新緑やキリンは長き舌伸ばし   嵐田 双歩

新緑やキリンは長き舌伸ばし   嵐田 双歩

『合評会から』(酔吟会)

水牛 駆け出しの社会部記者だった頃。事件が起きず何もない日になると、鬼デスクが「カメラを連れて、絵解き(写真に添った、お天気のことや、季節の風物など)を作って来い」。私は「困ったときの動物園」というわけで上野にしょっちゅう行っていました。キリンの舌がずいぶん長いことを知ったのもそのころのことです。
双歩【自句自解】薄緑の輝くような新緑は、とても美味しそうです。キリンや鹿のように、むしゃむしゃと食べている姿に嫉妬もします。という発想から、キリンの異様に長い舌にスポットを当てました。
          *       *       *
 子供が小さかった頃、千葉の動物公園でキリンに出会いました。ごく近くまで近寄れたので、先ずキリンの大きさに圧倒され、次いで傍の立木の若葉を食う時の、舌の働きに驚きました。この句はその時のボクの感動を再現していましたので、特選句としました。
 この句の兼題は新緑です。新緑とキリンの連関に無理がなく、という以上に、とてもうまくマッチしています。そこではたと気づきました。キリンを斡旋して季語新緑をどう調理するのか。自分で創作するつもりで取り組んだとして、果たしてこの措辞にたどり着けるか。こなれた作者の手腕に脱帽です。
(青 26.05.21.)

「みんなの俳句」来訪者が33万人を超えました

「みんなの俳句」来訪者が33万人を超えました

 俳句振興双牛舎が2008年(平成20年)1月1日に発信開始したブログ「みんなの俳句」への累計来訪者が、5月19日に33万人を超えました。この盛況は一重にご愛読下さる皆様のお蔭と深く感謝いたします。
 ブログ「みんなの俳句」は双牛舎参加句会の日経俳句会、酔吟会、番町喜楽会の会員諸兄姉の作品を取り上げ、「みんなの俳句委員会」の幹事7人がコメントを付して掲載しています。
 このブログへの来訪者はスタート当初は一日10人台でしたが、最近は1日500人を越える日も出る賑わいぶりです。発信開始後11年かかって累計来訪者が10万人となり、それから5年後の2023年9月に20万人に到達、そして2年3ヶ月後の25年12月には30万人を突破しました。26年に入ってからも順調に来訪者を増やし続けています。
 幹事一同、これからも力を尽くしてこのブログを盛り立てて参る所存です。どうぞ引き続きご愛読のほどお願いいたします。
     2026年(令和8年)5月20日 「みんなの俳句」幹事一同

むくむくと新緑満ちて山太る   向井 愉里

むくむくと新緑満ちて山太る   向井 愉里

『この一句』

 春に若葉を伸ばした山の木々が、夏を迎える頃には日に日に勢いを増し、緑を深めて行く。そんな初夏の山を活写した句である。むくむくというオノマトペと、作者の造語と思われる「山太る」という措辞がとても効果的で、確かにそうだなと思わせる説得力がある。
 四季折々の山の姿を表す季語として、山笑ふ(春)、山滴る(夏)、山装ふ(秋)、山眠る(冬)がよく知られている。中国・宋時代の漢詩集「臥遊録」から採られたもので、『春山、淡冶にして笑ふがごとし。夏山は、蒼翠にして滴るがごとし。秋山は、明浄にして粧ふがごとし。冬山は、惨淡として眠るがごとし』という詩句による(水牛歳時記)。
 作者は房総半島の中央にある久留里という盆地の出身で、最近は高齢になった両親の世話のため、埼玉の自宅と実家を行ったり来たりしているという。だから実家の周りの山々が日ごとに緑の葉を増やし、繁りを豊かにして行く様を目にしているのである。「山太る」はまさに実感であろう。「むくむく」という擬態語の組合わせもぴったりで、初夏の山の生命力を直截に伝えている。
 久留里は俳句会の吟行で一年ほど前に訪ねたことがある。それほど大きな盆地ではないので新緑の山々が近くに迫って見えた。山に降った雨は地下水となって湧き出し、名水の里としても知られる。あの久留里を詠んだ句と思うと、さらに印象深い。
 一緒に吟行に行った双歩氏の「山太るはユニークな表現。山笑うと山滴るの間を埋める季語になりそう」という句評を最後に添えておこう。
(迷 26.05.19.)

嬉しげに開く吾子の手青蛙    岩田 千虎

嬉しげに開く吾子の手青蛙    岩田 千虎

『この一句』

 幼児のなかには、蛙、イモリなどの小動物やセミ、バッタなどの昆虫類に忌避感を抱かず、むしろ積極的に遊び相手とする子がいる。『堤中納言物語』に登場する平安朝の「虫めづる姫君」は風変わりな若い女性として描かれているが、現代ではそんな子はいくらでもいる。筆者の男の子の孫も、4、5歳のころダンゴムシを手のひらに乗せて遊んでいたのを思い出す。異形な存在を怖いとも、汚いとも感じないのが幼年期なのだろう。
 作者はもうとうの昔に子育てを終えた女性だが、5月の酔吟会に雑詠として掲句を出してきた。なんでも保育園に通う息子さんが、笑いをかみ殺しながら家に帰ってきたという。母親の作者に見せようと、目の前で手を開いて青蛙を放ったそうだ。蛙が大嫌いな作者は驚くばかり、捕まえもできず大騒ぎになったのだ。その思い出を句にしたと自句自解している。
 この句には、悪戯っ子が手替え品替え、親をびっくりさせようとする子の癖を詠んでいて共感する。「そうそう、うちの子にもそんなことがあったなあ」と。それら昔の情景はなんなく脳裏に再現できる。「嬉しげに」との上五が効果的なのだろう。試みに「得意げに」と替えてはどうかと思ってみたが、やはり嬉しげがこの場面にぴったり嵌まるようである。
(葉 26.05.17.)

ため息で暮れる憲法記念の日   廣田 可升

ため息で暮れる憲法記念の日   廣田 可升

『合評会から』(番町喜楽会)

迷哲 まさに今の状況を踏まえた、すぐれた時事句ですね。声高にいうのではなく、「ため息で暮れる」がいい。
光迷 マスコミも悪いよね。どこで集会がありましたとか、去年の記事のコピーのようなものを流しているだけ。アンケートにしても、ただ賛成か反対かだけでは意味がない。どこをどういう内容に、という踏み込みをしないと…。
満智 同感です。今は怒りよりため息になってしまいました。無力感が募る憲法を巡る昨今の状況ですね。
水牛 子や孫の将来を考えれば、われら老人は「ため息で暮れる」なんて言っている場合じゃないと思うよ。
可升(作者) 日本の憲法問題だけじゃなく、世界中あちこちで戦争や人権にまつわる、善悪の価値観が大きく揺らいでいます。それは為政者の問題だけど、それ以上に、彼らを支持する普通の人が大勢いることがいつも気にかかっています。それを煽るSNSなども含めたメディアの問題も大きく、とても根の深い問題だと思います。
          *       *       *
 衣食足りて礼節を知る、という。結婚したくても収入が不安でできない、持家なんて夢のまた夢という人が増えている。そういう人達が憲法について考える暇なんかないというのは本音だろう。作者の言葉を聞いて感じるのは、こんな社会に誰がした、ということ。だから、溜め息がこぼれるのではないか。
(光 26.05.15.)

五月雨や上ル下ルの京の町    須藤 光迷

五月雨や上ル下ルの京の町    須藤 光迷

『この一句』

 酔吟会五月例会で高得点をあげた句であるが、一方で、どんな季語でもはまるという指摘があった。また、類句が多いという指摘もあった。筆者もどこかで聞き覚えのある句だと思い、選句の合間にスマホで調べてみた。たちまち、「汗かいて上ル下ルの京の町」「花冷や上ル下ルの京の町」など、上五の季語以外はまったく同じ措辞の句があらわれ、類句多しを指摘する側にまわった。
 類句多しの指摘は厄介である。句を詠んだ当人は、知らなければ、あるいは、気づかなければ、あくまでも、自分が発見した事象を、自分のお気に入りの措辞を用いて詠んだ固有の句である。そう思って、もう一度この句にあたると、「上ル下ル」という特異な地名を持つ古都を、梅雨の長雨が濡らしている、とてもしっとりとした風情のある句である。類句なかりせば、である。
 数年間京都に暮らした身には、洛中の地名はとても便利で、地図を持たずともだいたい目的の場所にたどり着けた。この句を読むとすぐに「丸竹恵比寿二押御池姉三六角蛸錦」、懐かしいわらべ歌が頭の中で流れ始めた。ほんとは、類句なんか気にせず、素直に一票入れた方が良かったのかもしれない。
(可 26.05.13.)

淡々とシニア雇用になりし春   中野 枕流

淡々とシニア雇用になりし春   中野 枕流

『この一句』

 一読してしみじみと良い句だなあと思った。それなりに長くその職に就いていてこそ生まれる感慨をさらり・そろりと呟いている。シニア雇用という殺伐とした言辞も淡々という措辞と季語・春の間にすんなりと収まって、詩情さえ漂わせている。過不足ない熟年の境地を吐露した佳句だと思った。
 ところが句会ではこの淡々をめぐって見解が分かれた。「淡々とはその様子を他人が見ていて、その姿かたちに対して用いる表現なのではないのか。俳句は原則的には自分のことを述べているのだから、自分を淡々というのはいかがなものか」(嵐田双歩)。実に鋭くて説得力のある指摘だ、と思った。
 そこで。作者に無理を言って自句自解してもらった。すると。作者は四月末に定年を迎え、形はシニア雇用に変わるが「席も仕事の中身も不変」だとのこと。句作にあたっては自分が思うほどには評価されなかったというルサンチマンも込めて、淡々の上五を据えたという。決して安直に置いた措辞ではないこともわかった。
 「淡々とにどんな意味が込められているのか」(和泉田守)、「定年退職時はいろいろと思うところがある。それを淡々としたところが秀逸」(高井百子)、「春の句ですなあ」(堤てる夫)などなど。この佳句を皆さんはどう、鑑賞されますか。
(青 26.05.11.)

春風が卒寿の妻を追って行く   大沢 反平

春風が卒寿の妻を追って行く   大沢 反平

『合評会から』(日経俳句会)

迷哲 九十歳の奥さんはお元気で、とことこと歩いているのでしょう。穏やかな風がそれを追いかけるように吹いている、誠にめでたい春の光景ですね。
実千代 ほのぼのとした気持ちが伝わってきました。
鷹洋 九十歳になった老妻の後ろ姿を見て、共に暮らしてきたことに感謝している。
ヲブラダ その行方が気になります。
          *       *       *
 実にいい情景だ。この句の作者夫妻は気候温暖・風光明美な三浦半島の老人ホームにお住まいだから、うららかな春の日、園内をそぞろ歩きなさる奥様の介添えをしながらの一句であろう。
 「追って行くという表現がちょっとピンとこなかった」という感想が合評会で出た。確かに、春風は北風と違って「追う」ほど強くは吹かないかもしれない。しかし、高齢・病弱の奥さんの背中を「春風がそっと優しく押してくれているよ」というのは、いかにも愛妻家の反平さんらしい詠み方で、とても感じの良い、ほのぼのとする句だと思う。「その行方が気になる」との思いもむべなるかなだが、これはもう、それこそ春風に聞くより仕方がなかろう。
(水 26.05.09.)

水底をしの字への字に田螺這う   篠田 朗

水底をしの字への字に田螺這う   篠田 朗

『季のことば』

 田んぼか池の底で見つけた田螺(たにし)の這った跡をユーモラスに詠み、春暖の陽気あふれる句である。幼い頃の記憶をよみがえらせて採った人が結構いて、4月の日経俳句会で高点を得た。
角川俳句大歳時記によれば、田螺は淡水産の巻貝で、日本各地の池や田の泥に棲む。泥の中で冬眠し、春になると水底を這い回る。そのため春の季語とされ、這った跡を「田螺の道」という。「田螺鳴く」という季語もあるが、実際には鳴かない。
 近年は農薬の使用により田んぼでは見かけなくなったが、昔は農村の貴重なたんぱく源として獲って食べた。早春のものは身が柔らかいうえに臭みがなく、美味しいという。煮たり味噌和えにすることが多い。歌人の斎藤茂吉は大の田螺好きで、「味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が喉佛うれしがり鳴る」という歌まで残している。
 掲句は田螺の道を、いろは文字に例えたところが面白い。水底を自在に這い回るので、どんな文字でも描きそうだが、形の単純な「しの字」と「への字」なら、いかにもありそうと思わせるところが巧みである。「昔は田舎でよく見ました 青水」など、採った人の記憶とも重なったようだ。
 句会で作者が語ったところによれば、埼玉・川口辺りの昔の田んぼの光景を詠んだという。「篠田の言葉遊びで、しの字、のの字にしようかと思ったが、やり過ぎかなと思い直して、への字にした」というユーモアあふれるコメントに、会場は笑いに包まれた。
(迷 26.05.07.)

亀鳴くやあの本どこかその下か  伊藤 健史

亀鳴くやあの本どこかその下か  伊藤 健史

『この一句』

 これは本好きの積ン読派なら誰しも経験のある話だ。何かのきっかけで、ある本が必要になった。さてどこにあるか。書棚や本箱を探すが見つからない。書斎、居間、ありとあらゆる隙間に本が詰まっており、床にも積んであるから、見つけ出すのは容易ではない。
 日頃、「読みもしない本をそんなに買い込んでどうするつもり、足の踏み場も無いとはまさにこれよ」と金切り声を上げている家人は、当然のことながら助けにはならない。「ほーらごらんなさい、いい気味だ」と嬉しそうな顔をしている。
 「亀鳴くとどう繋がるのか分からないが、とぼけた感じで良かった」(方円)、「本当に探している本ほど見つからない。あるあるですね。きっと亀の仕業に違いない」(水兎)、「私にも実体験があるので共感しました。探しても目当ての本がないので、仕方なく違う本を読んだりして・・」(富士子)というように、俳句を詠む人には総じてこの種の失敗が付き物のようだ。
 「意外に探し物はその辺にあるもので、『どこかその下か』が上手い」(木葉)という句評もあった。そうなのだ。もう問題が解決して「その本」が無くてもよくなった途端に、ひょっこり出て来るのだ。まさに亀が鳴きそうな情景である。
(水 26.05.05.)