富富富てふ名前にひかれ今年米  谷川 水馬

富富富(ふふふ)てふ名前にひかれ今年米   谷川 水馬

『この一句』

 なぞなぞみたいで愉快な句である。本当かなと思って調べてみると、一年前にデビューした富山県産の新しい米の銘柄という。「富富富」は、富山の水、富山の大地、富山の人が育てた米であることを表し、ごはんを食べた人に「ふふふ」と微笑んで、しあわせな気持ちになってもらいたいと県はPRしている。
 米の銘柄はコシヒカリの人気が高いが、近年は各県が独自銘柄を開発し、食味とネーミングを競っている。ブランド米になったあきたこまち(秋田)のほか、晴天の霹靂(青森)、恋の予感(広島)、天使の詩(佐賀)といった名前もある。その中でも「富富富」は出色だ。この珍名を見つけ、新米の兼題句に仕立てようと思った時点で成功している。
 珍しい見聞や体験を短文にして、他人に伝えようとする行為は、ジャーナリズムに通じる。江戸時代の俳諧の隆盛は、そうした側面もあったのではないだろうか。
 ところで「てふ」の用字は古くて、現代的な内容にそぐわない感じがする。「との」とか、「とは」で良かったのではないか。
(迷 19.10.14.)

通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る   廣田 可升

通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る   廣田 可升

『季のことば』

 乗換の跨線橋通路を渡ったのだろうか。ホームの階段を下りて地下通路をくぐって夕空の見える乗換ホームに出たのだろうか。あまりなじみの無い駅をあちこちして、しかも通夜への道である。故人との付き合いのことなど、次から次へと浮かんで来て、ともすれば足元がおぼつかなくなったりもする。
 「渡り鳥」には燕のように春から初夏にかけて日本にやって来て子育てし秋に帰って行く夏鳥と、秋に北方から避寒のためにやって来て春に帰る冬鳥がいるが、俳句の季語で「渡り鳥」「鳥渡る」と言う場合は秋にやって来るものを指す。ツグミ、ヒワなどの小鳥から鴨、雁、白鳥、鶴などの大きな鳥まで様々。いずれも群れをなしてやって来て大変賑やかなのだが、深まり行く秋とも相俟って焦燥感、寂寥感をも抱かせる。
 乗り換え時に実際に鳥が渡っていたのかなどを詮索する必要はない。この季節感が大事なのだ。「通夜へ行く乗換ホーム」という上五中七と「鳥渡る」という季語が、絶妙に響き合い、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。
(水 19.10.13.)

仰向けの蝉のみつめる虚空かな  深瀬 久敬

仰向けの蝉のみつめる虚空かな  深瀬 久敬

『合評会から』(三四郎句会)

照芳 死んだ蝉、みんなひっくり返っている。そんなこと考えながらこの句を選びました。
有弘 無常感が出ていますが、ちょっとやり過ぎかな。
而云 私もそんなことを思ったが、蝉は確かにいろんなことを感じさせます。
久敬(作者) 死んでいると思ったら、生きていてパッと飛んでいくのもいますよ。
       *       *       *
 バス停から家に帰る途中に横切る小公園でよく蝉の遺骸を見つける。たしかにみんな仰向けになっていた。彼らは空中を飛び、木の枝にとまりながら生きていた。死んだ後、かつての活躍の場を眺めようと、上を向いているのだろうか。
 作者の「死んでいると思ったら、生きていてパッと飛んでいくのもいる」というコメントが面白い。確かにそんな場面を見た記憶があり、その時は「元気のいい奴だ」と思った。しかし飛んで行った蝉はすぐに死んでしまうはずである。そしてどの蝉も「虚空」を見つめているのだ。
(恂 19.10.11.)

白萩の猛然と咲く庭の隅     堤 てる夫

白萩の猛然と咲く庭の隅     堤 てる夫

『合評会から』(番町喜楽会)

水牛 「猛然と」という激しい形容に異論もあると思いますが、手弱女ぶりを見せて実はモーレツな萩の生態を詠んで面白い。
而云 「猛然と」がユニーク。白萩のパワーに満ちている。
水兎 「猛然」が素晴らしいです。生えてきたなと思ったら、あれよあれよの間にもっさりと道を塞いでいく感じが、まさにそのとおりです。
       *       *       *
 どの選者も「猛然と」に惹かれてこの句を選んでいる。この萩は作者の庭の生垣のそばに生え、まさに「猛然と」と表現するしかない繁茂状態らしい。三人の選者も「萩ってけっこう激しいんだよなあ」と作者に同感しているようだ。
 筆者もこの句を選んだが、草花を「猛然と」と形容することに違和感を覚える一方、この刺激のある尖った言葉をあえて使った、作者の表現テクニックを評価して一票を投じた。作者や三人の選者が萩の生態をよく知るのに対して、筆者はより観念的に捉えていたと反省した。写生とはこういうことだと教えられた気がする。
(可 19.10.10.)

星月夜ブラックホールは何処かな 池内 的中

星月夜ブラックホールは何処かな 池内 的中

『この一句』

 読んだと同時に深遠な世界に引き込まれ、しばし星座の中を漂った気分になった。言うまでもなく、秋の夜の景である。ただ、空に月はない。しかし、地上は煌煌としている。道行く人の影も濃い。満天に星が輝いているからだ。そして、その星と星の間に目を凝らせば、見えないものが見えてくる。ブラックホールである。
 もとより、暗闇に浮かび上がったブラックホールは想像の産物である。だが、ひたすらその虚像に見入っていると、宇宙の起源や生命の誕生などへの想いが浮かんでくる。探査機の「はやぶさ」に小惑星「リュウグウ」…、日本の技術が宇宙で活躍している。「失われた二十年」というのは嘘のようだ。世の中は一体、どうなっているのか。
 かつて「甘草の芽のとびとびの一とならび」なる句を巡って論争があったとか。もとより、身辺雑記の写生の句も悪くはない。しかしやはり、このブラックホールの広大無辺さにはかなうまい。蛇足的に注文をつければ、下五は「かな」という詠嘆あるいは疑問でなく、「何処にある」とぶつける方が現代的で、切れもいいのではないか。
(光 19.10.09.)

枝豆やあぐらの父の笑ひ顔   池村 実千代

枝豆やあぐらの父の笑ひ顔   池村 実千代

『合評会から』(日経俳句会)

昌魚 「あぐらの父」がいいですねえ。死んだオヤジを思い出します。
三代 私も「あぐらの父」です。枝豆を食べながらナイターなんか見ながら笑っているんですね。
好夫 素晴らしいなあ。世界の平和の元じゃないか(笑)。
木葉 ほのぼのとした光景が見えて気持ちが良い。
荻野 「あぐら」が印象的で、父親の姿勢を表している。
博明 「枝豆」「あぐら」「笑ひ声」とどれをとってもお父さんのイメージ。
明生 酒好きなお父さんが家族や仲間と談笑している様子が伝わってきます。
阿猿 ぱっと景が浮かび、懐かしくなる句。お酒やビールに直接言及していないのもいい。
       *      *       *
 昭和の父の香りが漂い、ほのぼのとした雰囲気が郷愁を誘ったのか、この句会の最高点を獲得した。この句には、温かな家庭で大事に育てられたと推察される作者が居る。茹でたての枝豆の湯気に幸せがふくらむようだ。
(双 19.10.08.)

納骨を済ませし座敷秋の声    中村 迷哲

納骨を済ませし座敷秋の声    中村 迷哲

『合評会から』(日経俳句会)

好夫 納骨を済ませて家に帰ってきて、ほっとした情景がよく出ている。
ゆり 知り合いが年末にお母さんを亡くした。ゴールデンウイークに会った時、まだ納骨をしていないのと話したのを思い出しました。
百子 ほっとしたのでしょう。そんな時に秋の風が吹いてきた。作者には故人の声が聞こえたのではないでしょうか。
       *       *       *
 死者は七日目に三途の川を渡って彼の世の入口あたりをさ迷い、以後七日ごとに閻魔の庁の取り調べを受け、四十九日目に彼の世で住むべき場所が決められる。どうぞ故人を極楽浄土に住まわせて下さいと、親族や縁者一同法要を行い、尊いお経を上げて仏様に祈る。そして、遺骨を墓石の下や納骨堂に安置して「忌明け」。これが今日の“葬式仏教”の一般的な流れである。
 作者は故人の家を、葬儀後何ヶ月かたってまた弔問した。納骨を済ませた座敷は、骨壺を中心に飾られていた祭壇が片付けられ、すっかり広くなってさやさやと秋の風が吹き通っていた。寂しいような、きっぱりとしたような気持になる。
(水 19.10.07.)

福島の新米届き塩むすび     石丸 雅博

福島の新米届き塩むすび     石丸 雅博

『季のことば』

 季節を感じるものは身の回りに何十と存在しているが、「新米」と言われると、対抗するだけのものがない。松茸は値段からして手が出せない。秋刀魚は週に一回食卓に上がれば御の字で、それも今年は不漁だという。目を転じて秋風の気配を探ろうにも、窓は閉め切っていて、まだエアコンが動いている有様である。
 そこに福島から新米が届いたのだ。今はボール箱入りの宅配便で、かつての麻袋入りと違って持ちにくく、十キロ程度でも運ぶのに難渋する。作者によると、奥さんの母親の実家から毎年三十㌔も送ってくるのだという。送り元の遥かさ、三十㌔という重量感。秋の味覚はいま、そこに存在す、と言いたくなる。
 それを炊き上げ、塩結びにするのだという。何のおかずも要らない。海苔も巻かなくていい。ぎゅっと丸く結べば、それだけでいい。手に取れば、炊き上がって間もない温もり、いや熱々さが伝わってくる。合評会でこんな声が聞えて来た。「福島の新米は放射能ゼロですよ、と多くの人に伝えたい」。
(恂 19.10.06.)

枝豆やころり忘るる検診日    金田 青水

枝豆やころり忘るる検診日    金田 青水

『合評会から』(日経俳句会)

双歩 私は検診日を忘れた夢を見た。本当かどうか別にして、面白いなと思いました。
二堂 枝豆が美味いからつい食べ過ぎた。検診日があるのに、という句でしょう。
明生 枝豆を肴に仲間と飲み、あまりの楽しさに検診日を忘れてしまった。
水牛 私は毎回こうなんです(笑)。ガンマGTPとか医者に言われてもよく分からない人間ですから、しょっちゅうこういう失敗をします。自分のことを言われた気がして・・。実に面白い句だ。
昌魚 背景にお酒があるんですよ。あ、いけない、控えなければならないのにという。
          *       *       *
一読して思わずニヤリとする愉快な句である。健康診断や人間ドックの前日は、夜9時以降は飲食を控えるように指導される。しかし酒席の楽しさに時を忘れ、「しまった」と後悔した人も少なくないだろう。
作者は検診前日に、旬の枝豆を肴に一杯飲んだのだろう。気の合う友人と一緒だったと解したい。好物の枝豆に酒がすすみ、話も盛り上がった。気が付けば12時近い。「ころり」の表現にその夜の楽しさが浮かんでくる。
(迷 19.10.04.)

献立は決めず枝豆まず籠へ    星川 水兎

献立は決めず枝豆まず籠へ    星川 水兎

『この一句』

 主婦にとって毎日の食事作りは大仕事であり、重荷と感じている人が多いようだ。献立を考えるだけで疲れてしまうらしい。特に亭主が退職して濡れ落葉と化してべったり家に居るようになると、益々大変だ。現役時代は朝食を掻っ込むや否やそそくさと家を飛び出し、夜も食べるかどうか分からない。「棚に目刺がござりやす」じゃないが、何か適当に拵えて置けばいい。ところが亭主が一日中在宅となるとそうはいかない。我が家の山の神は「人間どうして毎日三度々々食事しなけりゃいけないのかしら」とぶつくさ言っている。
 しかし、この作者は大らかに呑気に構えている。スーパーの中をぶらついてる内に何か考えつくでしょうと、取り敢えずは枝豆の袋を買物籠に放り込んだというのである。
 この呼吸が実にいい。このようにとんとんと運ぶのが、俳諧味をもたらす所以である。しかし、とんとんと進み過ぎて、献立の方は結局「今夜は出来合いのお惣菜と枝豆にしちゃいましょ」ということになりはせぬか。それがちょっと気に掛かる。
(水 19.10.03.)