七月や帽子そろへて母娘     高石 昌魚

七月や帽子そろへて母娘     高石 昌魚

『合評会から』(日経俳句会)

博明 単純だけどよく分かります。イメージ性も強い。
悌志郎 夏休みへの期待感が読み取れる。
反平 季語との距離感に疑問を抱く句が多い中で、この句はほどよく気持ちがいい。
芳之 白いワンピースにおそろいの帽子でしょうか。親子で楽しいお出かけでしょう。
          *       *       *
 作者によれば、若い母親と娘さんがお揃いの帽子を被って街を歩いているのを見かけ、そのまま詠んだものだという。まさに嘱目吟の成功例である。
 日経俳句会最長老のお一人。卒寿にして毎日欠かさず街歩き、常に新しい事どもを見つけては句材に取り込む。この句も娘と姉妹ではないかと受け取られるように装おう若い母親に目を止めてすかさず一句。
 「俳句はボケ防止の妙薬」などという消極的効果ではなく、こうした若々しい句を作ってスタスタ歩いて行かれる姿にほれぼれする。(水)

ブルースをただ聴き続け夏の夜     高橋 ヲブラダ

ブルースをただ聴き続け夏の夜     高橋 ヲブラダ

『この一句』

 占領下の横浜で少年時代を過ごしたため、何も分からないままにブルースやジャズが身体に染み込んだ感じがある。と言ってギターが弾けるわけでなく、トランペットが吹けるわけでもない。演奏会で拍子を取っていると間を外してしまう、どちらかと言えば音痴に近い。それなのに、古いジャズやブルースを聴いているだけで気が休まるのだ。
 この句の作者にももしかしたら、そんなところがあるのかも知れない。本当に「夏の夜」はただただブルースを聴き続けていたい気になることがある。ただ、私よりずっとお若いから、ジャズでもブルースでも、私が大昔に慣れ親しんだキド・オーリー、ルイ・アームストロング、ジョージ・ルイス、歌い手ではビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルドなどではなくて、新時代のジャズやブルース歌手かも知れない。
 黒人奴隷が働きながら歌ったワークソング、教会で歌った賛美歌、霊歌、故郷のアフリカの唄などが綯い交ぜになって生まれたブルースは、単調で素朴な詩とメロディである。それが不思議に現代の我々の心に強く響く。(水)

百日紅散りて真昼のアスファルト     中嶋 阿猿

百日紅散りて真昼のアスファルト     中嶋 阿猿

『合評会から』

三代 焼き付いたアスファルトに百日紅が散っている、夏らしい懐かしい句だなと。
鷹洋 ほんらい綺麗な花なんですが、それが散ってちょっとした無常感がある。
昌魚 百日紅はいま真っ盛り。亡くなった近所の奥様と百日紅を前に世間話をしたことを思い出しました。
作者(阿猿) まだ散っていないので、ちょっと嘘をつきました(笑い)。
       *       *       *
 百日紅は中国原産の落葉高木で夏場に紅やピンク、白の花をつける。花期が長いため百日紅(ひゃくにちこう)とも呼ばれる。加賀千代女も「散れば咲き散れば咲きして百日紅」とその生命力を詠んでいる。
 掲句は百日紅の花が道路に散り敷いた場面を詠む。日差しが照り付ける黒いアスファルトと散った紅い花の対比が鮮やかだ。盛夏を咲き切って散った花に、そこはかとなく無常感も漂う。作者には「凌霄花スナック街の眠る午後」という日経俳句会賞受賞句もある。花の特質をとらえ、色や形をより鮮明に印象づける場面の創出力に感心する。 (迷)

喉すべる流しじゅんさい夏の原      竹居 照芳

喉すべる流しじゅんさい夏の原      竹居 照芳

『季のことば』

 おやおや、じゅんさい(蒪菜)流しとは! 孫たちが来れば、自宅の庭でソーメン流しをして遊ぶ人もいるけれど、じゅんさいとなると簡単ではない。流れてくるのを掴もうとしても、何しろ相手は小さいし、ぬるぬるしているし。とは言え、珍しいし、面白そうだし、やってみたくなってくる。
 ネットで調べたら、秋田県三種町が本拠地だという。何しろこの町だけで、じゅんさいの生産量は全国の90%というからびっくりである。じゅんさい王国の実情を広く世の中に示そうという試みが「じゅんさい流し」で、この催しは大人気、各地から引っ張りだこだそうである。
 じゅんさいの季節(夏)になると出張の要請が次々に到来する。ならば全国的に広がりそうだが、そうはいかない。「 じゅんさいはあまり増やせない。大量に供給できるのはココだけですからね」。じゅんさい流しのことがいろいろ分かって満足。これも俳句の効用の一つかな、と思う。(恂)

関ヶ原読経流るる夏野かな     吉田 正義

関ヶ原読経流るる夏野かな     吉田 正義

『この一句』

 天下分け目の関ヶ原。この辺りは本州の勢力を東西に分ける地域だけに、歴史的な決戦が繰り広げられてきた。有名な「関ヶ原の戦い」だけでなく、「壬申の乱」や「青野ヶ原の合戦」もあった。故郷がこの地の近くにある作者は、特に夏草の時期になると「兵(つわもの)共がゆめの跡」に思い巡らせるという。
 「関ヶ原の戦い」の際は東西両軍が夏の間に集結して対峙し、秋口になって戦の先端が開かれたようだ。歴史書や絵巻物などを見れば、合戦の時期についてさまざまな状況が思い浮かぶが、作者がいつも心に描くのが夏野、と語っている。馴染の深いこの時期の関ヶ原に立つと、鎮魂の思い自然に湧いて来るという。
 関ヶ原に近い岐阜市や大垣市の辺りは寺が多く、信仰の厚い地域とされている。大きな戦いで数多の命が失われた地だからだろう。作者が夏休みなどに帰郷すると、近隣の寺院から読経が流れてきて、昔の戦に思いを馳せてしまう。「この句には、夏野に散った兵たちの鎮魂の思いも・・・」と作者は語っていた。(恂)

梅雨明けや襁褓(むつき)の一歳スクワット     須藤 光迷

梅雨明けや襁褓(むつき)の一歳スクワット     須藤 光迷

『合評会から』(酔吟会)

水馬 孫でしょうね。股割りというのかなぁ。元気な一歳児の動きが見えて来ます。
而云 元気な赤ん坊の動きは、梅雨明けに合っていますよ。
木葉 おむつをつけた子の元気な動きはスクワットのようですね。一歳児の面白い動きが見えてきます。
てる夫 本当のスクワットではないのだが・・・。仰向けになっている時の動きかな。
              *          *         *
 「赤ん坊は二本足で立って初めて人間の道を歩き始める」とある書にあった。では、それ以前は? 「虫のようなものから哺乳類になり、やがて人類に至るまでの進化の道を歩んでいる」とのことであった。確かにそう思わせる所もある。一歳になる頃までの運動は、何と言っても足の動きが最も目立っているのだ。
 おむつを着けて仰向けに寝ていても、足をツンク、ツンクとはね上げている。両手を持って立たせると、なるほどスクワットをやるではないか。泣くのも笑うのも、この頃からようやく人間らしくなってくる。さっと抱き上げれば、にっこり笑う。梅雨明けの日、「お前の親もこうだった」と祖父は思うのであった。(恂)

夏の山ゴンドラ出ずるハイヒール     池内 的中

夏の山ゴンドラ出ずるハイヒール     池内 的中

『この一句』

 いかにも現代的な光景である。例えば、歴史に残る遭難事件が起こった八甲田山を想像してもいい。その山頂の駅からハイヒールを履いた人が出て来た、というのだ。もとより何ら悪びれることなく、あっけらかんとした表情で。鍔の広い帽子をかぶり、展望台で「津軽海峡は…」などと手を翳したかもしれない。
 と書いてきて、疑問が浮かんだ。作者はなぜ、この光景を句に仕立てたのか。ゴンドラとハイヒールの組み合わせは、今時、珍しくも何ともない。つまり、発見や写生の句ではない。とすると、意図は? 便利になるのはいいが、観光客用に整備した山頂は水を吸わず、土石流の一因となる、という警鐘の句なのか…。
 富士山の清掃運動に取り組む登山家の野口健さんらと知床へゴミ拾いに行ったことがある。浜辺に廃棄された漁網や流木とともに韓国、中国、ロシアなどの空瓶やペットボトルが流れ着いていた。山で熊に合い、海で鯨を見もした。いささか牽強付会ではあるが、この一句が、身勝手な人間の振る舞いを憂えるものに思えてきた。(光)

右木曽路左伊那谷夏木立     杉山 三薬

右木曽路左伊那谷夏木立     杉山 三薬

『合評会から』(日経俳句会)

てる夫 木曽路、伊那谷と特徴ある地名を詠んでいて雰囲気がある。
木葉 漢字ばかりの句は難しく、あまり成功例がないが、これは成功している。
阿猿 声に出して読みたい俳句。声に出すと、瞬間的に景が浮かぶ。
青水 コピーしてどこかの自治体に売り込めるほど完成している。
迷哲 道標風でこっちが木曽、あっちが伊那谷というのが「夏木立」と響き合っていていい。
庄一郎 地図で確かめたら、木曽路、伊那谷の分かれは塩尻ですかね。
而云 岡谷とか、諏訪湖から天竜川が流れ出るあたりでイメージしやすい。感じの出ている句です。
三薬(作者) 中山道じゃなく、伊那谷と木曽をつなぐ権兵衛街道の峠です。
          *       *       *
 木曽路と伊那谷という俳句では人気の地名を贅沢に使い、爽やかな季語と相まって書ききれないほどの賛辞を浴びた。今のところ、日経俳句会の今年の最高点句だ。(双)

七月の湿り旧家の養蚕場     廣上 正市

七月の湿り旧家の養蚕場     廣上 正市

『合評会から』(日経俳句会)

木葉 群馬あたりの古い農家には、二階や屋根裏にまだ養蚕室がある。今年は長梅雨ですから、その湿りが覆っているという情景を詠んで、いい感じです。
睦子 梅雨時期の語句がさらっと並び、懐かしさや音と匂いも感じます。
定利 「湿り」がよい。思い出の風景かな。
弥生 「旧家の養蚕場」と「七月の湿り」の措辞が響き合って、空気感が読み取れますね。
          *       *       *
 梅雨時の旧家を描写した句だが、養蚕場を持ってきたことで屋敷の大きさや造りが見えてくる。作者は若い時に群馬県の大学に通った。当時は旧い養蚕農家がたくさん残っていたであろう。群馬は日本最大の生糸産地で、戦前は日本の輸出を支えた。ピーク時は農家の七割近くが養蚕を手掛け、「おかいこ様」と呼んで、二階に広い養蚕室を設け、温度や通風に気を配って大切に育てた。
 現在、県内の養蚕農家は百二十戸余に減っている。掲句からは梅雨湿りの旧家の佇まいとともに、養蚕業の盛衰の歴史が浮かんでくる。(迷)

夏木立愚痴こぼし合う杖ふたつ     中沢 豆乳

夏木立愚痴こぼし合う杖ふたつ     中沢 豆乳

『おかめはちもく』

 夏木立と言えば、普通は「ほっと一息」とか「生き返った気持」とか、その涼しさを踏まえた「喜び」を伝えるものと相場が決まっている。あるいは夏空に突き立つ木々の元気の良さを称揚し、子供たちや青年男女の活発な様子を配合して、「明るさ」を表すことが多い。
 ところがこの句はジイサンかバアサンか、高齢者二人が夏木立の下にようやく辿り着き、愚痴をこぼし合っている。夏木立の句としては何とも珍しい絵で、この句を選句表に見つけた時には、思わず大笑いしてしまった。
 しかし「杖ふたつ」にはがっくりした。近ごろだいぶ乱れてはいるが、日本語には固有の「物の数え方と言葉」がある。例えば魚は生きて泳いでいる時には「一匹」だが、魚屋に並べられると「一尾」になる。鯛や鰺は一尾だが、平目なら「一枚」、烏賊なら「一杯」、切り身になれば「一切」、蒲焼なら「一串」あるいは「一枚」、目刺なら「一連」などと言い方が決まっている。
 「杖」ならば、やはり「一本」でしょうなあ。この句が「夏木立愚痴こぼし合ふ杖二本」だったら、この日一番の句と推奨するところだったのに・・・。(水)