母と子のカフェで宿題暮早し   植村 方円

母と子のカフェで宿題暮早し   植村 方円

『この一句』

 現今の世情をビビッドに切り取った一句である。夕方の街中か駅のカフェで、子供がテーブルに宿題を広げ、母親が見守っている。どんな事情があってカフェでやっているのだろうと、疑問が湧く。働くお母さんが仕事の都合で家で見る時間がないとか、あるいは塾に連れてゆく前に宿題を済まそうということかもしれない。騒がしい店内で、わざわざ宿題をやる光景は差し迫った感じがあり、暮早しの季語の雰囲気とよく合っていると思う。
 学校の宿題は家に帰ってからやるものという固定観念があるので、句会でも「なぜカフェで」と議論になった。作者自身が「何で家でやらないのかと、自分の句なのによく分からなくて」と述懐する中、実千代さんが「最近はお母さんと子どもとか、家庭教師と生徒とかが、たくさんスタバなんかで勉強してるんです。家庭教師と高校生や中学生のやりとりが聞こえてきたりします」と解説し、一同納得。作者も「やっと腑に落ちました」と大きくうなずいていた。
 総務省の2023年の統計によれば、働く女性の増加に伴い共働き世帯は1,206万世帯と7割を超え、専業主婦世帯は404万世帯の25%に減っている。子供の帰りを待ち、宿題を見てやれる家庭は今や少数派である。働くお母さんたちは、仕事をやりくりし、生活スタイルを工夫しながら、子供と一緒にいる時間を確保することになる。作者がカフェで目にしたのは、そんな現代社会の断面だったようだ。
(迷 24.12.18. )

熱々を噛めば汐の香牡蠣フライ   篠田 朗

熱々を噛めば汐の香牡蠣フライ   篠田 朗

『合評会から』(日経俳句会)

双歩 特に解説はいらない。牡蠣フライが汐の香がしても当たり前。だがいきなり熱々って言われると確かに熱々はやっぱり美味しいよね、素直にいただきました。
方円 出来立ては何でも美味しいが特に牡蠣フライは美味しい。
三薬 この時期、毎年、娘から三陸の牡蠣をドカンと送ってもらっていたが、去年から急に送って来なくなっちゃった。そんなことを思っていたらこの句に出会って、思わず採っちゃった。
操 汐の香り立つ旬の味わい。美味しさの共有。
          *       *       *
 牡蠣や帆立の出来が良くないという。夏の間の海水高温化によるものだと地元の漁業関係者は嘆く。身が思うように育たないので小さく、出荷量も激減しているようだ。牡蠣や帆立好きにとっては寂しい限りである。冬の食卓を彩るものの一つに牡蠣フライ。揚げたてを家族銘々5粒ほど皿に盛り、タルタルソースにウスターソースで、おっとレモンを絞るのも忘れずに頂けば、中身は火傷しそうな熱さながら‶口福口福〟。掲句は思わず牡蠣フライが食べたくなってしまう句だ。牡蠣フライの美味しさを詠んで納得。家族団らんの夕食風景も見えるようで、「熱々を」の上五とほんのり舌に乗る「汐の香」が効いている句だ。
(葉 24.12.16.)

塩つかみ白菜漬ける母若し    岩田 千虎

塩つかみ白菜漬ける母若し    岩田 千虎

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 子どもの頃の記憶で一回か二回、白菜を漬けた思い出があります。あの頃の母は若かったんだなあと。
実千代 この句はお母さんが若くて、塩をつかんでいる動作が、やっぱり白菜と結びついている。
健史 「つかみ」という言葉の威勢の良さ。何歳でも若いです。
二堂 母若しがいいですね。好きな事を元気よくやっている姿は若く見えるのでしょうね。
守 私の世代はまだこういう風景があったなと思い浮かべられるオーソドックスな句に感じました。
豆乳 せっせと白菜を漬けていた若かった母を思い出す一句です。
          *       *       *
 合評会でも指摘されたが、「塩つかみ」の上五によって生き生きとした感じが伝わってくる。白菜漬はどういうわけか女を元気にさせるようだ。多分この句の母は実年齢も若かったのだろうが、子供の頃の作者には、母親が妙に元気にてきぱきと白菜を漬けるのが殊の外印象深かったのだろう。私にも全く同じ経験があって、「似たようなことがあるものなのだなあ」と感じ入った。
(水 24.12.14.)

白菜漬盛っておんなの長ばなし  杉山 三薬

白菜漬盛っておんなの長ばなし  杉山 三薬

『この一句』

 昭和の匂い濃厚な句である。田舎では来客や寄り合いがあると、お茶請けとして白菜漬や沢庵など漬物をたくさん皿に盛って供した。農家の縁側などに女性が数人集まり、漬物を勧め合いながら噂話で盛り上がり、時間を忘れている光景が思い浮かぶ。「盛ってが白菜を盛っているのと、話を盛っているのと両方にかかっている」(双歩)との〝深読み〟も示され、盛り上がった。作者によれば三十年前に東京の下町で目にした実景という。
 昭和四十年代までは、各家庭で主婦が白菜を買って樽に漬け込むのが当たり前だった。塩加減だけでなく昆布や唐辛子の量など、家ごとにレシピと味が違った。句会には掲句のほか「塩つかみ白菜漬ける母若し」(千虎)や「白菜や母はいつでも割烹着」(双歩)といった句も出され、話が弾んだ。掲句の作者はそんな時代背景を下敷きに、噂話に興じる女性たちをちょっと揶揄して描いたのではなかろうか。
 白菜と女性の親和性が高いとはいえ、ジェンダーレスをめざす令和の今の世は、「おんなの長ばなし」と決めつけるような表現に違和感を抱く人もいるであろう。女性の長話はよく見聞きするが、男性だって長話が無い訳ではない。飲んだ時など、くどくどと終わらない人も多い。「あと一本果てぬおとこの長ばなし」といった〝返歌〟があってもおかしくない。
(迷 24.12.12.)

捨てかねてめくる古本冬ぬくし  和泉田 守

捨てかねてめくる古本冬ぬくし  和泉田 守

『合評会から』(日経俳句会)

実千代 本を整理しなきゃと思い、雑誌も一緒に捨てるつもりでしたが、捲ると捨てられなくなり…。まして冬の日差しが当たったりすると、なんとも心地よくて・・、捨てずともという気持が表れているのがいいなと思って採りました。
てる夫 断捨離も口で言うほど簡単ではありません。
反平 本当に溜まってしまって困っている。いま読んでいるのは、もう三回目だ。
操 中七の「めくる古本」に下五の季語が呼応し、一段と温もりが感じられます。
静舟 本は人生の伴奏者。断捨離で手に取ってみると、胸に冬の陽だまりができ、改めてこの本は捨てられないと。
          *       *       *
 本に限らず捨てかねる物は多々あるだろう。レコードや写真など…。だがそれらを捨てきれずに迷うのは、昭和世代までかもしれない。書籍や音楽、映像などは電子化が急進展したからだ。電子書籍は味気ないという人も多いが、メリットもある。その筆頭は教科書ではないか。ランドセルに国語、算数に…と詰め込んで重い想いをするより、タブレットひとつで済ませる方がいい。味気ない話と思われようが、時代は所有価値より使用価値となっている。
(光 24.12.10.)

玉砂利の音の尖りや今朝の冬   廣上 正市

玉砂利の音の尖りや今朝の冬   廣上 正市

『季のことば』

 「今朝の冬」。立冬の朝を表すことばで、趣があって筆者の好きな季語である。「今朝の春(新年)」「今朝の秋(立秋)」と季違いもそろっているようだが、「今朝の夏(立夏)」は採っていない歳時記がある。春でも秋でも猛暑日がある昨今、「今朝の夏」にピンとこないせいかとみるのは穿ちすぎで、今朝の夏は最近の季語のように思える。
 今年のようにだらだらと夏の置き土産のような高温が続くと、四季の移り変わり、ことに秋の入りがはっきりしなくなった。いまに気象異常で日本に夏と冬しかなくなると心配される。俳句の世界において、従来の暦と季語はますます実状に合わなくなっている。そんななか、冬の季語のうちとりわけ「今朝の冬」は凛としている。ぴりっと肌に感じる寒気を感じさせ、心身に緊張をあたえるようだ。
 上の句は11月日経俳句会で最高点を得た。まさに緊張感と冬に入った感覚を上手に表現したというのが高評価の要因だろう。この句の舞台を筆者は神社境内と取りたい。立冬の日、作者は玉砂利を踏んで拝殿に向かう。冬の始まりを感じる寒気だ。北海道に生まれ育った作者だから、過ぎし日の思い出の句と取るのが素直とも思う。もう霜も降りていて玉砂利の音が以前とは違うことに気づいた。その音を「尖る」と詠んで寒気の鋭さを的確に表現している。初冬の神社の物寂びた風景のなかに、拝殿前の玉砂利を踏み分ける音だけが聞える。立冬の風景を音に托し繊細に詠んだ句と思う。
(葉 24.12.08.)

詐欺かしら電話の鳴りてそぞろ寒 山口斗詩子

詐欺かしら電話の鳴りてそぞろ寒 山口斗詩子

『季のことば』

 振り込め詐欺とかアポ電強盗とか、高齢者を狙った犯罪が相次ぐ世相を巧みに織り込んだ一句である。取り合わされた「そぞろ寒」の季語が効いている。水牛歳時記によれば、そぞろとは「何とはなしに」の意であり、中秋から晩秋にかけて、ふと、ぞくぞくっとした寒さを感じることをいう。
 出歩くことの減った高齢者にとって、電話でのおしゃべりは情報収集に欠かせぬ手段であり、楽しみでもある。それが犯罪の横行で、電話が鳴っても、まず詐欺ではないかしらと疑わなければいけない。何とはなしに感じる不安や心細さが、そぞろ寒の季語によって身に迫って来る。
 2000年頃から始まった電話詐欺は、当初は息子や孫を騙ったものが多く、オレオレ詐欺と呼ばれた。その後、手口の多様化に対応して、名称が振り込め詐欺に変わり、現在は特殊詐欺に統一されている。警察庁の資料では、オレオレのほか、預貯金詐欺、キャッシュカード詐欺、架空料金請求詐欺、還付金詐欺など10類型に分類される。留守電設定などの対策もあり、被害は一時減少したが、3年前から再び増加、2023年の被害額は452億円に上る。
 家族からの連絡やヘルパーさんの安否確認、さらに買い物の注文など、一人暮らしの高齢者にとって電話は命綱である。すぐに出るなと言われても、電話が鳴ればつい取ってしまう。老人の不安心理に付け込む特殊詐欺は卑劣で許されない。そぞろ寒と同類の季語に「うそ寒」がある。季語の本意とは少しズレるが、詐欺の横行する今の世は「うそ寒し」というしかない。
(迷 24.12.06.)

短日や窓辺の妻の老いにけり   大沢 反平

短日や窓辺の妻の老いにけり   大沢 反平

『季のことば』

 「秋の日は釣瓶落とし」という成句がある。今ではもう「釣瓶」など知らない人の方が多くなっているに違いないのだが、それでも未だにこの言葉がラジオから聞こえてくる。それだけ晩秋の日暮の早さが印象深くて、若いアナウンサーもこうした耳に馴染んだ慣用句を使ってしまうのだろう。これを俳句世界では「短日」と詠み、引っくり返して「日短か」あるいは「暮早し」とも用いる。昔も今もとても人気のある季語だ。
 日没の早さが気温の低下と重なって、「もう間も無く年の暮れだ」という焦燥感を煽り立てるのだろう。高齢者とあれば人生の終幕への思いもあれやこれや湧き上がってくるだろう。こうした思いと「短日」という季語の取り合わせが実にしっくりして、我ながら惚れ惚れする一句が出来る・・ことがある。ということで、毎年この時期になると「短日」の句が新聞雑誌の俳句欄にどさっと出て来る。
 この句は「老い」との取り合わせから、一見、凡百の「短日」句に右へ倣えのマンネリ句のように思えるが、実はなかなか深い。窓辺に座り、西に落ちる日を眺めやる逆光の中の妻を「老いたなあ」と見つめながら、自らを見つめているのだ。「窓辺の妻」という叙述が部屋の奥から妻を見守る作者を浮かび上がらせる。句友たちも「こう詠む人こそ己の老いを実感している」(十三妹)、「老を感じるのは、こんな瞬間です」(卓也)と的確に読み取っている。
(水 24.12.03.)

鰡飛ぶや日に一便の連絡船    嵐田 双歩

鰡飛ぶや日に一便の連絡船    嵐田 双歩

『合評会から』(番町喜楽会)

百子 景が目に浮かぶような雰囲気のある句ですね。日に一便の連絡船になってしまった島。連絡船に乗る人も少なくて、そこに鯔だけが勢いよく飛んでいる。静かな島と海にある「動」の勢い。いいですね。
光迷 のどかで広い海に鯔が飛ぶ。映画のワンシーンみたいです。
可升 「鯔飛ぶ」と「日に一便の連絡船」の取り合わせで、それ以外の説明が一切ないのに、海上の天気の良さまで目に浮かびます。取り合わせのお手本のような句。
迷哲 鯔は汽水域にいることが多い。この句は連絡船が走る外洋だから、ちょっと鯔のイメージとは合わないのでは……。
水牛 いや、鯔は外海にもいますよ。北陸とか福井とか。そういう鯔は旨いんだ。
          *       *       *
 全国に大小1万4125の島があるという。この句の舞台は、住民も観光客も多くはない小さな離島だろう。本土と結ぶ連絡船も日に一便しか運航されていない。この句の「日に一便の連絡船」の措辞が、置かれた環境を簡潔に表現して揺るぎがない。鰡が飛ぶ舞台としてこの上なく、「取り合わせの句のお手本みたい」との評もうなずける。鯔が飛ぶ中を出港したのか入港したのかさておき、島の風景やのんびりとした生活までを想起させる句だと思う。
(葉 24.12.01.)

から松の散るや十勝に雪近し   徳永 木葉

から松の散るや十勝に雪近し   徳永 木葉

『この一句』

 読めば広大な十勝平野の晩秋の景が浮かび、季節感と詩情あふれる句である。十勝平野は北海道東部に広がる台地で、石狩山地と日高山脈を背負い、太平洋に面している。畑作と酪農を中心に、機械を活用した大規模農業地帯として知られる。農場はカラマツやシラカバの防風林で区切られ、雪を頂く山脈を背景に、緑の短冊を敷き詰めたような景観が美しい。
 その防風林のカラマツが、秋が深まると落葉するのである。一般に松は常緑樹だが、日本固有種であるカラマツだけは落葉する。針状の松葉が緑から黄色、黄土色へと葉色を変え、ハラハラと散る様は風情を誘う。北原白秋はその詩に「からまつはさびしかりけり」と詠い、小林秀雄作曲の「落葉松」は秋の雨に落葉するカラマツを嫋々と歌い上げる。
 さらにこの句の詩情を深めているのは、「散るや十勝に雪近し」という措辞である。カラマツが散れば、そろそろ雪が降るといのは、実際に住んだ人にしか分からない感覚であろう。句会での可升さんの「あぁまた厳しい冬が来るんだなぁと思いつつ、逝く秋を惜しむ気持ちが伝わってくる」という句評に大いに同感した。作者は十勝平野の中心の帯広生まれと聞いている。幼い頃から目にした風景と、体に浸みこんだ北の大地の季節感。十勝に産まれ育った者でなければ詠めない佳句ではなかろうか。
(迷 24.11.29.)