駄々っ子や勝つまで続くカルタ会 篠田 朗
駄々っ子や勝つまで続くカルタ会 篠田 朗
『合評会から』(日経俳句会)
実千代 今あんまりカルタ会をやらないようですが、お正月の雰囲気が伝わりますね。
てる夫 やんちゃな坊主が一人でかき回すなんて。よくある景色です。
迷哲 カルタ会というと百人一首を広げた雰囲気。カルタ取りのほうが良かった。
* * *
かつて日本全国の多くの家庭にあったのが小倉百人一首。飛鳥から鎌倉までの歌人百人の一首ずつを藤原定家が選んで時代順に並べたもの。日本の伝統文化として、また学校の古典教材として流布した。我が家にもきらびやかな絵札とひらがなの読札のセットがあり、正月になると座敷を開け放って、隣近所の子らも集まり楽しんだ。
「春すぎて夏来にけらし白たえのころもほすてふあまの香具山」(持統天皇)
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)
「ちはやふる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平)などなど。
他方、東京などでよく知られている郷土カルタの一つに「上毛カルタ」というのもある。
「あ 浅間のいたずら 鬼の押し出し」
「い 伊香保温泉 日本の名湯」
「つ つる舞う形の群馬県」 全四十四枚からなる群馬県のカルタである。
この句に登場する駄々っ子が懸命に取り組んでいるのは、どちらかというと、この上毛カルタのような雰囲気がある。令和の今日、なんだか遠い風景に見えてくる。
(26.01.07.青)
『合評会から』(日経俳句会)
実千代 今あんまりカルタ会をやらないようですが、お正月の雰囲気が伝わりますね。
てる夫 やんちゃな坊主が一人でかき回すなんて。よくある景色です。
迷哲 カルタ会というと百人一首を広げた雰囲気。カルタ取りのほうが良かった。
* * *
かつて日本全国の多くの家庭にあったのが小倉百人一首。飛鳥から鎌倉までの歌人百人の一首ずつを藤原定家が選んで時代順に並べたもの。日本の伝統文化として、また学校の古典教材として流布した。我が家にもきらびやかな絵札とひらがなの読札のセットがあり、正月になると座敷を開け放って、隣近所の子らも集まり楽しんだ。
「春すぎて夏来にけらし白たえのころもほすてふあまの香具山」(持統天皇)
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)
「ちはやふる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平)などなど。
他方、東京などでよく知られている郷土カルタの一つに「上毛カルタ」というのもある。
「あ 浅間のいたずら 鬼の押し出し」
「い 伊香保温泉 日本の名湯」
「つ つる舞う形の群馬県」 全四十四枚からなる群馬県のカルタである。
この句に登場する駄々っ子が懸命に取り組んでいるのは、どちらかというと、この上毛カルタのような雰囲気がある。令和の今日、なんだか遠い風景に見えてくる。
(26.01.07.青)
初春の運気呼び込む玉すだれ 廣田 可升
初春の運気呼び込む玉すだれ 廣田 可升
『この一句』
新年の歓びが伝わってくる、明るく楽しい句である。初詣や七福神詣に出掛けての寺社の境内か、買初に出掛けての路傍か。「アさて、アさて、アさてさてさてさて、さては南京玉すだれ…」という調子のいい唄に合わせて踊りながら竹すだれを橋に、柳に、旗になど変化させていく大道芸に、顔を綻ばせながら見入っている人々の姿が目に浮かぶ。いかにも正月らしい、のどかないい光景である。
正月の風物詩として、昭和の半ば過ぎまでは獅子舞や猿回しをあちこちで見掛けた。家の中では歌留多や双六、福笑い、家の外では凧揚げや独楽、羽子突に興じる子供も多かった。それらが廃れて行ったのは時代のせいなのだろう。それだからこそ、思いがけずに出合った、福を呼び込む南京玉すだれの芸は懐かしく、作者も嬉しくなって一句仕立てたのではないか。
ただやはり、新年を「初春」とする言い方、季語には違和感がある。それが明治時代の旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への切り替えに伴って生まれた特別な「新年季語」であると頭では分かっていても、体は付いていけない。旧暦では元日はすなわち立春であり(年によってずれは生じたが)、まさに「正月イコール初春」だった。しかし新暦の一月初めは寒さの最も厳しいとき、二十四節気で言う「寒」の時期だ。春の始まる「立春」までまだ一か月ある。実態にそぐわない季語を整理整頓する玉すだれのような妙手はないものか。
(26.01.06.光)
『この一句』
新年の歓びが伝わってくる、明るく楽しい句である。初詣や七福神詣に出掛けての寺社の境内か、買初に出掛けての路傍か。「アさて、アさて、アさてさてさてさて、さては南京玉すだれ…」という調子のいい唄に合わせて踊りながら竹すだれを橋に、柳に、旗になど変化させていく大道芸に、顔を綻ばせながら見入っている人々の姿が目に浮かぶ。いかにも正月らしい、のどかないい光景である。
正月の風物詩として、昭和の半ば過ぎまでは獅子舞や猿回しをあちこちで見掛けた。家の中では歌留多や双六、福笑い、家の外では凧揚げや独楽、羽子突に興じる子供も多かった。それらが廃れて行ったのは時代のせいなのだろう。それだからこそ、思いがけずに出合った、福を呼び込む南京玉すだれの芸は懐かしく、作者も嬉しくなって一句仕立てたのではないか。
ただやはり、新年を「初春」とする言い方、季語には違和感がある。それが明治時代の旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への切り替えに伴って生まれた特別な「新年季語」であると頭では分かっていても、体は付いていけない。旧暦では元日はすなわち立春であり(年によってずれは生じたが)、まさに「正月イコール初春」だった。しかし新暦の一月初めは寒さの最も厳しいとき、二十四節気で言う「寒」の時期だ。春の始まる「立春」までまだ一か月ある。実態にそぐわない季語を整理整頓する玉すだれのような妙手はないものか。
(26.01.06.光)
新春のこなれて来たる五日かな 向井 愉里
新春のこなれて来たる五日かな 向井 愉里
『季のことば』
「五日」は新年の季語。元旦から七日まで、どの日も新年の季語となっている。古代中国の歳時記よると、正月一日を鶏、二日を狗(犬)、三日を猪、四日を羊、五日を牛、六日を馬、七日を人とし、その日が晴れれば人生繁衍する、などと吉祥を占ったそうだ。現代の歳時記にも一日を鶏日(けいじつ)、二日を狗日(くじつ)、三日を「猪日(ちょじつ)」四日を「羊日(ようじつ)」五日を「牛日(ぎゅうじつ)」「六日を「馬日(ばじつ)」との異称が傍題として載っているが、七日の「人日(じんじつ)」以外の作例は少ない。
初句会で「五日」と詠まれれば新年の季語と分かるが、日付自体は普通名詞なので、日にちが経って読み返すと季節感は薄い。先人たちもその辺を考慮して「餅網も焦げて四日となりにけり(石塚友二)」や「水仙にかかる埃も五日かな(松本たかし)」などと、新年の季語と分かるように工夫している。
掲句も同じで、五日ともなると新春気分もこなれて来たなあ、とつぶやいている。「こなれる」は「熟れる」と書き、食べ物が消化する、味噌などが熟成する、技が熟練する、などのほかに事に慣れるという意味もある。お屠蘇だの初詣だの年賀状だの諸々の正月行事に浸った新春の気分もやや慣れてきた、というか飽いてきたころ。また、お節料理やお餅を食べ過ぎたり、美酒にしびれた胃もこなれて来るころだ。いずれにしても「五日」という、まあまあ中途半端な日付をさらりと料理して佳句に仕上がった。
(26.01.05.双)
『季のことば』
「五日」は新年の季語。元旦から七日まで、どの日も新年の季語となっている。古代中国の歳時記よると、正月一日を鶏、二日を狗(犬)、三日を猪、四日を羊、五日を牛、六日を馬、七日を人とし、その日が晴れれば人生繁衍する、などと吉祥を占ったそうだ。現代の歳時記にも一日を鶏日(けいじつ)、二日を狗日(くじつ)、三日を「猪日(ちょじつ)」四日を「羊日(ようじつ)」五日を「牛日(ぎゅうじつ)」「六日を「馬日(ばじつ)」との異称が傍題として載っているが、七日の「人日(じんじつ)」以外の作例は少ない。
初句会で「五日」と詠まれれば新年の季語と分かるが、日付自体は普通名詞なので、日にちが経って読み返すと季節感は薄い。先人たちもその辺を考慮して「餅網も焦げて四日となりにけり(石塚友二)」や「水仙にかかる埃も五日かな(松本たかし)」などと、新年の季語と分かるように工夫している。
掲句も同じで、五日ともなると新春気分もこなれて来たなあ、とつぶやいている。「こなれる」は「熟れる」と書き、食べ物が消化する、味噌などが熟成する、技が熟練する、などのほかに事に慣れるという意味もある。お屠蘇だの初詣だの年賀状だの諸々の正月行事に浸った新春の気分もやや慣れてきた、というか飽いてきたころ。また、お節料理やお餅を食べ過ぎたり、美酒にしびれた胃もこなれて来るころだ。いずれにしても「五日」という、まあまあ中途半端な日付をさらりと料理して佳句に仕上がった。
(26.01.05.双)
厄年も遠くにありて福詣り 池村 実千代
厄年も遠くにありて福詣り 池村 実千代
『この一句』
俳句会で毎年実施している新年恒例の七福神吟行の句である。この時は東急多摩川線の武蔵新田駅近辺にある社寺を巡った。振り出しは矢口の渡で謀殺された武将新田義興を祀った新田神社。境内には露店や大道芸人も出て、初詣客でにぎわっていた。
参道の脇には大きな厄年一掲表が掲示され、若い二人連れや中年夫婦が自分たちの年齢を探していた。吟行参加者の大半が後期高齢者者という我々は、「厄年はとっくに終わってますね」などと素通りしたが、作者は胸に去来した思いをさらりと詠みとめ、高点を得た。
厄年は陰陽道由来といわれ、平安時代から続く風習である。厄年は男性が数え年で25歳、42歳、61歳、女性が19歳、33歳、37歳とされ、それぞれ前後に前厄、後厄がある。特に男性の42歳、女性の33歳は本厄といわれ、お祓いを受けたり厄除けのお守りを買う人が多い。
厄年は人生の節目となる出来事や体調の変化が起きやすい年回りを示す、経験則的な知恵だという説もある。作者も結婚、出産、子育てなど大きな節目(厄)を越えてきたに違いない。「厄年も」の「も」は詠嘆にとどまらず、厄年だけでなく人生の大波小波をいくつも越えてきたという、感慨がにじんでいるように思われる。
さらに下五に置かれた「福詣り」からは、これからの人生で幸福を探そうとの意気込みを感じる。厄年を気にした過去なんて遠くに置いて、未来へ生きようという長寿社会ならではの健吟である。
(26.01.04.迷)
『この一句』
俳句会で毎年実施している新年恒例の七福神吟行の句である。この時は東急多摩川線の武蔵新田駅近辺にある社寺を巡った。振り出しは矢口の渡で謀殺された武将新田義興を祀った新田神社。境内には露店や大道芸人も出て、初詣客でにぎわっていた。
参道の脇には大きな厄年一掲表が掲示され、若い二人連れや中年夫婦が自分たちの年齢を探していた。吟行参加者の大半が後期高齢者者という我々は、「厄年はとっくに終わってますね」などと素通りしたが、作者は胸に去来した思いをさらりと詠みとめ、高点を得た。
厄年は陰陽道由来といわれ、平安時代から続く風習である。厄年は男性が数え年で25歳、42歳、61歳、女性が19歳、33歳、37歳とされ、それぞれ前後に前厄、後厄がある。特に男性の42歳、女性の33歳は本厄といわれ、お祓いを受けたり厄除けのお守りを買う人が多い。
厄年は人生の節目となる出来事や体調の変化が起きやすい年回りを示す、経験則的な知恵だという説もある。作者も結婚、出産、子育てなど大きな節目(厄)を越えてきたに違いない。「厄年も」の「も」は詠嘆にとどまらず、厄年だけでなく人生の大波小波をいくつも越えてきたという、感慨がにじんでいるように思われる。
さらに下五に置かれた「福詣り」からは、これからの人生で幸福を探そうとの意気込みを感じる。厄年を気にした過去なんて遠くに置いて、未来へ生きようという長寿社会ならではの健吟である。
(26.01.04.迷)
元旦に結びし約束もう忘れ 大澤 水牛
元旦に結びし約束もう忘れ 大澤 水牛
『この一句』
正月の句会に、席題として「結」が出されたときの一句。高齢者の多い句会では、物忘れや惚けを題材にとった句が多くなりがちである。が、まさかこの人から、こんな句が出るとは思わなかった。
作者はわれわれの句会の代表。毎月複数の句会に兼題を出され、その「季語研究」たるや、そこらの歳時記の及びもつかない、痒いところまで手の届いた懇切丁寧な長文。吟行に出れば、花木であれ、習俗由来であれ、この人に問えば即座に答えが返ってくる。しかも、句会報の記事まで書かれる八面六臂の活躍。齡米寿を越えられたというのに、惚けにはほど遠い御仁である。
しかしながら、いやいや待て待て、物忘れする人は、むかしのことはよく記憶しているのに、昨日今日、もっと言えばさっきのことが思い出せないというではないか。元旦に約束したことを、二日に忘れることは、誰にもあること。もしかしたら、忘れた方が、都合の良い約束だったかもしれない。であれば、ぬけぬけと、俳句を使って物忘れの免罪符を得ようとしているのかもしれない。いずれにせよ、酒呑堂宗匠の本年のご多幸をお祈り申し上げます。
(26.01.03.可)
『この一句』
正月の句会に、席題として「結」が出されたときの一句。高齢者の多い句会では、物忘れや惚けを題材にとった句が多くなりがちである。が、まさかこの人から、こんな句が出るとは思わなかった。
作者はわれわれの句会の代表。毎月複数の句会に兼題を出され、その「季語研究」たるや、そこらの歳時記の及びもつかない、痒いところまで手の届いた懇切丁寧な長文。吟行に出れば、花木であれ、習俗由来であれ、この人に問えば即座に答えが返ってくる。しかも、句会報の記事まで書かれる八面六臂の活躍。齡米寿を越えられたというのに、惚けにはほど遠い御仁である。
しかしながら、いやいや待て待て、物忘れする人は、むかしのことはよく記憶しているのに、昨日今日、もっと言えばさっきのことが思い出せないというではないか。元旦に約束したことを、二日に忘れることは、誰にもあること。もしかしたら、忘れた方が、都合の良い約束だったかもしれない。であれば、ぬけぬけと、俳句を使って物忘れの免罪符を得ようとしているのかもしれない。いずれにせよ、酒呑堂宗匠の本年のご多幸をお祈り申し上げます。
(26.01.03.可)
福詣妻子は家に置きしまま 須藤 光迷
福詣妻子は家に置きしまま 須藤 光迷
『季のことば』
「初」の字が付けば、おおよそ正月のこととなるのは俳句の約束ごと。なんと初の付いた新年季語の多いこと。歳時記を繰ってみてもざっと四、五十はある。淑気あふれる三が日ともなれば心がおのずと洗われる。さて今年の運勢はいかにと、思い思い神社仏閣に「初詣」して「初神籤」を引く。運気を占うものに「初夢」もある。二日の夜に見るのが一般的だが、元日の屠蘇酒に気を許し深酔いしては、碌な夢にはならない。ともあれ正月の様々なことどもは、過ぎたる年をいったんリセットしてしまうことに、最大の意義があるようだ。
日経俳句会の年中行事のさきがけは、七福神参りだ。毎年十数人の句友が集い、七福神コースを設けている都内や近郊のコースを巡る。都内の有名コースはあらかた制した感がある。新型コロナ真っ盛りの五年前も途切れずに催した。ちなみに一昨年は千住、昨年は多摩川、令和八年は六日に文京区・小石川地区の社寺をたどる。松の内で飲み会付きの一日仕事だから、七福神詣に参加するのは正月の家族団らんを犠牲にすることにもなる。
取り上げた句は、この間の心情を詠んだものである。句友仲間と新年初吟行へと心は逸るのだが、どうにも妻子の目が気になる。せっかく帰ってきた息子娘一家との話が弾む機会なのにという、あちら立てればこちら立たずの心境が「妻子は家に置きしまま」の措辞に表れている。いや、案外妻子は亭主留守で元気がいいとでも思っているのかどうかは知らない。
(26.01.02.葉)
『季のことば』
「初」の字が付けば、おおよそ正月のこととなるのは俳句の約束ごと。なんと初の付いた新年季語の多いこと。歳時記を繰ってみてもざっと四、五十はある。淑気あふれる三が日ともなれば心がおのずと洗われる。さて今年の運勢はいかにと、思い思い神社仏閣に「初詣」して「初神籤」を引く。運気を占うものに「初夢」もある。二日の夜に見るのが一般的だが、元日の屠蘇酒に気を許し深酔いしては、碌な夢にはならない。ともあれ正月の様々なことどもは、過ぎたる年をいったんリセットしてしまうことに、最大の意義があるようだ。
日経俳句会の年中行事のさきがけは、七福神参りだ。毎年十数人の句友が集い、七福神コースを設けている都内や近郊のコースを巡る。都内の有名コースはあらかた制した感がある。新型コロナ真っ盛りの五年前も途切れずに催した。ちなみに一昨年は千住、昨年は多摩川、令和八年は六日に文京区・小石川地区の社寺をたどる。松の内で飲み会付きの一日仕事だから、七福神詣に参加するのは正月の家族団らんを犠牲にすることにもなる。
取り上げた句は、この間の心情を詠んだものである。句友仲間と新年初吟行へと心は逸るのだが、どうにも妻子の目が気になる。せっかく帰ってきた息子娘一家との話が弾む機会なのにという、あちら立てればこちら立たずの心境が「妻子は家に置きしまま」の措辞に表れている。いや、案外妻子は亭主留守で元気がいいとでも思っているのかどうかは知らない。
(26.01.02.葉)
紅を引く妻の華やぎ初鏡 中村 迷哲
紅を引く妻の華やぎ初鏡 中村 迷哲
『この一句』
明けましておめでとうございます。今年も楽しく俳句を詠み、賑やかに批評し合って参りましょう。年明け松の内の『みんなの俳句』は、当欄のコメンテーター7名が皆様の昨令和七年の新年詠の中から選んだ句についての想いを連ねて参ります。
*
まずは「初鏡」。年が明けて初めて鏡に向かい化粧することをいう言葉です。きらりと光る鏡そのものを新鮮に感じて初鏡と言う場合もあります。この句は元旦に家族そろって屠蘇を酌み交わし雑煮を祝う前に、一家の主婦である「妻」が鏡に向かった情景を詠んでいます。情感豊かな句です。
「妻の華やぎ」という措辞が新年の気分を遺憾無く表し、この句を引き立てています。女性は幾つになっても身だしなみ、お化粧に気を使います。その点、男はだらしなくて無精髭をはやしたまま、言われなければ同じものを何日も着ていることなどざらです。生殖能力の衰えと共に身辺を飾る必要と意欲を失うオスの本性のしからしむるところでしょうか。その点、女性には「灰になるまで」という強さがあります。
味気ない役所言葉で言えば妻も「後期高齢者」なのかも知れないが、まだまだしゃんとしているし、気は若い。お正月ともなれば暫くぶりのお化粧に励み、口紅も引く。そうすると新たな活力が湧いてきて、気分も華やぐのでしょう。
「お、お母さん、若返ったな」と作者は思わず声を上げる。めでたさここに極まれりの一幕です。
(26.01.01.水)
『この一句』
明けましておめでとうございます。今年も楽しく俳句を詠み、賑やかに批評し合って参りましょう。年明け松の内の『みんなの俳句』は、当欄のコメンテーター7名が皆様の昨令和七年の新年詠の中から選んだ句についての想いを連ねて参ります。
*
まずは「初鏡」。年が明けて初めて鏡に向かい化粧することをいう言葉です。きらりと光る鏡そのものを新鮮に感じて初鏡と言う場合もあります。この句は元旦に家族そろって屠蘇を酌み交わし雑煮を祝う前に、一家の主婦である「妻」が鏡に向かった情景を詠んでいます。情感豊かな句です。
「妻の華やぎ」という措辞が新年の気分を遺憾無く表し、この句を引き立てています。女性は幾つになっても身だしなみ、お化粧に気を使います。その点、男はだらしなくて無精髭をはやしたまま、言われなければ同じものを何日も着ていることなどざらです。生殖能力の衰えと共に身辺を飾る必要と意欲を失うオスの本性のしからしむるところでしょうか。その点、女性には「灰になるまで」という強さがあります。
味気ない役所言葉で言えば妻も「後期高齢者」なのかも知れないが、まだまだしゃんとしているし、気は若い。お正月ともなれば暫くぶりのお化粧に励み、口紅も引く。そうすると新たな活力が湧いてきて、気分も華やぐのでしょう。
「お、お母さん、若返ったな」と作者は思わず声を上げる。めでたさここに極まれりの一幕です。
(26.01.01.水)
一人見る冬至の夜の天球儀 横井 定利
一人見る冬至の夜の天球儀 横井 定利
『この一句』
天球儀とは球面上に恒星や星座の位置、天の赤道、黄道などを描いたもの。地球儀が地球の表面を表すのに対し、天球儀は地球から見た星々など天空の姿を示している。天体の出没や高度・方位、星座の配置などを知るのに役立つ。
地球儀のある家庭は多いが、天球儀はめったにないだろう。作者は冬至の夜にその天球儀を一人で眺めているというのだが、なぜかしっくり来た。冬至の長くて寒い夜が、冬空に輝く星座を連想させ、天球儀と重なるのである。
夏至とか冬至と聞くと、天体の運行とか宇宙の構造に意識が向かう。冬至の兼題を見た時も、小学校の理科の時間に、先生が太陽に見立てたライトで地球儀を照らしながら、夏至や冬至の仕組みを説明してくれたことを思い出した。
掲句を読むと、太陽の周りを地球が公転するイメージと、天空を描いた天球儀の世界がシンクロし、天体運航の玄妙さに思いが至る。仮に結句を地球儀にすると、冬至によって地上にもたらされる短日や寒さに関心が向き、微視的な句になる。天球儀だから巨視的な宇宙ロマンが感じられるのではなかろうか。
作者は飄々とした人柄で、軽妙洒脱な句をよくする。内省的に見えながら、宇宙的な広がりを感じさせる掲句に、意外な一面を見た思いである。
(迷 25.12.31.)
『この一句』
天球儀とは球面上に恒星や星座の位置、天の赤道、黄道などを描いたもの。地球儀が地球の表面を表すのに対し、天球儀は地球から見た星々など天空の姿を示している。天体の出没や高度・方位、星座の配置などを知るのに役立つ。
地球儀のある家庭は多いが、天球儀はめったにないだろう。作者は冬至の夜にその天球儀を一人で眺めているというのだが、なぜかしっくり来た。冬至の長くて寒い夜が、冬空に輝く星座を連想させ、天球儀と重なるのである。
夏至とか冬至と聞くと、天体の運行とか宇宙の構造に意識が向かう。冬至の兼題を見た時も、小学校の理科の時間に、先生が太陽に見立てたライトで地球儀を照らしながら、夏至や冬至の仕組みを説明してくれたことを思い出した。
掲句を読むと、太陽の周りを地球が公転するイメージと、天空を描いた天球儀の世界がシンクロし、天体運航の玄妙さに思いが至る。仮に結句を地球儀にすると、冬至によって地上にもたらされる短日や寒さに関心が向き、微視的な句になる。天球儀だから巨視的な宇宙ロマンが感じられるのではなかろうか。
作者は飄々とした人柄で、軽妙洒脱な句をよくする。内省的に見えながら、宇宙的な広がりを感じさせる掲句に、意外な一面を見た思いである。
(迷 25.12.31.)
来年もやることいっぱい日記買ふ 大澤 水牛
来年もやることいっぱい日記買ふ 大澤 水牛
『合評会から』(番町喜楽会)
光迷 年の瀬になっての来年のことだから、旅行やら何やら予定も見えているのでしょう。「あと十年」という句もありましたが、それに比べて現実味があります(笑)。
百子 目標、意欲満ち満ち、何と素晴らしい。
満智 わー、元気!という第一印象。やるべきお役目や興味ある対象がいっぱいで、来年もスケジュール管理してバリバリこなしていくぞーという意気込み、エネルギーが感じられます。
愉里 新たな年への真っ直ぐな期待があり、そこが良いと思って戴きました。
水牛(作者) 皆さん前向きな句として受け取ってくれていますが、実際のところは家族の病気のケアだとか、壊れた藤棚の補修だとか、後ろ向きの予定もいっぱいあって…。
* * *
こんな一節に出合った。――友人とのおもしろい会話があった。「老人にはキョウヨウが大切なんだ」「教養?うん、大切かな」「それじゃない。今日用だ。今日、用があるかどうかだ」確かに。今日、用があれば生活にリズムが生じ、張り合いのようなものも生まれる――阿刀田高「90歳、男のひとり暮らし」(新潮選書)より。俳句に陶芸、菜園に料理と、水牛さんは日々、超多忙。それが心身共に健やかな秘訣かも知れない。
(光 25.12.29.)
『合評会から』(番町喜楽会)
光迷 年の瀬になっての来年のことだから、旅行やら何やら予定も見えているのでしょう。「あと十年」という句もありましたが、それに比べて現実味があります(笑)。
百子 目標、意欲満ち満ち、何と素晴らしい。
満智 わー、元気!という第一印象。やるべきお役目や興味ある対象がいっぱいで、来年もスケジュール管理してバリバリこなしていくぞーという意気込み、エネルギーが感じられます。
愉里 新たな年への真っ直ぐな期待があり、そこが良いと思って戴きました。
水牛(作者) 皆さん前向きな句として受け取ってくれていますが、実際のところは家族の病気のケアだとか、壊れた藤棚の補修だとか、後ろ向きの予定もいっぱいあって…。
* * *
こんな一節に出合った。――友人とのおもしろい会話があった。「老人にはキョウヨウが大切なんだ」「教養?うん、大切かな」「それじゃない。今日用だ。今日、用があるかどうかだ」確かに。今日、用があれば生活にリズムが生じ、張り合いのようなものも生まれる――阿刀田高「90歳、男のひとり暮らし」(新潮選書)より。俳句に陶芸、菜園に料理と、水牛さんは日々、超多忙。それが心身共に健やかな秘訣かも知れない。
(光 25.12.29.)
次々と忘れる漢字日記買ふ 廣田 可升
次々と忘れる漢字日記買ふ 廣田 可升
『この一句』
「まったくその通り。パソコンで文字を打つばかりで、老いも若きも漢字を正確に書けなくなった。せめて手書きの日記があればと思うのでしょう」との木葉さんの評は誰しも思い当たる節があるらしく、句会で一番の人気を集めた。
そもそも読めるけど書けない漢字は多い。パソコンやスマホで漢字を入力するには変換候補から選ぶだけなので、あまり不自由は感じない。ところが、手書きするには漢字を正確に覚えている必要がある。しかも漢字は理屈では覚えられないから、記憶するには手で書くしかない。かつては手紙だった通信手段は、今や電子メールへ変わったため、文字を書く機会はほとんどなくなった。残されたのは、日記や手帳を手書きでつける習慣くらいだ。
筆者は、5年日記を買って手書きしている。リタイアしてからは特筆すべき出来事はあまりないので、末尾の一行は夕食のメニューで埋める。その際、ひらがなに逃げず辞書を引きながら必ず漢字を書くように努めている。例えば、「鰤照、菠薐草のお浸し、麻婆茄子」というように。
また、俳句を始めて良かったことの一つに、「薔薇」が書けるようになったことが上げられる。早世した女優、夏目雅子が作家の伊集院静と一緒になったのは、彼が目の前で薔薇の漢字をすらすら書けたのがきっかけ、とか。そんな逸話にあやかりたい訳ではないが、難しい漢字が書けるようになるのは嬉しい。
作者も自戒を込めて、「タブレットで日録のようなものをつけているので、日記は買ったことがない。漢字が書けなくなっているのは事実なので、日記を買うかどうかはともかく、手で文字を書くことはしないといけない」と云う。
(双 25.12.27.)
『この一句』
「まったくその通り。パソコンで文字を打つばかりで、老いも若きも漢字を正確に書けなくなった。せめて手書きの日記があればと思うのでしょう」との木葉さんの評は誰しも思い当たる節があるらしく、句会で一番の人気を集めた。
そもそも読めるけど書けない漢字は多い。パソコンやスマホで漢字を入力するには変換候補から選ぶだけなので、あまり不自由は感じない。ところが、手書きするには漢字を正確に覚えている必要がある。しかも漢字は理屈では覚えられないから、記憶するには手で書くしかない。かつては手紙だった通信手段は、今や電子メールへ変わったため、文字を書く機会はほとんどなくなった。残されたのは、日記や手帳を手書きでつける習慣くらいだ。
筆者は、5年日記を買って手書きしている。リタイアしてからは特筆すべき出来事はあまりないので、末尾の一行は夕食のメニューで埋める。その際、ひらがなに逃げず辞書を引きながら必ず漢字を書くように努めている。例えば、「鰤照、菠薐草のお浸し、麻婆茄子」というように。
また、俳句を始めて良かったことの一つに、「薔薇」が書けるようになったことが上げられる。早世した女優、夏目雅子が作家の伊集院静と一緒になったのは、彼が目の前で薔薇の漢字をすらすら書けたのがきっかけ、とか。そんな逸話にあやかりたい訳ではないが、難しい漢字が書けるようになるのは嬉しい。
作者も自戒を込めて、「タブレットで日録のようなものをつけているので、日記は買ったことがない。漢字が書けなくなっているのは事実なので、日記を買うかどうかはともかく、手で文字を書くことはしないといけない」と云う。
(双 25.12.27.)