初冬や浅間ひろびろ天も地も   堤 てる夫

初冬や浅間ひろびろ天も地も   堤 てる夫

『この一句』

 浅間山は美しく雄大な山である。私事ながら、長く携わった仕事の主力工場が佐久にあり、またよく利用した研修所が浅間山の麓にあり、出張するたびに何度もお目にかかった山である。
 まだ新幹線のない頃、軽井沢を過ぎたあたりから、車窓に浅間山を眺めながら、横川駅で買い込んだ峠の釜飯を楽しんだのを思い出す。空が晴れて、お山が綺麗に見えた時は、なんとなく仕事もうまくいきそうな予感がしたものである。研修所では、レポートがうまく書けず外に出た時、夕焼けに染まる浅間山を見て、レポートなんかどっちでも良い、と急に気が大きくなったのも思い出す。
 この句は、そんな浅間山の初冬の清々しさを気持ちよく詠んだ句である。「初冬」だから、すでに山頂には冠雪が見えている。空はおそらく真っ青に澄んでいるのだろう。その空を背景に、美しい稜線が麓までくっきりと見えている。地上の樹木はすでに葉を落としていて、その分だけ天も地もひろびろとして見える。
 「天も地も」という措辞が余計ではないかという評があった。なるほど俳句の仕上がりとしてはその通りかなという気がする。しかしながら、蛇足とは思いつつも「天も地も」と思わず詠まざるを得なかった作者と、その感動を共にしたいと思った。また、浅間山が見たくなった。
(可 20.11.11.)

従わぬ者みな斬ると冷まじき   杉山 三薬

従わぬ者みな斬ると冷まじき   杉山 三薬

『この一句』(日経俳句会)

 長期政権記録の安倍政権を継いだ菅義偉氏には「強権」のイメージがある。官房長官として中央省庁各部をまとめ、引っ張った実行力。政権の方針に異議をとなえる官僚に遠慮しないといった強面の側面。首相になってすぐに表面化した日本学術会議の委員人事問題の対応には「剛腕」というより「強権」の印象を受ける。掲句は「冷まじき新首相」を詠んだ時事句である。
 水牛歳時記の「冷まじ」には、「物凄い」「見るも無残」といった現代風の詠み方も盛っている。しかしこの句会で「すさまじや首領になる人かつぐ人」(光迷)、「すさまじや首相官邸鉄の壁」(てる夫)、「冷まじやコロナ軽視の大統領」(百子)といった時事句には点が入らなかった。「冷まじき」新首相の句には二点入ったが、「それ以上」にならなかった。時事句だったからだろうか。
 時事句と川柳の違いを考える。川柳は時流を鋭く風刺する。俳句は人の心や自然の営みから受ける感慨を物に託して詠み、そこから時流に対する作者の心の動きをほのかに示す。ここが真っ正面から時流を斬る川柳との違いであろう。しかし掲句が時事句であって詩情のかけらもないと言って排除するのは当たらない。
 個人的には、時の流れや、生きとし生けるものを題材に句作するのを好む。それが結果的に川柳に近いものになったとしても構わない。それは即ち自分の生きてきた世界の記録であり、残しておきたいと思うからである。
(て 20.11.10.)

目鼻口つけて南瓜の大笑ひ    髙石 昌魚

目鼻口つけて南瓜の大笑ひ    髙石 昌魚

『この一句』

 句を読んだとたんに、オレンジ色のハロウィーンの南瓜の顔が浮かんだ。欧米では10月末のハロウィーンには、南瓜をくり抜き中にロウソクを灯して玄関に飾る。本来は悪霊を追い払う魔除けのランタンというが、お化けが大笑いしているように見える。目鼻口を付けたら南瓜が人格を持ち、笑い出したと想像できる愉快な句だ。
 南瓜はどこか愛嬌のある野菜だ。放っておいても育ち、畑にごろごろ転がって実が生る。デコボコした丸い顔立ちで台所や納屋の隅に鎮座している。戦国期にポルトガルから伝来したといわれ、荒地でも実り、保存が利く上に栄養価も高い。江戸時代や戦後の食料難の時など、庶民の食卓を助けてきた。見た目は地味だが、甘くほくほくした実は、煮ても揚げても美味しく、スープやケーキにしても味わい深い。
 そんな南瓜が祭りの主役となるハロウィーン。今や仮装イベントと化した日本では、実物はもちろん、南瓜のレプリカやシールが街中に溢れる。今年はコロナ騒動で例年のような混雑は回避されたが、代わりに仮想空間でのハロウィーンが盛り上がった。商業主義に踊らされる晩秋の狂騒を、南瓜は笑い飛ばしているのであろう。
(迷 20.11.09.)

老い二人空気となりて秋深し    高井 百子

老い二人空気となりて秋深し    高井 百子

『季のことば』

 「秋深し」という季語はそれだけでもうしんみりとしてしまうフレーズだから、却って句にしにくいところがある。「秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉」を筆頭に「彼一語我一語秋深みかも 虚子」「秋深しふき井に動く星の数 露伴」など良い句もあるのだが、歳時記に列挙されている大家の「秋深し」句に感銘を受けるものが意外に少ない。どうも季語に負けてしまっているようなのだ。
 この句は「もうお互い空気のような存在ですよ」という、老夫婦の暮らしぶりを表す言葉として、しばしば耳にする文句をそのまま用いている。だから、「御座なり」という酷評を下す人も居るかも知れない。もしかしたら類句があるかも知れない。
 しかし私は選句表にこの句を見つけた時、「いいなあ、秋深しと響き合っているなあ」としみじみ感じ入った。「老い二人空気となりて」と、すっと言われると、清清しく暮らしている老夫婦だけの静かな景色が浮かび上がって来る。冷えまさる午後に、熱くて香りの良い焙じ茶を啜っている情景を思い浮かべてもいい。お互いあまり喋ることも無いのだが、言葉など交わさなくても全然問題は無い。
(水 20.11.08.)

一軒に保存魔ふたりすさまじき  池村実千代

一軒に保存魔ふたりすさまじき  池村実千代

『季のことば』

 すさまじ(冷まじ)はとても難しい季語だと思う。なにしろ辞書で「すさまじ」を引くと「凄まじい」しか出て来ないのだ。この季語には「凄まじい」の意味も含まれているはずだが、それだけを詠むと「冷まじ」にはならない。歳時記の説明に従って、句に「寒々とした秋の終わりの感じ」を添えるのは容易なことではないと思う。
 掲句を仮に「凄まじい」の感じで捉えると、よく言う「ごみ屋敷」となり、その通りに解釈した人もいたようだ。しかし「冷まじ」に乱雑のニュアンスは薄いと思う。ご夫婦が収集癖、買い物好きであったとしても、単にものを集め、散らかしっ放しにしているのではなさそうだ。むしろ句から「整然」の雰囲気が浮かび上がってくる方が好ましい。
 「保存魔」という語がこの句のカギを握っている、と思う。二人とも「散らかし魔」ではなかった。自分の物を処分は出来ないが、整理して押入れや居間の隅にきちんと積み上げたりしているのだろう。これならば秋冷の気とどこか通じるものがある・・・。私はそう結論づけてから自室を見回し、「うーむ、凄まじい」と唸ったのであった。
(恂 20.11.06.)

濃口はいまだ好かぬと龍田姫   廣田 可升

濃口はいまだ好かぬと龍田姫   廣田 可升

『この一句』

 「そうか、龍田姫は奈良、かつての大和で生まれ育ったのか。だったら、濃口が口に合わないのももっともなこと。佐保姫も同様だろう。それにしても、いいところに目を着けたものだ。作者は関西の人に違いない」。選句表でこの句に出会った時の感想である。
 そして「額田王も紫式部も淡口派だろう。濃口派となると…、北条政子じゃつまらないし、虎御前といっても大方の人は知らないかもしれない。『虎が雨』という季語はあるものの」という想いが続いた。
 料理には地域の特性が滲み出る。大阪の人が東京で蕎麦を前に「こんな黒い、辛い汁は」と嘆くのを聞いたことがある。一方、自分は鹿児島で刺身を楽しもうと思ったものの、箸が動かなくなった。醤油が甘くて、如何ともし難かったのだ。
 鹿児島といえば薩摩、薩摩揚となるが、地元ではそういう呼び方はしないとか。「大阪では天婦羅という」という説も聞いた。関西では「おでん」を「関東炊き」ともいうらしい。醤油に味噌、餅の形…まさに所変われば、である。
(光 20.11.05.)

渾身の一日花やオクラ咲く    谷川 水馬

渾身の一日花やオクラ咲く    谷川 水馬

『季のことば』

 「オクラ」はアフリカ原産のアオイ科の一年草。筆者は最近、オクラの花を初めて知った。近所の散歩コースには様々な農作物が植えられていて、日々の成長ぶりを横目に歩いている。自分で育てた経験のある野菜もあり、ある程度は何が植わっているか判明がつくが、ある日、茎も葉も見た事のない植物を見つけた。何日か経つと、やがて淡い黄色の花を咲かせ、後日、下の方に何やら実のような物が認められた。そこで初めて「なんだ、オクラか」、とようやく正体が分かった。そんな矢先に出会ったのが掲句だ。オクラが一日花というのはこの句で知ったが、同じアオイ科の仲間に木槿や芙蓉もあり、どれも一日花。道理で花が似ている、と納得した。
 作者の住まいの近くには、谷戸と呼ばれる田畑に適した地が広がっている。掲句は愛犬と散歩中の一人(と一匹)吟行の詠だろう。ひょっとしたら作者も初めてオクラを知ったのかと思ったが、とんでもない。作者の郷里、鹿児島は全国一のオクラの産地。当地では、オクラが全国の食卓に上るずっと前から食していたという。だとしたら、花はもちろん調理法から何から熟知しているに違いない。そんな作者が散歩中に馴染み深いオクラの花を見て、懐かしくも愛しい気持ちになったのだろう。「渾身の」の形容にオクラへの愛情が感じられる。その感動は読者にも届き、採った人は口を揃えて「渾身」の措辞を褒め讃えた。
(双 20.11.04.)

吸ひ込んだ息の深さや秋の空   植村 博明

吸ひ込んだ息の深さや秋の空   植村 博明

『この一句』

 「深呼吸」というものは誰が考え出したものなのだろう。古武道にも古代中国の医術・道術にも呼吸法があるから、大昔からあったのだろうが、一般化したのは明治大正時代に欧米から「体操」「海水浴」などという健康法が導入されて以来と思われる。それがラジオ体操に取り入れられて、「大きく息を吸って、吐いて−」ということで日本全国に広まった。近ごろは腹式深呼吸など、いろいろなやり方がテレビやネットで紹介されている。ヨガや太極拳にもそれぞれ独自の呼吸法があり、今や深呼吸は老若男女、知らぬ者は居ない。
 近ごろは地方の観光地などで、万物の活力の元となる「気」が発生するなどという噂が流れて人気スポットになる場所が出て来た。そこで深呼吸したり瞑想したりすると、体内に気を取り込むことが出来て、活力が増すというのである。
 そうしたものの真偽は定かではないが、空気の良い山間地や海浜で深呼吸すれば身体にいいことは確かだろう。取り分け気分が爽快になるのは天高く晴れ上がった秋の空の下である。腹の皮が背中に張り付くほど、ゆっくりと息を吐き出す。そしてまたゆっくりと、静かに鼻から息を吸って、胸と腹をこれでもかと膨らます。これを数回繰り返すと、寿命が伸びるような気がする。
(水 20,11,03.)

モノクロの路地を彩る柘榴の実  塩田 命水

モノクロの路地を彩る柘榴の実  塩田 命水

『合評会から』(番町喜楽会)

的中 白黒の路地に真っ赤な柘榴の実が落ちている情景でしょう。コントラストが鮮やかで、印象的な句です。
満智 モダンアート風写真のような景がぱっと浮かびました。浮かんだ景が印象的だったのでいただきました。
          *       *       *
 この「柘榴の実」をどんな状態て捉えているのか、合評会の中でいろいろな声が聞けた。ひとつは選評にあるように、道路に実が散らばっている情景。もうひとつは、まだ木の枝の先にあって割けた果肉から実が覗いている情景。
 筆者はどちらかというと後者のイメージで読んだ。柘榴のルビー色をした実は、とても美しいが、ややグロテスクな色にも見える。むかし、子だくさんの鬼子母神が、自分の子を育てるために人の子の肉を食わせていたのを、お釈迦様が見かねて柘榴の実を食べるように諭したという伝説などもあり、少しそんな思いがするのかもしれない。
 筆者もこの句にモノクロの路地の写真を想像した。モノクロなのに柘榴の実の部分だけが鮮やかな赤で着色されている。森山大道さんならやりそうだ。
(可 20.11.02.)

黒猫も納屋に飛び込む芋嵐    須藤 光迷

黒猫も納屋に飛び込む芋嵐    須藤 光迷

『合評会から』(番町喜楽会)

てる夫 「芋嵐」の意味を初めて辞書で調べました。いい季語だなあと思っていただきました。
命水 白猫だと絵になりません。ここは黒猫ですね。
水兎 雨の降る嵐だったのでしょうか?一人と一匹で、仲良く雨を眺めている情景が目に浮かびました。
双歩 「も」の意味がわからず採れませんでした。
          *       *       *
 「黍嵐」の傍題である「芋嵐」はあまり見ないが、味のある季語として話題にしてもよし、「黒猫も」の「も」について論じてもよし、この句自体の良さを論じてもよい句だろう。俳句では「も」は焦点がボケるから控えるべきと言われる。もちろん「も」の多用は避けるべきだ。「黒猫の」でいいのではないかとの声も出たが、この句の「も」は猫さえ逃げる激しい芋嵐だとの意があると思える。作者は「も」にしたのは、「里芋を育てている農家の人が先に納屋へ入ったからです」と、目の前の情景を見たまま詠んだだけと述べている。
(葉 20.11.01.)