夜食にも一行詩ありこども食堂  野田 冷峰

夜食にも一行詩ありこども食堂  野田 冷峰

『この一句』

 「こども食堂」とは、貧困をはじめ様々な理由で満足な食事が摂れない子供たちに、地域住民などが無料または低価格で食事を提供する地域交流の場のこと。2012年に都内の八百屋さんが始めたといわれ、自然発生的に広がり、今や全国に3700カ所にものぼるという。個人の自宅を使ったこぢんまりとしたものから、公民館などで大勢を集める食堂まで規模は様々だ。
 作者が関わっているのは、個人宅を使ったささやかな「こども食堂」。近所の広場で遊ぶ子に、母親の帰りが遅い何人かが居残っているのを見かねた住民が自宅に子供たちを呼んで、作者とともに夕食を囲んだのが始まりという。作者は、5月の句会でも「まんぷくのこども食堂竹の秋」と詠み、好評だった。掲句は9月の別の句会で話題になった作品。「夜食にも一行詩あり」の意味は、「一緒に食事をしていると子供たちはいろんな話をしてくれる。その内容をかいつまんで言うと、まるで一行詩のように思えた」ということのようだ。
 作者はこのほど、生い立ちを綴ったエッセーや珠玉の260句をまとめた『独耕』という句文集をNPO法人双牛舎から上梓した。熱くて優しい人柄が滲み出ている本だ。こころ優しい作者には、当事者にしか作れない「こども食堂」の俳句をこれからも作り続けて欲しい。
(双 19.10.02.)

秋雲へ浅間のけぶり紛れゆく   河村 有弘

秋雲へ浅間のけぶり紛れゆく   河村 有弘

『合評会から』(三四郎句会)

久敬 浅間山の噴火の煙と秋の雲。その対比ぶりが面白い。
照芳 兼題「秋の雲」は難しかったが、この句は浅間山の煙を配して、なるほど、と思わせる。
正義 山の煙と秋の雲。いい風景だが、やや歌謡曲調かな。「けぶり」がいいね。
賢一 浅間山の噴煙と秋の雲を上手く料理している。
而云 季語より浅間の煙の方が主役かな。もちろん、こういう詠み方もあるが。
     *         *         *
 長野新幹線で高崎を過ぎてほどなく、右手に浅間山が現れる。まことに大きい山だ。しばらく眺めていて「そうか、もう信州に入っているのだ」と気付く。東海道新幹線で関西へ行くときはいつも「富士山、見えるかな」と思うが、浅間の場合は必ず見える。それだけ近いところを通っているのだろう。
 噴煙の見える時もある。横に棚引くこともあるが、この句の場合はもくもくと真上に昇って行ったのだ。やがて噴煙は秋雲に紛れていったという。季語の秋雲より噴煙の方が句の主役になっている、と思ったが、そうではなかった。雲に紛れたあたりから、噴煙は秋の雲になって行ったのである。
(恂 19.10.01.)

釣り糸は海にあづけて秋の雲   嵐田 双歩

釣り糸は海にあづけて秋の雲   嵐田 双歩

『季のことば』

 海辺で釣りをしている人が、ふと空を見上げると秋の雲が浮いていたという、長閑な光景を詠んだ句である。「風に吹かれて空の雲を眺めている。のんびり感に一票」(てる夫)、「釣りを楽しむゆったり感が『海にあづけて』の表現に出ている」(命水)など好感する人が多く、番町喜楽会の九月例会で最高点を得た。
 秋は大気が澄み、高層の雲が見えるようになる。気象用語でいう巻積雲、高積雲、巻雲などが代表的で、「秋の雲」が季語となっている。鰯雲、鱗雲、鯖雲といった雲の名も秋の季語だ。
 釣り好きは短気な人が多く、竿や浮きの細かい変化を見逃さないという。しかし作者は釣りの初心者なのか釣果がなかったのか、釣りをあきらめ、空に目を転じている。「海にあづけて」の措辞からは、秋の雲に心を遊ばせる余裕が感じられる。
 釣り人が見つけた秋の雲は、どんな雲であろうか。やはり鱗雲か鯖雲か、釣れなかった魚につながる雲であろう。
(迷 19.09.30.)

秋の雲さらに高みに飛行雲    澤井 二堂

秋の雲さらに高みに飛行雲    澤井 二堂

『この一句』

 飛行機雲の句はこれまでに何千、何万と詠まれているに違いない。「もう飛行機雲の句はたくさんだ」という人は少なくないし、「私は詠まない」と決めている人もいるようだ。しかしこの句は、そのタブーめいた「飛行雲」に挑戦し、句会では二点を獲得した。
 駆け出しの新聞記者だった頃、先輩から「手垢のついた言葉を使うな」と何度も注意され、そのたびに「手アカのついた、という言葉もそうだ」と反発を覚えた。「飛行雲」も手アカ組なのか。かつては句会で何度も見掛けたが、最近はめったに出合わなくなった気がする。
 掲句はまず「秋の雲」(兼題)とし、「さらに高みに」と目玉の言葉を置いて、珍しい様子を描いた。秋の雲のさらなる上に飛行雲が伸びていたのだ。そんな状況を確認したら、誰もがしばらく眺めているのではないだろうか。俳句はこんな状況から生れてくるものだ。大空は広い。飛行機雲のある風景もさまざまである。アッと驚くような飛行雲の句の登場を期待したい。(恂 19.09.29.)

秋の声よいしょよいしょとペダル踏む 斉藤早苗

秋の声よいしょよいしょとペダル踏む 斉藤早苗

『この一句』

 元気いっぱい、気持の良い句である。自転車の前と後ろに幼子を乗せて懸命に、しかし楽しそうにペダルを漕ぐ若い母親が浮かんできた。
 しかしこの句は、保守的で伝統的な俳句を詠む人からは、「秋の声という季語の本意を踏み外した乱暴な句だ」といった小言をもらいそうだ。「本意」とは季語が担っている「意味合い、季節感、雰囲気」のことである。連歌から俳諧(連句)を経て俳句へと移り変わって行く中で、季節を表す言葉が重要視され、「季題(季語)」というものが定着した。季語は連綿と受け継がれ、取捨選択され、磨かれた。それは良いのだが、やがて「春雨はしとしとと艶な風情で降るもの」「秋の声は何の音とも知れず蕭条ともの哀しく伝わり響くもの」と詠むべきだ、といった「型」が出来た。当然の反応だが、そういう馬鹿馬鹿しい約束事を蹴飛ばして「無季俳句」が生まれ、定型すら無視する自由律俳句も生まれた。
 この句は居丈高に旧弊を打破しようとしているわけではない。「秋の声」という季語から、そう言われれば毎日の自転車漕ぎにも秋らしさを感じるようになったと、自然体で詠んでいる。「秋の声」という季語の"鋳型"から抜け出して、それにふくらみを与え、生き返らせてくれたように思う。
(水 19.09.28.)


月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり

月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり

『この一句』

 この句を読んだ時、こんな詠み方もあるんだと驚きを覚えた。また、俳句はまぎれもなく定型詩であると改めて感じた。「作った」とか、「嘘だ」とかいう選評があったが、その通りだろうと思う。〈あの海〉を「海」とか、「ラ・メール」と発語した時、〈あの海〉は〈作った海〉、〈嘘の海〉になり、ほんとうの〈あの海〉から離れる。それが〈言葉の海〉の宿命であり、〈詩の海〉の始まりだろう。そして、一般的な〈あの海〉ではなく、作者の固有の〈あの海〉に近づこうとする。つくづく人間はややこしい生き物、妄想のかたまりみたいなものだ。
 自句自解を求められた作者は、小学生の頃アームストロング船長の月面着陸を見て、記憶に焼きついてしまい、それ以来月を見るとこんな感じがすると説明した。おそらく「記憶あるような」という措辞は作者の奥床しさがそう表現させたものだろう。実際の気分は「記憶あり」ではないかと勝手に想像する。人が錯覚と呼びそうな、そんな「記憶」は筆者にもある。でもこうして結語し、詩にするのはたやすいことではないと思う。感性のみずみずしさのなせる技だと思う。
(可 19.09.27.)

葡萄酒の赤の深さや秋の声    今泉 而云

葡萄酒の赤の深さや秋の声    今泉 而云

『季のことば』

 秋の季語には「身に入む」、「色なき風」など感覚的で使い方が難しいものがある。「秋の声」もそのひとつで、明確な映像を持たないので、「帛を裂く琵琶の流れや秋の声 蕪村」のように、秋の声を感じる物や状況を句にすることになる。
 掲句は葡萄酒の色で「秋の声」を表す。葡萄酒が声を発する訳はないので、赤ワインの濃い色に秋の気配の深まりを感じたということであろう。音の世界を色で表す発想・感覚が斬新で、迷わず一票を投じた。
 句会では酒の種類をめぐってワイン談義となった。選者の大半は赤ワインをイメージしたが、色の薄いヌーボーを想像して採らなかった人、秋は白ワインだと譲らない人、果ては「秋は白(白秋)なので日本酒だ」という論も出て、酒好きの多いこの句会らしく笑いが溢れた。
 ただ酒の色はともかく、赤ワインから秋の声を聴き取った作者の感性に共感した人は多く、この兼題の最高点を集めた。
(迷 19.09.26.)

地続きに弥生の古墳秋の声    廣上 正市

地続きに弥生の古墳秋の声    廣上 正市

『季のことば』

 秋の声とは秋風や虫の声など、実際の物音である場合もあるが、どちらかと言うと、心で聞く秋の物音である。音と言うよりは気配と言った方がいい。
 自宅の庭の地続きの草ボウボウの小山がどうやら古墳らしい、そこから何とはなしに秋の声がして来る、とは実に面白い。文京区の弥生式発掘跡は今や跡形も無いが、板橋区、北区、大田区、川崎市、横浜市には住宅地の脇に古墳が肩身狭そうに残っているのを見る。
 天皇陵と同定されたり推定されたりしたものはもとより、国や地方自治体が史跡に指定した古墳は勝手に穿り返してビルや施設を建てたりするわけにはいかなくなる。ということから、住宅地の真ん中に円墳、方墳、前方後円墳などが残ってしまう。こういうのが全国に数千あるという。
 いつの時代に出来て、どんな人が眠っているのか、さっぱり分からない。現在の土地の持主にとっては困ったことかも知れないが、こういうものがぽこっと残されているのは、回りの人たちには何とはなしにほっとする感じもある。耳を澄ますと秋の声が聞こえて来るというのも頷ける。
(水 19.09.25.)

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身に入むや上総下総灯の消えて  廣田 可升

身に入むや上総下総灯の消えて  廣田 可升

『季のことば』

 「身に入む」は難しい季語だ。主語がないので何が身にしみるのかが分からない。そもそも季感はなかった言葉だが、藤原俊成が「秋風身にしみて」と歌に詠んでから季感が定着したそうだ(「水牛歳時記」参照)。秋風の冷気に触発されて、世のはかなさや人生のあれこれを身にしみて感じる、というような季語という。
 掲句は、関東を直撃した台風15号が去った直後に出された句だ。台風は千葉県のほぼ全域に著しい爪痕を残した。殊に停電による被害が大きく、復旧も大幅に遅れた。夜間の上空からのTV映像によると、車のライトが照らす道路以外は真っ暗闇。句のとおり、上総も下総もさらには被害の大きかった安房からも町の灯が消えたのだ。
 作者や筆者を含め句会のメンバーには千葉県民が多く、当日はお互いの無事を労った。被害が軽かった人もいたが、停電が長引き酷い目に遭ったという人は「身に入むという季語は生ぬるい。そんなものじゃない」と不満そう。
 時事句は往々にして賞味期限が短い。しかしこの句は、自然の中に生かされている人間の危うさ、はかなさを大仰な言葉を使わず抑えた表現で詠ったことで、後年に伝えられる俳句になったと思う。(双 19.09.24.)