方円)という句評があったが、まさにその通り。この句はこれで成り立っている。
今や「入山禁止」とか「キノコ取らないで下さい」の看板があったりで、昔は気軽にやっていた里山の茸狩りも思うに任せなくなった。しかし、地方の「道の駅」や駅前の市場などには地元の人が採った「自然のキノコ」が積まれていることがある。十年ほど前、芭蕉が辿った奥の細道をゆく吟行会を重ねた折に、地場のキノコを買い求めては口福に酔いしれた。この大袈裟な表現が決して嘘ではなく、自然のキノコは味わい深く、何より香気がある。「沢山のきのこを知ってるわけじゃありませんが、きのこごとにそれぞれの香りがします」(青水)と、越後で生まれ育った人が言うのだから間違いは無い。
この取り立てのいろいろな茸を取り合わせた味噌汁は実にうまい。味噌ではなく、油揚か豆腐を入れて醤油をちょっと差した清し仕立ての茸汁もいい。口にすると山気というかキノコの香気が鼻腔を抜ける。汁をすすり、茸を噛むとそれぞれの茸特有の香りがする。確かに「森の香まとい」である。
今やそうしたキノコがスーパーでいとも簡単に極めて安価に手に入る。キノコ好きの筆者は毎日キノコ汁や茸料理である。しかし、残念ながら「森の香」はほとんどしない。それは心の中で感じなさいということか。
(水 25.10.19.)
国東の水澄む磯の兜蟹 嵐田 双歩
国東の水澄む磯の兜蟹 嵐田 双歩
『季のことば』
たしかな秋の季節に入れば水が澄んでくる。池、湖、川はもちろん、海までも心なしか透明度が増してくるような気がする。秋の気持よさを表す季語の一つが「水澄む」である。水澄むところがどこかにあれば句を詠めそうだ。またこの澄明な季語を拝借して自分の心情をうたう抒情句を詠むこともできよう。
作者は舞台を大分の国東半島にもってきた。国東では神話の岩戸神楽にちなむ夜神楽が集落の秋の行事になっているようである。歴史遺産なら神仏習合発祥の地を物語る熊野摩崖仏があるほか、別府湾に面した日出町の崖上に日出城址がある。城下かれいで有名な磯浜が石垣の下まで迫り、海中からは清水がこんこんと湧き出ていて、かれいを美味にしているという。掲句は日出浜の風景を借りて、まさに「水澄む」を詠みあげたものと推察する。訪ねたことがない人でもこの風景を想像できるのではないだろうか。
「兜蟹」という古生代の生き物はこのあたりにもいるようだ。これが「水澄む」と対比をなしている。エイかと見まがうような、見るからに異形の節足動物がノソノソと磯に上ってきている光景だろう。神話の国東の水澄む透明感と、食用にならない兜蟹の無様な存在が句を面白くしている。新聞社の写真部記者であった作者が、いつか取材の途中見た実景と受け取っても間違いでなさそうに思えるのだが。
(葉 25.10.17.)
『季のことば』
たしかな秋の季節に入れば水が澄んでくる。池、湖、川はもちろん、海までも心なしか透明度が増してくるような気がする。秋の気持よさを表す季語の一つが「水澄む」である。水澄むところがどこかにあれば句を詠めそうだ。またこの澄明な季語を拝借して自分の心情をうたう抒情句を詠むこともできよう。
作者は舞台を大分の国東半島にもってきた。国東では神話の岩戸神楽にちなむ夜神楽が集落の秋の行事になっているようである。歴史遺産なら神仏習合発祥の地を物語る熊野摩崖仏があるほか、別府湾に面した日出町の崖上に日出城址がある。城下かれいで有名な磯浜が石垣の下まで迫り、海中からは清水がこんこんと湧き出ていて、かれいを美味にしているという。掲句は日出浜の風景を借りて、まさに「水澄む」を詠みあげたものと推察する。訪ねたことがない人でもこの風景を想像できるのではないだろうか。
「兜蟹」という古生代の生き物はこのあたりにもいるようだ。これが「水澄む」と対比をなしている。エイかと見まがうような、見るからに異形の節足動物がノソノソと磯に上ってきている光景だろう。神話の国東の水澄む透明感と、食用にならない兜蟹の無様な存在が句を面白くしている。新聞社の写真部記者であった作者が、いつか取材の途中見た実景と受け取っても間違いでなさそうに思えるのだが。
(葉 25.10.17.)
鰯雲手足拡げて露天風呂 前島 幻水
鰯雲手足拡げて露天風呂 前島 幻水
『季のことば』
鰯雲は秋の空を代表する雲だ。抜けるような青空いっぱいに白い雲の切れ端が絣のように並ぶ。大海原を大群のイワシが寄せて来るように見えるところから「鰯雲」と呼ばれるようになった。実際、この雲が現れると鰯が大漁になるとも言われている。また、魚の鱗に似ているところから「鱗雲」と言われ、鯖の腹背の斑紋のようにも見えるから「鯖雲」とも呼ばれる。とにもかくにも天高き空にこの雲が現れると、いかにも秋という感じになり、晴々とした気分になる。
この句はあまり混雑しない山間の温泉だろう。早めに宿について早速露天風呂に浸かる。誰もいない。思い切って大の字になり湯に浮かぶと、天高く晴れた空に鰯雲が広がっている。「ああ、いいですねえ。露天風呂で両手をう~んと拡げ空を仰いだら鰯雲。こちらも気持よくなってきました」(斗詩子)という句評が言い尽くしているが、まさに寿命が伸びる気がする。
この場面は年齢性別関係なく気持の良いものだろうが、特に年寄りには何とも言えない心地良さを与えてくれる。70歳を超えれば大概どこか具合の悪いところを抱えている。ましてや連れ合いに去られての独り住まいや、連れ合いが具合を悪くして自分も昔ほど自由に動けないといったことになれば、ごくたまに訪れるこうした機会は本当に極楽気分ということになる。
(水 25.10.15.)
『季のことば』
鰯雲は秋の空を代表する雲だ。抜けるような青空いっぱいに白い雲の切れ端が絣のように並ぶ。大海原を大群のイワシが寄せて来るように見えるところから「鰯雲」と呼ばれるようになった。実際、この雲が現れると鰯が大漁になるとも言われている。また、魚の鱗に似ているところから「鱗雲」と言われ、鯖の腹背の斑紋のようにも見えるから「鯖雲」とも呼ばれる。とにもかくにも天高き空にこの雲が現れると、いかにも秋という感じになり、晴々とした気分になる。
この句はあまり混雑しない山間の温泉だろう。早めに宿について早速露天風呂に浸かる。誰もいない。思い切って大の字になり湯に浮かぶと、天高く晴れた空に鰯雲が広がっている。「ああ、いいですねえ。露天風呂で両手をう~んと拡げ空を仰いだら鰯雲。こちらも気持よくなってきました」(斗詩子)という句評が言い尽くしているが、まさに寿命が伸びる気がする。
この場面は年齢性別関係なく気持の良いものだろうが、特に年寄りには何とも言えない心地良さを与えてくれる。70歳を超えれば大概どこか具合の悪いところを抱えている。ましてや連れ合いに去られての独り住まいや、連れ合いが具合を悪くして自分も昔ほど自由に動けないといったことになれば、ごくたまに訪れるこうした機会は本当に極楽気分ということになる。
(水 25.10.15.)
生きること生きていること水澄めり 山口斗詩子
生きること生きていること水澄めり 山口斗詩子
『この一句』
作者が体調不良やコロナ禍で、句会に顔をお見せにならなくなって久しい。それでも、毎月メール投句で句会に参加され、欠席選評も欠かさず送って来られ、それらを通してご健在を確認している。今春には、会報に随想を書いて欲しいとお願いしたところ、快くお引き受けいただき、ご自身の育った下落合の「おとめ山公園」散策にまつわる一文を頂戴した。亡くなられたご主人とのお見合いのエピソードなども交えた読み物で、初稿から最終稿に至るプロセスも含めて楽しませていただいた。
さて、この句。「生きること」と「生きていること」はどう違うのだろうと、思わず考えさせられてしまう。「生きること」は、まさに生きる営みそのもので、能動的な意志のようなものが感じられる。「生きていること」には、受動的に自身の生の在り様を振り返るような視線が感じられる。両者のあわいにあるもの、あるいは、両者合わさったものが、人生なのかもしれない。「水澄めり」の季語は、そのように人生を見つめる作者の心境を反映しているのだろう。
いずれあてずっぽうの解釈ではあるが、さらりと平易に詠まれているのにも拘らずとても意味の深い句である、という実感は間違っていない気がする。作者のつつがなきことをお祈りしたい。
(可 25.10.13.)
『この一句』
作者が体調不良やコロナ禍で、句会に顔をお見せにならなくなって久しい。それでも、毎月メール投句で句会に参加され、欠席選評も欠かさず送って来られ、それらを通してご健在を確認している。今春には、会報に随想を書いて欲しいとお願いしたところ、快くお引き受けいただき、ご自身の育った下落合の「おとめ山公園」散策にまつわる一文を頂戴した。亡くなられたご主人とのお見合いのエピソードなども交えた読み物で、初稿から最終稿に至るプロセスも含めて楽しませていただいた。
さて、この句。「生きること」と「生きていること」はどう違うのだろうと、思わず考えさせられてしまう。「生きること」は、まさに生きる営みそのもので、能動的な意志のようなものが感じられる。「生きていること」には、受動的に自身の生の在り様を振り返るような視線が感じられる。両者のあわいにあるもの、あるいは、両者合わさったものが、人生なのかもしれない。「水澄めり」の季語は、そのように人生を見つめる作者の心境を反映しているのだろう。
いずれあてずっぽうの解釈ではあるが、さらりと平易に詠まれているのにも拘らずとても意味の深い句である、という実感は間違っていない気がする。作者のつつがなきことをお祈りしたい。
(可 25.10.13.)
あるじなき庭にすゝきと思い草 工藤 静舟
あるじなき庭にすゝきと思い草 工藤 静舟
『この一句』
「思い草」とはまた珍しい草花を見つけてきたものだ。ススキなどイネ科の植物の根っこに取り付いて養分をもらい花咲かせる寄生植物で、正式な名前はナンバンギセルという。花の形が南蛮人のくわえているパイプに似ているからと、植物分類学が意識され出した江戸時代後期にそういう名前が付けられたようだが、それよりずっと以前から、日本人はそのひっそりと下を向いて咲く姿を好ましく感じたのだろう、「思ひ草」という名前をつけて愛玩し、歌に詠むなどしていた。『万葉集』にも一首載っている。
道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ (巻十)
「ススキの根方にうなだれて咲いている思ひ草のように今更ぐじゅぐじゅ思い悩んだってしょうがないや」といった、失恋のもやもやを吹っ切ろう、しかし、吹っ切るのもなかなか難しいという、涙ぐましい努力の、なかなか面白い歌だ。
掲句はどうか。住む人が居なくなって荒れた庭にススキが生茂り、そこにナンバンギセルが見る人もないままに咲いているという寂しい情景である。恋も失恋も無い。少子高齢化、地方都市の過疎化といった令和の今を詠んでいる。古風な衣装をまとった時事句とでも言えばよかろうか。これまた面白い句だ。
(水 25.10.11.)
『この一句』
「思い草」とはまた珍しい草花を見つけてきたものだ。ススキなどイネ科の植物の根っこに取り付いて養分をもらい花咲かせる寄生植物で、正式な名前はナンバンギセルという。花の形が南蛮人のくわえているパイプに似ているからと、植物分類学が意識され出した江戸時代後期にそういう名前が付けられたようだが、それよりずっと以前から、日本人はそのひっそりと下を向いて咲く姿を好ましく感じたのだろう、「思ひ草」という名前をつけて愛玩し、歌に詠むなどしていた。『万葉集』にも一首載っている。
道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ (巻十)
「ススキの根方にうなだれて咲いている思ひ草のように今更ぐじゅぐじゅ思い悩んだってしょうがないや」といった、失恋のもやもやを吹っ切ろう、しかし、吹っ切るのもなかなか難しいという、涙ぐましい努力の、なかなか面白い歌だ。
掲句はどうか。住む人が居なくなって荒れた庭にススキが生茂り、そこにナンバンギセルが見る人もないままに咲いているという寂しい情景である。恋も失恋も無い。少子高齢化、地方都市の過疎化といった令和の今を詠んでいる。古風な衣装をまとった時事句とでも言えばよかろうか。これまた面白い句だ。
(水 25.10.11.)
アフリカより来たる人類鰯雲 廣田 可升
アフリカより来たる人類鰯雲 廣田 可升
『この一句』
こうした破調で字余りで、しかも些か捉えどころのないモチーフで詠った俳句は、毀誉褒貶半ばすることが多い。果たして句会でもあまり賛同は得られなかった。でもわずか17音という弱小芸術で、こういう大ぶりな視点で・大仰な表現で訴えられると、何故か心にしみて来る。この季語にぶつけたこの想念に、ボクはすっかりやられてしまった。
大陸を渡ってきた透き通った秋の空は、それだけで気持ちいい。忙しなく働いている時でも、交差点で立ち止まっている時でも、ふと天を仰いだ瞬間、たちまちのうちに、すーっと気持ちが整ってゆくことがある。何故か一瞬のうちに心が洗われ、力が注入される。ましてや山に向かって、沖に向かって、腰を落ち着けて、どこまでも青く澄み渡っている秋の空に浸っていると、心身ともに現実から遊離して行く。
そんな時、人によって思うことはさまざま。作者同様、ボクも勝手に心がさ迷い出してゆく経験が何度もある。古今東西、老若男女、いつの時代でも良くあることに違いない。
ところが作者はこの季語に、よりによってこんなエピソードを添えた。言い方を変えるとこれ見よがしに聞こえかねない気障な想念である。でもこれが肝である。教養が零れてしまった、とも言える。だってそう思った、そう感じたんだから。そんなあっけらかんとした作者の呟きが聞こえてくるようだ。
(青 25.10.09.)
『この一句』
こうした破調で字余りで、しかも些か捉えどころのないモチーフで詠った俳句は、毀誉褒貶半ばすることが多い。果たして句会でもあまり賛同は得られなかった。でもわずか17音という弱小芸術で、こういう大ぶりな視点で・大仰な表現で訴えられると、何故か心にしみて来る。この季語にぶつけたこの想念に、ボクはすっかりやられてしまった。
大陸を渡ってきた透き通った秋の空は、それだけで気持ちいい。忙しなく働いている時でも、交差点で立ち止まっている時でも、ふと天を仰いだ瞬間、たちまちのうちに、すーっと気持ちが整ってゆくことがある。何故か一瞬のうちに心が洗われ、力が注入される。ましてや山に向かって、沖に向かって、腰を落ち着けて、どこまでも青く澄み渡っている秋の空に浸っていると、心身ともに現実から遊離して行く。
そんな時、人によって思うことはさまざま。作者同様、ボクも勝手に心がさ迷い出してゆく経験が何度もある。古今東西、老若男女、いつの時代でも良くあることに違いない。
ところが作者はこの季語に、よりによってこんなエピソードを添えた。言い方を変えるとこれ見よがしに聞こえかねない気障な想念である。でもこれが肝である。教養が零れてしまった、とも言える。だってそう思った、そう感じたんだから。そんなあっけらかんとした作者の呟きが聞こえてくるようだ。
(青 25.10.09.)