ああ今朝も生きていたなあ冬桜  大澤 水牛

ああ今朝も生きていたなあ冬桜  大澤 水牛

『合評会から』(日経俳句会令和2年下期合同句会)

てる夫 多くの人が「ああ今朝も生きていた」と思っている。人生航路と「冬桜」の取合せがいい。
百子  私も寒い朝に起きてこんなふうに思うことがあります。
明古  この半年以上の日々、朝目が覚めての私の第一声です。つくづく生きていることに感謝です。
双歩  俳句は素直に詠むものだと勉強になった句です。

        *       *       *

こういう句はつくづく難しいなあと思う。ひとつ間違うと滑ってしまってどうしようもなくなる。理由のひとつは口語体であること。文語体のように何かを隠してくれることがなく、むき出しの句になってしまう。もうひとつの理由は心情吐露の句であること。少し表現を違えると、あざとい句になってしまう。そんなリスクをものともせず、この句がとても良い句になっているのは、変な細工をせずに、作者が感じたことを素直に言葉にしたことだと思う。朝起きて思ったことをそのまま言葉にしてみました、という句になっている。それぞれの選者の評言は、作者の思いがストレートに読み手に伝わったことを示している。
 この句にとっては「ああ」が良かった、と思う。「嗚呼」は的外れ。「あゝ」も少し違う。「ああ」の穏やかさがとても良いように思う。
(可 21.01.19.)

冬ざくら二つ違いの姉のこと   横井 定利

冬ざくら二つ違いの姉のこと   横井 定利

『合評会から』(日経俳句会)

可升 ご健在なのか亡くなったのか、いずれにしろ蒲柳の質のお姉さん。「冬桜」に合っている。
双歩 二物衝撃の句。「冬桜」に合っているかどうか。
水牛 遠くに住んでいるお姉さんでしょうか。「冬桜」には合っているよね。
明生 「冬桜」は一人暮らしの姉の寂しさを表していると同時に妹の心情であると思いました。
阿猿 薄明かりのような冬桜を見て、会えないお姉さんを思う切なさが伝わってきます。
弥生 いつも気にかけてくれる姉が、冬桜の季節には一層気になる。儚さも秘める季語が効果的。
           *       *       *
 冬桜は冬季に花を咲かせる桜。水牛歳時記によれば「ヤマザクラやオオシマザクラの雑種で、春のソメイヨシノに比べ、木も花も小さく、ほとんど白に近い淡紅色」である。花は地味で寂しげだが、冬枯れの中に見つけると、その清楚さや寒さに負けず咲く健気さが胸に迫ってくる。
 掲句は冬桜のイメージに姉を重ねている。「二つ違い」の措辞から、歳が近く仲が良かったのだろうと推測される。さらに「姉のこと」で止めた下五によって余白が生まれ、その姉の性格や境遇にまで読者の想像が広がっている。芭蕉に「さまざまのこと思ひだす桜かな」の句がある。桜は咲くにつけ散るにつけ、見る人の追憶を誘う。まして冬桜は、その追憶に切なさが加わるようだ。
(迷 21.01.18.)

遠見の木近付くほどに冬桜    水口 弥生

遠見の木近付くほどに冬桜    水口 弥生

『この一句』

道の遠くに街路樹と少し違う枝ぶりの木が見える。ぼうっと霞んだように見える。自分の目当ての場所はその方向だから、眺めるともなく時々見やりつつ近づいて行く。
十メートルほどになると、はっきりした。なんと冬桜ではないか。ぼうっと霞んだように見えたのは、枯枝に一杯ついた花だったのだ。思わず早足になり近寄って見上げた。
冬桜は春のソメイヨシノは言わずもがな、地味なヤマザクラやオオシマザクラに比べてもずっと地味な咲き様である。高さ3、4メートルの木に数え切れないほど咲いているのだが、春の桜と違って、花と花の間隔がかなり空いているし、花びらが小さく、色合いも白っぽいから心なしか寂しい。けれども周囲の街路樹はすっかり葉を落としており、うら寂れた景色の中だけに目立つ。健気さといったものをも感じる。「この寒さの中でよく咲いてくれたのね」と、思わず独りごちを洩らす。
「遠見の木」と置いて、「近付くほどに」と続ける。読む側としては思わず引き込まれる。「それはね、フユザクラでした」と種明かし。なんとも効果的で、上手な詠み方だなと感心した。
(水 21.01.17.)

冬ざくら哲学教授の木戸に舞う  澤井 二堂

冬ざくら哲学教授の木戸に舞う  澤井 二堂

『この一句』

 この句の風趣は「哲学教授」にあるのだろう。俳句には滅多に出てこない職業と言おうか、登場人物を持ち込んだ。東大工科教授であった山口青邨に「銀杏散るまっただ中に法科あり」の句があるが、これは人物ではなく東大の象徴を詠んだ。掲句は冬ざくらが哲学教授宅の庭の前、木戸門にはらはらと散っている情景を映像的に表現し、情緒豊かな句としている。
 ここで読み手の微かな疑問は、この家が哲学教授の住居であることを作者はなぜ知っているのかということである。世間に知られた著名な哲学者であったのか、はたまた作者の恩師であるのか、ちょっと詮索したくなる気持ちが起こってくる。前者であれば当然のことだが、後者なら学生時代に何度か足を運んだことも想像できる。しかし70代後半という作者の年頃を考えれば大学の恩師はほぼみな彼岸の人である。存命だとしても白寿ほどになるであろう。
余計な詮索をし過ぎたようだが、この句の風趣を損なうものではない。哲学教授を偲ぶ一句として「冬ざくら」の季語が当を得ていると思うばかりだ。「木戸に舞う」と結んで、「木戸」を「門」にしなかったのが、懐古的になったのではなかろうか。
(葉 21.01.15.)

初雪や狸堂々畑行く       工藤 静舟

初雪や狸堂々畑行く       工藤 静舟

『この一句』

 さまざまな理由で生態系が破壊され、獣たちが市街地に現れ、人に危害を加えたり作物に大きな被害を与えたりする事件が多発している。狸による被害も発生しているようだが、あまり大きな話題にされることがない気がする。ホームページで調べてみると、狸は臆病な動物で人の気配がするとすぐに逃げ、作物の被害金額などもあまり大きくないらしい。一方、狸というとすぐに、酒徳利と通い帳を左右の手に持ち、大きな一物をぶら下げた、信楽焼の愛嬌ある置物を思い出す。また、民話や昔話の中では、狐とならんで人を化かす獣とされるが、文福茶釜など笑いを誘う話になることが多い。ようするに、狸はなんとなく憎めない、愛され系キャラクターの獣である。
 この句は、そんな狸が初雪の畑を歩いて行く姿を詠んだものである。おそらく一匹で歩いているのでははなく、家族で歩いているのだろう。この句を引き立てているのは、なんといっても「狸堂々」という中七である。この表現が、この句をとても歯切れが良くて、面白い句に仕立てている。畑の端を歩くのではなく、畑のど真ん中をゆったりと歩く親子の姿が見える。
 筆者の住居からほど近い荒川の葦原の中に狸の親子が住んでいるらしく、今年の夏、友人の撮った写真がフェイスブックにアップされた。なんとか一見したいと、自転車で数回現場に行ってみたが、残念ながら空振りに終わった。今年こそ、是非お目にかかりたいものだ。
(可 21.01.14.)

買置きし書籍ながめつ日向ぼこ  和泉田 守

買置きし書籍ながめつ日向ぼこ  和泉田 守

『季のことば』

 近頃「日向ぼこ」という言葉を聞かなくなった。昔は年寄りの冬場の楽しみと言えば、日当たりの良い縁側に茶飲み友達とおしゃべりに興じ、あるいは一人で碁盤とにらめっこしたり、詰将棋をしたりすることだった。もちろん、昼寝も大いなる楽しみだ。一方、子どもたちは南向きの崖下の空地に集まって、押しくらまんじゅうや馬跳び、石蹴り遊びに興じ、くたびれると石垣の温もりに背中を当てて、日向ぼこをするのだった。
 作者は読書家だから、もちろん日向ぼこしながら本を読む。そのための買い置き・つんどく本は沢山ある。未読の本がいっぱいあるのに、「これを正月休みに読もう」などと買い込むものだから、家中が本だらけになってしまう。夏休み用に買った本がそのままになっているし、去年の正月に読み掛けたままの本すらあるのが目についた。
 「これをみんな読むのは大変だなあ、読み続けて何日かかるかな」などと、出来もしないことを考えているうちにうとうとしてきた。この気分がまたなんとも心地よい。同じコロナ籠もりでも、こういう巣篭もりなら悪くない。
(水 21.01.13.)

冬桜山道下る子らの声      加藤 明生

冬桜山道下る子らの声      加藤 明生

『合評会から』(日経俳句会)

光迷 「冬桜」で寂しいイメージだけど、それを見つけたよと子供の元気な声が聞こえてくる。
二堂 山道を下りて来る子供たちの足音、声、動きがあるよう。動的な句でいい。
昌魚 景がよく見えますね。そして子供の声も聞こえるようです。
芳之 鳥の目のような句です。山里に響く子どもの歓声が大人を元気にします。
           *       *       *
 この句の眼目は、評者全員が指摘しているように、冬桜に対比させた子供たちの声であろう。冬桜の句はその姿かたちや咲いている場所・状況を詠むものが多い。そうした視覚の句に対し、掲句は聴覚を持ち込んで冬桜の印象を強めている。
学校の裏山か、あるいは子供たちの遊び場の里山か、冬枯れの山道に冬桜が咲いている。そこを駆け下ってくる子供たち。冬の寒さに負けない元気な声が聞こえる。冬桜は、木々が葉を落とし山が眠りにつく季節に、灯りをともすかのように花をつける。健気に咲く冬桜の姿と、元気な子供たちの声がまさに響き合う句だ。
作者は昨年、病を得て「九死に一生」の思いをされたと聞く。闘病から復帰後に詠まれた句だと知れば、冬桜と子供らの声に重ねる作者の生への喜びが、心に沁みてくる。
(迷 21.01.12.)

窓越しの青天に点冬の蠅     前島 幻水

窓越しの青天に点冬の蠅     前島 幻水

『この一句』

 室内からふと窓を見ると、よく拭きこまれた透明なガラスに黒い点が見える。外は冬の澄み切った青空。
この青い空が背景にあることで、黒い点に気づいたのだろう。よくよく見れば、黒い点は微かに動いている。汚れではなく、「冬の蠅」が点に見えたのである。日常の中の小さな発見の瞬間を、五七五にまとめた佳句である。
 ところで、筆者は良い句だなとは思ったものの、最初「青天に点」の表現に引っ掛かりがあった。「てん」の繰り返しのリズムがぎこちなく、また、「天」と「点」を掛詞のように使ったのなら、少しやり過ぎではないかという気がした。もう一つ言えば、普通は「晴天」とするところを「青天」としたところにも作意が感じられた。もちろん、俳句はたとえ写生句であっても、表現として「作る」ものであるから、作意のない句などない。とどのつまり、その作意がプラスの効果を生むか、マイナスとなって足を引っ張るかである。
 合評会の席上、「青空に点」だったらという意見が出た。声に出さずに「青空に点」に変えて読んでみたが、なんとも締まらない句になってしまう。「青空に点」と「青天に点」を比べてみると、後者の「てん」の繰り返しのぎこちなさが、読み手を惹きつける効果、一句に刺激を与えるプラスの効果になっているように思えた。作者によれば、最初は「青空に点」だったが、やはり面白くないので、わざと「青天に点」にしたとのこと。その効果は、読み手のこちらにも、知らず知らずに伝わっていたのだと思う。
(可 21.01.11.)

城跡に郷土館あり冬桜      須藤 光迷

城跡に郷土館あり冬桜      須藤 光迷

『この一句』

 句の「城跡」は読んで字の如く、お城の跡である。名古屋城、姫路城、熊本城のような堂々たる天守閣はもちろんなく、櫓もないような“名もなき市民城址公園”を思い浮かべたい。おそらく第二次大戦の数十年後、周囲の濠跡を整備、復元し、公園らしい雰囲気が生れて来た。その頃から市民の間に「記念館でも」という声が生まれ、こじんまりした郷土館が建つ。
 正式な職員は館長役の市役所元課長が一人。郷土史家を名乗る地元の市民がボランティアで手助けし、受付と事務の女性が一人ずつ、というような人員が想像される。他の都府県から観光客がやってくるほどの施設ではない。小中学校の団体がたまに見学にやってくるが、あとは都会に職を得ている元市民が、帰郷した際にぶらりとやって来るくらいのものか・・・。
 「冬桜」の持つ儚げな魅力が、以上のような想像を産んだのなのだろう。弘前城や大都市、中都市の城にある堂々、華麗の桜とは異なる、楚々とした冬桜こその力なのだ。私は句会の兼題「冬桜」に最も相応しい作品は、と投句を見渡し「この句だ」と決めた。小さな、しかし端正なたたずまいの郷土館とその脇に立つ冬桜の情景が、私の頭の中に浮かんで来て今も消えない。
(恂 21.01.10.)

独り居にポインセチアを招き入れ  向井ゆり

独り居にポインセチアを招き入れ  向井ゆり

『合評会から』(日経俳句会令和2年下期合同句会)

青水 上五のすべりだしがズルい。中七の季語が決まっている。
百子 「ポインセチアを招き入れ」で独り居の寂しさ、切実さが伝わってきた。
雀九 「招き入れ」が分からなかったけど、絵画のようなのでいただいた。
双歩 一人住まいだけに「招き入れ」の叙述がいい発見だと思った。
定利 「招き入れ」が大げさで愉快。
道子 「招き入れ」で、ポインセチアの赤がさらに彩りを鮮やかにしています。
阿猿 炎のようなポインセチアですが、原産はメキシコで寒さには弱いらしい。部屋に招き入れてもらって喜んでいることでしょう。
          ☆       ☆       ☆
 合評会では「招き入れ」という措辞を褒める声が多かったが、「招き入れだから取らなかった」という人もいた。「ポインセチアの鉢を置き」くらいに留めておいた方がいいというのである。
独居の慰めとして華やかな色合いの鉢を飾ったのを、「招き入れ」と強調した。この気持はとてもよく分かる。しかし、ちょっと言い過ぎではないかと言われれば、そうも思える。結社俳句なら主宰の鶴の一声で簡単に決まる。しかし、そう決めつけられないのが俳句の本当の面白さである。読者の受け取り方に任せておく、という句があってもいいと思う。
(水 21.01.08.)