堰越えの水の膨らみ冬をはる   廣上 正市

堰越えの水の膨らみ冬をはる   廣上 正市

『おかめはちもく』

 灌漑用水路に堰を設けて水流を右や左に分岐したり、水位の高い方に送ったりする堰堤(えんてい)は稲作に必須の技術である。用水路には大、中、小たくさんの堰がある。高さ十五㍍を越すダムを大元とすれば、田畑の近くの小川のような流れの堰までさまざまだ。この小さい堰は、田植の前に「堰上げ」をする。堰の上に稲藁や石を積んで嵩上げし、水位を上げて全ての田圃にくまなく灌漑水が行き渡るようにする。堰より高い方向の水路にも灌漑水が流れる様は見事である。
 さてこの句だが、「冬をはる」とあるから当然、冬から春にかけてのことだろう。しかし春先は渇水期であり、堰を越える水というのは、どうも合点がいかない。私の住む上田市塩田平の農耕地は米と麦の二毛作が中心。いま春先の田圃は葉を伸ばし始めた麦が青さを増して目にやさしい。しかし田圃の周囲の用水路に水は無い。季節が進んで田植前になると灌漑水が行き渡る。「堰越えの水の膨らみ」は田圃の息吹を感じさせるわくわくするような景色だが、もう少し先のことである。この句は下五「冬をはる」を改めて「堰越えの水」という素晴らしい措辞を生き返らせてほしい。
(て 20.03.02.)

蕗の薹みどりに光る道の駅    久保田 操

蕗の薹みどりに光る道の駅    久保田 操

『この一句』

 この一句の評価のポイントは、中七の「みどりに光る」にある。上五の「蕗の薹」とは軽く切れ、下五の「道の駅」に続くと読んだのだが、「蕗の薹」が「光る」ようにも取れるからだ。そこで上五を「楤の芽」にして切れの「や」を入れ、「楤の芽や緑の光る道の駅」のようにすれば、誤解される懸念はなく、納得されやすいだろう。
 いずれにせよ、目に浮かんだのは週末の道の駅。店頭の春野菜を覗き込み、籠に入れていく人の群れである。菜の花に三つ葉、独活、芥子菜、ブロッコリー。アスパラガスや筍が出ているかもしれない。場所によっては蕨やゼンマイなど山菜の束も。春を迎えて芽吹き、生長し、滋養たっぷりの野菜が光り輝いている。
 蕗の薹も、道の駅のものとなれば色鮮やかで香高く、すっと手が出てしまう。「まず天婦羅にし、余りが出れば蕗味噌に。いや、二パック買おう。大した金額ではないし、都会のスーパーに比べれば格安」などと素早く計算して…。海に近い道の駅ならば、白子や鯵、烏賊あたりが手に入るかも。道の駅は、超新鮮な食材の宝庫なのだ。
(光 20.03.01.)

アマゾンで買いし一キロ蕗の薹 高橋ヲブラダ

アマゾンで買いし一キロ蕗の薹 高橋ヲブラダ

『この一句』

 蕗の薹の兼題句の中で、一番「旬」を感じた句である。大半の句が、蕗の薹の色や形を詠んだり、野原や土中から顔を出す様子を描写するのに対し、この句はネット通販のアマゾンを登場させて意表を突く。蕗の薹は八百屋やスーパーで買うものと思っていたが、旬の食材でさえネットで買う時代になっていると知り、軽い驚きを覚えた。
 日本の消費は、ネット通販の普及で大きく変わった。衣料や家電、生活雑貨、酒類、書籍などあらゆる物が、スマホのクリック一つで買える。消費者には大変便利だ。百貨店やスーパーの業績が落ち込み、書店の廃業が相次ぐのも、ネット通販に客を奪われた影響とされる。「二千円以上は送料無料」を武器に、トップを走るアマゾンはその象徴といえる。
 句会では、一キロの蕗の薹をどうやって食べたのか話題となった。アマゾンでは飛騨産のものが五千五百円で出ている。家族が多ければ食べきれない量ではないが、「蕗味噌にしたのでしょう」という見方に落ち着いた。今が旬の蕗の薹を材料に、消費の「いま」が見えてきた。
(迷 20.02.28.)

念願の墓仕舞終え花菫      田中 白山

念願の墓仕舞終え花菫      田中 白山

『おかめはちもく』

 少子高齢化、核家族化が進んで、先祖代々の墓を守って行けない家が多くなった。ことに、都会住まいの地方出身者にとって、故郷の先祖代々の墓は重い負担になっている。自分がしゃんとしている間はいいが、子の時代になったらどうするのか、その先は・・と考えると、気が重くなってしまう。
 墓仕舞には役所の「改葬許可証」を得る必要があり、そのためには墓地管理者である菩提寺の承認を得なければならない。寺にとって墓が一つ無くなるというのは、檀家を一つ失い収入減になるのでいい顔をしない。そこで檀家を辞めるための「離檀料」を納め、墓を撤去する「閉眼供養」なる法要を行い御布施を納める。さらに墓石の撤去費用、取り出した遺骨を都会の永代供養墓なり何なりに納める費用が要る。精神的、肉体的苦労に加え経済的負担も大きい。しかし、作者はこれを何とかしなければという一念でやり遂げ、心底ほっとしたのだ。
 正直な気持の伝わる佳句だが、墓仕舞を「念願の」というのはいかがなものか。せめて「懸案の」くらいにしておくべきではないか。もう少し、気持を添えるとすれば、「墓仕舞終へて息吐く菫草」あたりはどうか。
(水 20.02.27.)

母校失せ友失せし里ねこやなぎ  金田 青水

母校失せ友失せし里ねこやなぎ  金田 青水

『この一句』

 「母校失せ」「友失せし里」の上五中七は哀しい。作者の生まれ故郷だろう。春近い一日、帰郷してみたが懐かしい母校はもうない。人口減少で統廃校になったのか、作者の通いなれた思い出の場所に見ることはできない。古稀をいくつも過ぎた作者の同級生も、指を折れば何人かはこの世の人ではない。おそらく昔の繁栄ぶりも消えた商店街。ないない尽くしの故郷だが、景色だけは昔と変わらないと言うのだろう。なにやら漢詩の世界を思わせる句でもある。
 この句の真骨頂は、上五中七のネガティブな心情を、下五の「ねこやなぎ」で鮮やかに逆転させたところにあると言いたい。ねこやなぎは春の訪れを告げる川辺の風物詩であり、なにより犬猫の和毛(にこげ)のような快いフワフワ感を感じさせるものだ。このさき穂が開いて葉を形づくるという成長性があるのもいい。前向きで愛くるしい季語「ねこやなぎ」の持つ効能を十二分に発揮させた。句会では都会育ちの出席者の心にも響き、満遍なく票を集めたのはうなずける。(葉 20.02.26.)

いにしへのいくさのにはのしろすみれ 大澤水牛

いにしへのいくさのにはのしろすみれ 大澤水牛

『この一句』

 平仮名だけで詠んだ不思議な味わいの句である。漢字だけの句はたまに見かける。この欄でも「右木曽路左伊那谷夏木立」(杉山三薬)が、半年ほど前に取り上げられている。しかし、平仮名だけの句は少なく、それが効果をあげている句はさらに少ない。仮名の柔らかさが、句の切れ味を損なう面があるからではないかと思う。
 掲句は「いにしへ」、「いくさのには」と古語を平仮名で表現して、古戦場を優しく見渡し、そこに咲く「しろすみれ」も仮名にして可憐なイメージを際立たせている。作者によれば、吟行で訪れた八王子城址で見かけたアリアケスミレを詠んだもの。八王子城は小田原北條氏の支城で、主力が出陣中に秀吉軍に攻められて落城。将兵だけでなく婦女子も共に滅んだ悲運の城だ。平仮名の柔らかさが悠久の時の流れ感じさせ、可憐な「しろすみれ」に自刃したという姫君らが重なる。
 頭韻を「い」で踏み、脚韻に「の」を揃えるいう技巧も重ねている。82歳の作者は「ちょっとやりすぎたかなぁ」と笑うが、そのチャレンジ精神と遊び心は年齢を感じさせない。
(迷 20.02.25.)

追焚きの湯に浸りたる雨水の日  向井 ゆり

追焚きの湯に浸りたる雨水の日  向井 ゆり

『季のことば』

 雨水は二十四節気の一つだが、馴染みは薄い。立春、立秋、冬至、夏至などは誰でも知っていて日常会話でも普通に遣う。ところが、穀雨、小満、芒種などは、ほとんど知られていない。雨水もまた採用されてない歳時記が散見されるほど地味な季語だ。雪が雨にかわり、雪解けが始まり寒さも峠を越えて春の兆しを感じるころの意だという。立春と啓蟄の中間、2月19日ころで、この日にお雛さまを飾ると良縁に恵まれ幸せになれるとか。農耕の準備を始める時期でもあるらしい。
 句会開催が正に2月19日で、掲句はあえてその日にぶつけたと思われる。何らかの事情で遅く帰宅した作者は、冷めてしまった残り湯を追い炊きし、浅春の冷えた身体を湯船に浸す。去来するのは、今日一日のことか、あるいは子の行く末か。冬が終わり春になるのは嬉しいが、一抹の寂しさを感じる。夜遅く残り湯に浸りながら、春の愁いに静かに身を委ねている様が浮かんでくる句だ。(双 20.02.24.)

二駅の近郊線に蕗の薹      鈴木 雀九

二駅の近郊線に蕗の薹      鈴木 雀九

『この一句』

 句を見た途端、そうだ、この通りだった、と思った。小学校低学年の頃、似たような場所で蕗の薹を摘んだ覚えがある。神奈川県の寒川神社に向かう途中の踏切の中だった。母親が「ほら、あそこに」と指さし、一つが目に入ると次々に見えてくる。電車はめったに通らない。線路の方に入ると周囲の砂利の中に、さらにたくさん顔を出しているのであった。
 このような記憶は消すことが出来ない。私の頭の中の蕗の薹は、いつも踏切や線路の中に芽を出していて、この句を見たら、絶対、断固、誰が何と言おうと、選ぶしかない。おかしなもので「この句はオレのものだ、他の人は選ぶな」という思いさえ湧いてくるのだ。
 作者によれば、茨城・竜ケ崎線の情景だという。JR常磐線の佐貫駅から竜ケ崎までの4・5㌔。実は私にも多少縁のある鉄道で、始発駅と終点の間に一駅あったと思うのだが、俳句作品なのだから、そんなことは問題ではない。なおこの句はもうお一方が選んでくれて結果は「二票」に増えた。嬉しかったが、残念という思いも少々残っている。
(恂 20.02.23.)

永き日や数独をとく船の上   池村 実千代

永き日や数独をとく船の上   池村 実千代

『この一句』

 新型コロナウィルスの流行が世界を脅かしている最中、その渦中にあるクルーズ船から送られてきた一句だ。「いま話題のダイヤモンド・プリンセスに乗っています。句会には出席できません」と作者から筆者に驚きの一報があった。「元気にしてるのでご安心を」とも綴られていた。メール投句の取りまとめをしている筆者が折り返し「ぜひ投句を」と連絡すると、「歳時記も何もないけど頑張ります」と気丈な返信。掲句のほかに3句送ってきた。ただ、掲句からはクルーズ船であることは読み取れず、淡々とした詠み方なので、作者に断って「クルーズ船にて」の前書きをつけさせてもらった。句会では誰もが一様に驚き、句友の無事を念じて一票を投じた。前書きがなくても素晴らしい句と評判で、「天」に輝いた。
 「数独難しくて悪戦苦闘しています。でも何かに集中するって大切ですね」、「不安のなか俳句をつくることで心が元気になり免疫力アップです」などなど、作者は気弱な素振りを微塵も見せなかったが、本心は先行きが見えず不安で一杯だっただろう。ともあれ、19日に真っ先に下船できたのが何よりだった。
(双 20.02.21.)

遮断機に止められ出会ふすみれ草  塩田命水

遮断機に止められ出会ふすみれ草  塩田命水

『この一句』

 日本の山野に自生する菫(すみれ)は大昔から人々に愛され、「万葉集」に歌われ、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」を始め俳句にも数々詠まれている。
 小さくてか弱い野草と思われがちだが、なかなかしぶといところがある。花も葉も小指の先くらいのものだが、がっちりと太い根を張り、踏んづけられても平気である。花の散った後5ミリほどの舟型の莢が付き、実るとパチンとはじけて、小っちゃな丸いタネを遠くまで飛ばす。測ったことはないが一メートル近く飛ぶのではないか。それが雨風に吹き流され、都合の良い処に納まったタネは芽生え、そこで大きくなり・・という具合で子孫を拡げて行く。園芸愛好家がいろいろな菫を鉢植えにして楽しんでいるが、それがタネを飛ばして、街中でも道路際の舗装道路の割れ目などに生えて花咲かせている。
 一瞬間に合わず、カンカンカンと警報器が鳴って遮断機が下りた。やれやれと、足下に目を遣ったら、なんと線路と道路の継ぎ目の所に菫が咲いている。足止めを食わなかったらお前さんとは出合はなかったなあとつぶやいている。
(水 20.02.20.)