あじさいの一山全部大舞台     前島 幻水

あじさいの一山全部大舞台     前島 幻水

『この一句』

 一体、この句はどこで生まれたのだろうか。鎌倉か伊豆か箱根か…。あたり一帯は紫陽花に埋め尽くされ、彼方を見れば海が光り、あるいは稜線を霧が上って、という場所は…。景が大きく、人の姿も感じられ、とても気持ちのいい作品だ。勝手ながら、雨上がりの昼近い頃、柔らかな日差しの光景を想像した。
 紫陽花は俗に七変化と言われる。白、緑、青、紫、桃色…それらの濃いのや薄いのが入り混じり、大きな鞠が葉の緑を覆い隠さんばかりに、ゆらゆら風に揺れている。あぢさゐの「あぢ」は集まるの意、「さゐ」は藍色のこととされるが、ここはやはり濃淡とりどりの七色の花が山をすっぽり、と解釈したい。
 それにしても、紫陽花は面白い植物だ。花と思って見る部分が蕚、蘂と思って見る部分が花なのだとか。原種は日本のガクアジサイだと。最近は鞠を大きくしたもの、流れ星のような四葩など、様々なものを見受ける。この句を詠んで、紫陽花を誉めながらゆっくり歩いてみたくなった。全山云々でなく、道野辺でもいい。(光)

いまたぶん梅雨明けてゆく観覧車     今泉 而云

いまたぶん梅雨明けてゆく観覧車     今泉 而云

『この一句』

 一読して不思議な句だと思った。雨がいま降り出したとか、雨がいま止んだとかいう経験は、だれでも日常的に経験する。道路を走っていて急に雨の中に入ったり、逆に雨の中から抜け出すということもいくらでも経験する。けれども梅雨が明ける「いま」を経験することは普通はない。梅雨明けというのは、気象庁から「関東地方は昨日梅雨が明けました」と発表があって、「そうか、やっと梅雨が明けたか」と思うようなものである。それにしても「昨日」か「今日」くらいの時間の粗さで、「いま」とか「先程」とかいうようなことはない。
 作者は「たぶん」と遠慮しながらも、「いま」梅雨が明けてゆくと確信している。作者は観覧車に乗っている。地上で乗車した時には、まだ梅雨明けの気配はなかった。だんだん上がるにつれて、遠くの山々が見え、家々が見え、海が見えてきた。観覧車がトップに来た時、視野いっぱいに広がる光景に、作者は「いま」梅雨が明けてゆくと確信したに違いない。こうして想像を逞しくして読むと、印象派の絵画を見るような一句だと思った。(可)

末生りは泥にまみれて瓜畑     大倉 悌志郎

末生りは泥にまみれて瓜畑     大倉 悌志郎

『この一句』

 家庭菜園を趣味にしている私としては、今年の長梅雨は本当に参った。雑草は雨の中を嬉しそうにぐんぐん伸びる。雑草が胡瓜の根方を覆うと、蒸れて、葉に白粉をはたいたようなウドン粉病が発生、蔓全体が弱ってしまう。
 趣味の園芸ならば、枯れたとて大した問題ではない。しかし本職の農家にとっては大事である。何しろ七月に入っての二十日間、お日様が顔を出したのがわずか二日。これでは苗もひょろひょろ、実が生っても胡瓜なら曲がったり、尻すぼまり、トマトなら実割れや色付きの悪いものばかり。いわゆる「末生り(うらなり)」である。これでは商売上がったりである。
 本来、末生りというのは、野菜の苗木が盛りを過ぎて、伸び切った蔓や枝先(末=うら)に養分が十分に行き届かなくなってちゃんとした実が結べなくなり、曲がったりいじけたりしたものを言う。
 この句は素直に読めば、末生りの目立つ晩夏の瓜畑の景色である。しかし今年は別だ。なんと最盛期の七月初旬の瓜畑に末生りがごろごろ。見渡して呆然としているお百姓が目に浮かぶ。「令和元年夏」という詞書をつけたい句だ。(水)

梅干に浮かぶ戦後の日々のあり     片野 涸魚

梅干に浮かぶ戦後の日々のあり     片野 涸魚

『合評会から』(酔吟会)

てる夫 「梅干」のイメージが込められている感じがします。日の丸弁当など、苦しい時代のことを思い浮かべながら作られたのでしょう。
可升 戦後生まれの私にはよくわかりませんが、年長の方々の思いが詰まっているような句ですね。
睦子 「水牛歳時記」に戦前戦後の梅干の話が出ていました。梅干の歴史は、戦後の復興する日本の姿そのものなのですね。
ゆり 私にとっては祖父母の時代でしょうか。考えさせられる句です。
反平 作者には悪いんですが、「何言ってやんでぇ」と。僕にとっては「日の丸弁当」なんて、という感じですよ。ビンボーでね。「芋一本」の弁当でしたよ。
          *       *       *
 昭和20年の敗戦前後は実に苦しい嫌な時代だった。作者は梅干を見ると当時を思い出すらしい。ある家には空襲が激しくなる前に漬けた梅干が残っているが、弁当を作る米が無い。ある農家は米はあり、梅も沢山生るが塩が無いといった、今の若い人たちにはよく分からない情景が至るところに見られた。(水)

時刻表栞をくわえ夏に入る     玉田 春陽子

時刻表栞をくわえ夏に入る     玉田 春陽子

『この一句』

 七月も下旬になって立夏の句を出すのは時季遅れと言われるかも知れない。それにこの句は句会で好評を博したものの、「若い人はネットで調べるし、時刻表は古い」「栞をくわえるという擬人法がどうか」といった異論もあった。
 しかし、分厚い時刻表を繰って路線を選び、接続時間を調べる楽しみは旅の一部であり捨てがたい。擬人化表現についてだが、評者には栞をくわえた時刻表が、あたかも「一緒に連れて行って」とせがんでいる様に受け取れて面白いと思った。
 旅行は出発するまでが一番楽しいと言う人がいる。時刻表を見ながらプランを練り、目的地のことをあれこれ想像するのが好きな人たちだ。作者も計画好きなようだ。時刻表に何枚も栞が挟み込まれたというあたりに、プランニングの跡が見える。それを「栞をくわえ」と表現し「夏に入る」の季語に続ける。本格的な夏に向け旅心を誘われる句だ。
 時刻表と言えば高年世代には交通公社(現JTB)のものがなじみ深い。1925年創刊でピーク時は月刊200万部を誇ったが、ライバル「JR時刻表」の登場やネット検索の普及で、今は7万部程度に激減している。(迷)

振り向かず哀しからずや蟻の道     河村 有弘

振り向かず哀しからずや蟻の道     河村 有弘

『合評会から』(三四郎句会)

照芳 蟻を見ていると、ひたすら生きているという感じです。この句から「忍従」という言葉も浮かびました。
基靖 蟻って巣に向って一列に進んでいく。健気に見えますね。
敦子 玄関先にある蟻の穴を見ていると、来た道に戻っていくのがたまにはいますが、大体は真直ぐ巣に入って行きます。そういうのをどう詠んだらいいのか、と思っていましたが、ここの句は参考になりました。
而云 蟻は自分が蟻に生れたなんて考えていない、ということだ。黙々と生きて悲しからずや、でね。
有弘(作者) 蟻を見るとサラリーマン人生を思ってしまう。蟻の如くに黙々と働いて・・・。そんなことも考えました。
           *         *          *
 ひたすら前に向って進む蟻の列。句の「哀しからずや」から、若山牧水が「白鳥(しらとり)は~」と詠んだ短歌をすぐに思い出す。「空の青空の海のあをさに染まずただよふ」という状態が、なぜ「哀しからずや」なのだろうか。答えはすぐには出ないし、しばらく考えても出てこないところに、この短歌の価値がある。ひたすら歩く蟻もまた「哀しからずや」だが、この句も人間なんかに譬えない方がよかったかな。(恂)

煮魚は梅干入れて父の味     藤野十三妹

煮魚は梅干入れて父の味     藤野十三妹

『この一句』

 煮魚と言えばまずカレイ、キンキ、サバあたりか。イワシやサンマも煮た方が美味いし、タイやブリだってアラ煮はいけますよ・・・。そんなことを言えば、若い人は顔をしかめるそうである。鮨ブームのためか、近年は魚と言えば刺身と決めている人も少なくない。そんな魚事情の中に掲句が登場した。
 句会でこの句を見た人が「いやぁ、懐かしいね」という声を洩らした。煮魚でさえ懐かしいのに、梅干し入りだ。魚の梅煮は昔の男の大好物だった。臭い消しだとか、煮崩れを防ぐためだ、などと言われるが、何より魚にほんのりと染みた酸っぱさがいい。イワシは梅煮と決めている人もいた。
 作者は久しぶりに煮魚が食べたくなったのだろう。活きのいい鰯を買い、醤油、砂糖、味醂などで煮込む。夫に味見してもらうと小首をかしげ「何か足りないな」。ふと気づいて梅干を一つ入れた。「あら懐かしい。これはお父さんの味・・・」。その夜、ご夫婦の酒は大いに進んだ、と私は想像する。(恂)

岩苔に清水しみ出す夏の山     徳永 木葉

岩苔に清水しみ出す夏の山     徳永 木葉 

『季のことば』

 「夏の山」はいろんな詠み方ができる季語らしい。自分を山中に置いてもいいし、夏山を遠望して詠むのも楽しい。しかも、初夏、仲夏、晩夏と山は様々な表情を見せる。掲句は、滴る山を実況中継しているかのように瑞々しい夏山を描いた。
 ところがこの句、「清水」も「苔」も夏で「季のことば」が三つある。そのせいか、筆者も含めだれも採らなかった。これについて水牛さんは「この句は季重なりの句なのですが、三つが重なり合って奥深い夏山の雰囲気を出しています。こういう季重なりは真に結構」と句会で評した。
 「季重なり」については、この欄でも度々取り上げられた。「季節を表す言葉は一句に二つもいらない、表現の無駄」とかたくなな意見もあるが、最近はテレビの俳句番組でも季重なりに目くじらを立てる俳人は少ない。
 掲句は「苔にしみ出す清水」という細部を描写することで、「夏の山」の本意を鮮やかに詠っている。「鹿を追う者山を見ず」。季重なりに気をとられ、句そのものを鑑賞出来なかった不明を恥じている。(双)

夏帽子もすこし生きたし妻ともに     岡田 鷹洋

夏帽子もすこし生きたし妻ともに     岡田 鷹洋

『この一句』

 句のようにストレートに詠まれると一瞬、立ち止まってしまう。作者の心情はもちろん真剣に受け止めるべきもので、NPO双牛舎総会の選句表でこの句を見た時は、ぐっと心が動いたが、結局、選べなかった。五人の方が選んでくれたので、陰ながら「よかった」とホッとするような有様なのだ。
 私の個人的な分類によれば、「愛妻もの」の典型的な句である。若い頃だったら、初めから無視し、絶対に選ばないタイプであった。歳をとったせいか、今では作者の気持ちに切実な共感を覚えるのだが、素直に選ぶことが出来ない。なぜ選べないのだろうか。正直に言えば気恥ずかしいのだ。
 とはいえ女性の夏帽子は魅力的である。材質が軽そうで、つばがとても広く波打っているものもあり、リボンが風に揺れたりしている。いつかは私もこんな句を作ってみたい、とは思うが、果たして作れるようになるだろうか。我が妻も格好いい夏の帽子を被ってくれればなぁ、などと思っている。(恂)

夏座敷寝っころがって志賀直哉     大沢 反平

夏座敷寝っころがって志賀直哉     大沢 反平

『この一句』

 こういう句を読むと妄想をたくましくする、そして楽しい。なぜ志賀直哉なんだろう? たまたまその時読んでいたのかもしれない。五文字の作家でないと句として収まりが悪かったのかもしれない。五文字の作家名は決して多くはない。志賀直哉、菊池寛、堀辰雄、北杜夫、幸田文・・・。この中ではやはり志賀直哉だろう。
 次は、何を読んでいたのか? 私の頭の中には『暗夜行路』が浮かんだ。志賀直哉と言えば『暗夜行路』ということもあるが、私の頭には主人公時任謙作の大山行きが思い浮かんだ。この句を読んだ時に、別の句会で「夏の山」の兼題に悪戦苦闘していたせいに違いない。三番目には、なぜ作品名にしなかったのか? 
 すぐに鈴木六林男の有名な句「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」が思い浮かんだ。殉死がテーマの『阿部一族』は濃厚に意味性を発揮している。いっぽうこの句は意味性が排除されることで、軽みのあるいい句に仕上がっている。それが「寝っころがって」の措辞にあらわれている。
 以上、勝手な妄想である。合評会の席で作者が「読んでいたのは『暗夜行路』です」と明かしてくれた。なんだか得したような気がした。(可)