この頃は客人もなし蛍草     高井 百子

この頃は客人もなし蛍草     高井 百子

『季のことば』

 蛍草(ほたるぐさ)は、道端や庭の隅で青い可憐な花をつける露草(つゆくさ)の別名である。露草は古名を「つきくさ」といい、朝咲いた花が昼には凋み、朝露のように儚いことから露草と呼ばれるようになったとされる。その可憐さ、儚さを愛で、古くから和歌や俳句に詠まれてきた。開花期は6月から9月で7月が盛期だが、秋の季語となっている。
 掲句の作者は螢草の咲く庭を眺めながら、誰も訪ねて来ない「この頃」に思いを巡らせている。素直に読めば、コロナ禍による外出自粛で、客がほとんど来なくなった「新常態」を嘆いている句であろう。さらに深読みをして、リタイア後に来客が減った老年の境遇を「この頃」に重ね合わせているのではないかと考えた。
 名乗り出た作者によると、コロナの「この頃」を詠んだものという。作者が5年前に移り住んだ上田市の自宅は、独鈷山の借景と広い庭があり、ゆったりとした間取りの一軒家だ。家族はもちろん、友人、知人の訪れは頻繁で、句会の吟行でお世話になったこともある。千客万来の賑わいが急に失われた淋しさが「この頃は客人もなし」の上五中七に滲む。季語の蛍草のひっそりとした佇まいが響き合い、しみじみとした感懐を覚える佳句である。
(迷 20.07.27.)

酒蔵の深井戸浚ふ上総かな    徳永 木葉

酒蔵の深井戸浚ふ上総かな    徳永 木葉

『この一句』

 句会の兼題に「晒(さらし)井(い)」(井戸替(かえ)、井戸浚(さらえ))が出てきた時、「古いね」と呟いた。井戸の底にたまった木の葉やゴミなどを浚い、水をきれいにすることである。東京区内でも第二次大戦の前後の頃は、ほとんどの家庭が井戸を頼りの生活だったから、馴染のある作業だった。しかしいま、その実態を知る人がどれだけいるのだろうか。
 私の幼い頃、大雨などで生活水が濁れば“井戸屋さん”に来てもらい、水をきれいにしていた。しかし近所の地主とか資産家の井戸替となると、一般家庭とは比較にならぬスケールである。井戸屋のほか、元気のいい人たちが集まり、男の意気の見せどころとなる。近所の子供たちは飴玉などを貰い、お祭りに行った時のように喜々としていた。
 しかしいま、日本の水道普及率は98%以上。井戸替などあるとは思えないのだが・・・。掲句を見て「なるほど」と納得した。「酒蔵」であり「上総の深井戸」なのだ。いかにも晒井の雰囲気である。とは言え夏井いつきさんの著書名を借りれば「晒井」の「絶滅寸前」状態は変わらない。出題者は失われゆく季語を惜しんだのだ、と私は思っている。
(恂 20.07.26.)

夏空に火球の光宇宙知る    髙橋ヲブラダ

夏空に火球の光宇宙知る    髙橋ヲブラダ

『合評会から』(日経俳句会)

博明 「宇宙知る」がいいですね。普段何気なく見ている空ですが、妙な物体を見ると、突如として宇宙のことを考えてしまいます。
木葉 宇宙の神秘ははかりしれないが、「宇宙知る」の「知る」は余計な感じがする。「宇宙かな」で十分と思いましたが。
水馬 隕石だったようですね。「宇宙知る」が大げさで唐突で好きな句です。
睦子 ニュースでは習志野で隕石の破片を発見とありましたね。
ゆり 落ちて来た石が宇宙由来だったとのニュース。理系女(リケジョ)の娘から解説されました。
          *       *       *
 作者はよほど宇宙の神秘に取り憑かれているようで、暇さえあれば空を見上げているらしい。「実は火球を目撃したことがあります」と言う。1996年1月7日16時21分、根津を散歩していた時だそうだ。火球(隕石が分解した瞬間)が見えて間もなく大きな音が鳴り、何かなと思い、空に残った煙(隕石雲という珍しい現象)を追い掛けたというのだから凄い。
 火球だ隕石だと聞くと、たちまち24年前の興奮が呼び覚まされ、こうして一句生まれる。私もこれからせいぜい空を見上げることにしよう。
(水 20.07.24.)

テレワーク終へてTシャツ半ズボン 前島幻水

テレワーク終へてTシャツ半ズボン 前島幻水

『季のことば』

 「半ズボン」を採っていない歳時記もあるが、まぎれもなく夏の季語。戦後しばらくは半ズボンの大人が少なくなかった記憶がある。いま半ズボン姿といえば、私立小学校の児童を思い浮かべる。強いて大人の半ズボン姿を探せば、リゾート地のゴルフ場にちらほら見られるほどか。ズボンを短くするのは、冷房施設のなかった戦後に欠かせない省夏方法だったのだ。現代ではバミューダショーツのような短いズボン(古い世代のせいかパンツと呼べない)が若者の定番になっているようだ。
 コロナ禍により出勤せず、自宅でオンラインの仕事をする昨今である。テレワークと称しZOOMほか様々なIT技術を使い、時には対面での仕事となる。対手が上司ならTシャツでというわけにはいかない。雲の上の上役ともなればスーツにワイシャツが求められもしよう。緊張の対面が終わってやれやれと、Tシャツ半ズボンに着替える情景を愉快に詠んだ、極めて今日的な俳句だ。
 余談ながらスーツの下はパジャマのズボンと〝告白〟した人もいる。季語「半ズボン」の復権は、温暖化の激化とコロナ禍生活がいつまで続くかにかかっている。
(葉 20.07.23.)

エコバッグ土用の丑を持ち帰る  杉山 三薬

エコバッグ土用の丑を持ち帰る  杉山 三薬

『季のことば』

 季語は「土用」で、「元来は春夏秋冬それぞれの終わりの18日間を言うが、今日ではもっぱら夏の土用だけが話題にされている」(水牛歳時記)。立秋前の新暦7月19日ごろからで、一年で最も暑い時期にあたる。土用の丑の日に鰻を食べる風習があるが、江戸時代の天才学者・平賀源内が広めたという説が伝わる。夏の売り上げ減に悩む鰻屋に頼まれ、「本日丑の日」の看板を掲げさせ、鰻を食べると元気になると説くと飛ぶように売れたというもので、土用鰻という季語もある。
 例年なら丑の日前後は鰻屋に行列ができるが、掲句はコロナ禍で様相が違う店先を詠む。老舗も客足が減り、テイクアウトを始めた店も多い。作者も店内を避け、持ち帰りを選んでいる。しかも7月からのレジ袋有料化に対応し、エコバッグの用意も怠りない。今の世相を二重に詠み込んだ巧みな時事句といえる。
 今年の丑の日は暦の巡り合わせで、7月21日と8月2日の2回ある。鰻屋はもちろんスーパーも、冷え込んだ消費を喚起しようと宣伝に努めている。稚魚のシラス漁獲がやや回復し、値段も昨年より安くなっているという。読者の皆さんは、どんな土用の丑を食されるのであろうか?
(迷 20.07.22.)

海も山も駄目か今年の夏休み   井上庄一郎

海も山も駄目か今年の夏休み   井上庄一郎

『この一句』
 「今年の夏は、海も山も駄目か」と嘆いている作者は、卒寿を越えてますます元気に作句を続けている。大好きな山歩きは控えていると聞くが、矍鑠として句会にも出席し、「自分のことを言われたみたい」などと軽妙な句評を述べたりもしている。掲句はそんな作者がふっと口をついて出た呟きを、そのまま句にしたような作品だ。
 日常の呟きがそのまま俳句になったといえば、正岡子規の「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」が有名だ。前書に「母上の詞自ら句になりて」とあり、子規の母、八重さんが「彼岸の入りに寒いのは毎年のことよ」とでも言ったのかもしれない。無技巧の技巧とでもいうのだろうか。ふと口から出た台詞がたまたま575に収まった句は、変にこねくり回さない分、読者に素直に届く。
 コロナ禍での本格的な夏を迎え、句会では掲句も含め「祭りなき夏の暦の白さかな(博明)」や「夏休み空白のまま近づきて(ゆり)」などの投句があった。初めて経験する異常事態に価値観や生活が一変する中で、令和2年の短い夏休みが始まる。
(双 20.07.21.)

夜濯ぎや上は銀座の美人ママ   田中 白山

夜濯ぎや上は銀座の美人ママ   田中 白山

『季のことば』

 夜濯(よすすぎ)とは夜にする洗濯のこと。江戸の庶民は持っている着物の数が少ないため、汗をかく夏は肌着類を夜風が立ってから洗い、翌朝には乾いたものを着た。夜の洗濯は昭和の初めまで夏場に盛んに行われてきたので夏の季語となっている。(水牛歳時記などによる)
洗濯機が普及した現代は、夜濯の必要性も季節性も薄れてしまっている。句会ではこの兼題に対し、夜に洗濯した経験やその事情を詠んだ句が多く出された。掲句はその夜濯に銀座のママを登場させ、目を引いた。
若い男の住むアパートの上の階には、銀座のママとおぼしき美人が住んでいる。夜中に聞こえる洗濯機の音から、ママの暮らしぶりを想像する。そんなニヤリとする場面を思い描いて票をいれたが、他に選んだ人はいなかった。考えてみれば、銀座のママが洗濯機の音が響くような安アパートに住んでいるはずがない。状況が作為的すぎて、創作句と見られたのであろう。
作者に聞くと50年以上前の若き日の実体験をもとにした句という。確かに昭和三十年代であれば、銀座のママが同じアパートに住んでいても不思議ではない。追憶句とすれば、美人であったかどうかも含め時の経過による脚色がありそうだ。
(迷 20.07.20.)

ひきがへる夜の歩道の真ん中に   旙山 芳之

ひきがへる夜の歩道の真ん中に   旙山 芳之

『季のことば』

 蟇(ヒキガエル)はずんぐりむっくりして、黒褐色の背中はいぼいぼ、腹側はぬめっとした感じの乳白色の皮膚に灰色の雲型の斑紋がある。何とも気持が悪いとご婦人方には嫌われ、悪童にはいじめられるが、実におとなしく、悪さを全くしない。それどころかうるさい蚊や蠅や蛾をせっせと捕ってくれる貴重な生き物である。
 水温み始める頃、冬眠から醒め枯葉や穴の中から這い出して田圃や池沼で雌雄合体し、寒天状の長い紐のような卵塊を生むと、また土の中に潜って春眠をむさぼる。そして4月末から5月になると再登場、今度は寒くなるまで地上で活動する。活動と言っても動きは鈍く、昼間は物影に潜み、夕闇迫る頃に出て来て食糧になる昆虫を捕る。それも暗闇にじっとうずくまって口を開け、虫が寄って来ると舌で吸い取ったり、呑み込んだりする何とも悠長なやり方だ。
 あまり人を恐れず、夜間の歩道にどでんとしている。街灯に集まる虫をねらって歩道に出て来るらしい。この句はその様子を見たまま詠んで、ユーモラスな感じを与える。筆者も全く同じ情景に出くわすこと再三。最寄駅から我が家への「せせらぎ緑道」という歩道に毎夜現れる。「お前踏んづけられちゃうよ」と声掛けるのだが、無論聞く耳持たぬ。無念無想、いかにもガマ仙人といった風情だ。
(水 20.07.19.)

夜濯や今日落としたき汚れあり  斉山 満智

夜濯や今日落としたき汚れあり  斉山 満智

『合評会から』

命水 いったい何があったのでしょうか。上司に叱られたのか、客先でいやな思いをしたのか?
光迷 何かいやなことがあったのか、体のことなのか、と考えさせられます。
春陽子 物理的なシミだけでなく、「汚れ」の内容を読み手に考えさせるという事でしょうか。
          *       *       *
 筆者も一票を投じた句である。この句は「しつこい汚れが着いてとても明日まで放置できない。今夜中に洗濯してしまおう」と解釈することが出来る。と言うか、文字面を素直に追いかければ、そう解釈するのが自然である。
 ところが、この句を評価した人は、筆者も含めて、誰もそのようには読んでいない。心の中に引っかかる何かがあるのだろうと、この句を採り上げた全員がそう解釈している。この日の句会に作者は欠席されていたので、句意をお聞きすることが出来なかったが、おそらく、一句にこめた作者の思いは正確に読み手に伝わっているだろう。
 修辞の方法としてこういうのは何というのだろう、「暗示」だろうか、「寓意」だろうか。しかし、この句にはそんな作用へ誘導するような、作為的な措辞は見当たらない。それでいて、読み手を「こういう経験あるよなあ」という共感に引き込む。言葉の不思議を感じさせる句である。
(可 20.07.17.)

短夜や夢の続きを惜しむ夢    高石 昌魚

短夜や夢の続きを惜しむ夢    高石 昌魚

『季のことば』

 夏至を中心に夜が最も短くなる頃の季語として、「短夜」とその裏返しの言い方である「明易し」(あけやすし)があり、俳諧の時代から盛んに詠まれ続けてきた。遡れば、万葉、古今の和歌にも沢山歌われている。
 ただ、夏至の頃の本州付近は梅雨の最中であり、夜が明けても日が差さず暗いままだから、短夜や明易しの感じがもう一つぴんと来ない。短夜をしみじみ感じるのは7月中旬の梅雨明け頃ではないか。
 それはともかく、この時期は猛暑に向かう頃でもあり、寝苦しく、眠りが浅くなってよく夢を見るようになる。この句は、それをとても面白く詠んでいる。おそらく楽しい夢だったのだろう。しかし、夢は大概いいところでぷつんと切れてしまう。それで、その続きを見たいなあとつぶやいている夢を見ているというのだ。「うん、あるある」と共感する向きも多かろう。
 しかし、夢というものは「かくあらまほし」という願望の為せる業なのだろうから、大願成就、大団円を見届けることはあり得ないのではないか。「見果てぬ夢」という言葉があるように、常に「夢の続きを惜しむ夢」を見続けることになるのであろう。
(水 20.07.16.)