品書は女将の細字木の芽和    中村 迷哲

品書は女将の細字木の芽和    中村 迷哲

『この一句』

 句会で「木の芽和」を「このめあえ」と読んだら、「木の芽和」は「きのめあえ」、「木の芽時」は「このめどき」と読まなくてはいけないと指摘を受けた。帰って歳時記で調べると、その通りだった。念のために古い広辞苑を開いてみると、「このめあえ」も項目としては立っているが、「きのめあえ」を見よとなっており、語釈は「きのめあえ」にしかなかった。世間では「このめあえ」という読み方も流布しているが、正しいのは「きのめあえ」だよということか。句会は勉強になる。
 木の芽和えは、すりつぶした山椒に味噌や調味料を加え、筍や烏賊、蛸などと和える、春らしい食べ物である。盛りつけた上に、木の芽を一枚あしらうのだが、昔から手のひらで叩くと良い香りがすると教えられてきた。当然ながら、お酒なしではすまされない。
 この句に詠まれた光景は、居酒屋ではないだろう。割烹か、少なくとも小料理と看板に出ている店だろう。品書きは厚めの和紙に書かれていて、季節ごとに書き換えられるので、そんなに古びてはいない。「女将の細字」という措辞が、店の雰囲気やたたずまい、女将の容姿すら想像させる。加えて、「品書き」ではなく「品書」、「木の芽和え」ではなく「木の芽和」、「細い字」ではなく「細字」、こういった表記の細部が、きりっとした印象を与え、店も料理も引き立てているようだ。こんな店の木の芽和えなら、是非、行って食べてみたいものである。
(可 24.03.24.)

買い物に出し妻いづこ遅日なり  須藤 光迷

買い物に出し妻いづこ遅日なり  須藤 光迷

『季のことば』

 2月が足早に終わり桃の節句も過ぎれば、日暮れがやや遅くなったと実感する。歳時記には「遅日」と「日永」は同意だが、遅日は日暮れが伸びることに重きが置かれるとある。我ら老句友の平均年齢は70をゆうに越える〝日暮れ族〟だ。毎日が暇と言っていい年金生活。なかにはまだ現役で頑張っている人もいるが、おおかたは日がな一日夫婦顔を突き合わせて余生を過ごしている。
 そういった日常の中でこの句の「妻いづこ」に同感する。作者の妻は夕食の食材を買いにスーパーに行ったのか、はたまた新しい春の装いをと思い立って都心のデパートにでも出掛けたのか。想像するばかりで実情は分からない。留守番の亭主は手持無沙汰である。俳句をひねったり読書もしたりして時間をつぶしているが、それにしても帰りが遅い。そろそろ腹が減って来たなあというところか。筆者ならスマホで「今どこ?」「帰りは何時ごろ?」などと訊きたくなるが、うるさがられるのが落ちでこれは禁じ手。
 愛妻家であり我慢強い作者のことだから、悠然と帰りを待っている。その姿が目に浮かぶ。この句からは夫の苛立ちめいた気配はうかがえない。妻の帰りを待つ世の亭主族の心情を詠みながらも、それと一線を画す感じがするのである。妻を気遣いつつ遅日だからしょうがない、と下五を収めたところに作者の余裕がみえる。
(葉 24.03.22.)

昼席の追い出し太鼓暮遅し    徳永 木葉

昼席の追い出し太鼓暮遅し    徳永 木葉

『季のことば』

 春になって昼間の時間が永くなることを「日永(ひなが)」という。同じような季語に「遅日(ちじつ)」があるが、「もっぱら日没時間の遅くなったことに比重を置いた言い方」(角川俳句大歳時記)とされる。遅き日、暮遅し、暮れかぬ、なども同類の季語で、日没が遅くなったことに春を感じるのである。
 掲句は寄席の昼席の終了を知らせる太鼓と暮遅しを取合せている。昼席は正午前後に始まり、午後四時過ぎに終わるところが大半である。作者が昼席で存分に笑い、太鼓の響きに送られて外に出てみるとまだ十分に明るい。冬の間は五時近くには暗くなっていたものが、日が伸びて夕暮れにはまだ早い。まさに「暮遅し」を実感したのではないか。
 寄席太鼓は客の出入りに合わせて鳴らされる。叩くのは前座の仕事の一つである。はね太鼓とも呼ばれる追い出し太鼓は「デテケ、デテケ(出てけ、出てけ)」と聞こえると言われる。「デテケ」の太鼓を聞きながら、薄暗い客席から外に出たら、まだ明るくてびっくり。寒くて暗い冬の日を過ごしてきた身には、なおさら明るく暖かく感じられたであろう。
 作者は健康面から夜の外出を控えているという。昼間出かけるのは問題がないので、寄席も昼席を楽しむようになったのではなかろうか。外に出て暮れかねる街を見て、近くのビアホールなんぞでグラスを傾け、遅日を楽しんだのではないか、と想像を広げている。 
(迷 24.03.21.)

春雪の庭に舞ひ来る尾長二羽   堤 てる夫

春雪の庭に舞ひ来る尾長二羽   堤 てる夫

『合評会から』(番町喜楽会)

水兎 尾長は結構大きくて、あれが庭に来たら嬉しいですよね。最近は都内でもよく見掛けますが、百子さんの句かなあ。
双歩 先日の関東の降雪か、あるいは上田あたりの実景か。
木葉 何とはない光景であるが、このあいだの雪を抒情的に詠んだ。降る雪には不思議な感覚があり、景が容易に想像できる。
          *       *       *
 オナガは体長40cm近くあるそうだが、尾羽が20cmと長くその名がついた。体の大きさはムクドリくらいでカラスの仲間。庭にやって来たらそれなりに存在感があるだろう。
 長野の上田在住の作者宅には広い庭がある。手入れは大変そうだが、四季折々の自然の移ろいは、何よりのご馳走だ。上田は飯山辺りに比べると積雪は少ないが、雪はよく降る。春の雪に覆われたモノクロの庭に、尾長が舞い降りた。ただそれだけを言っているが、作者の感動、喜びが静かに伝わってくる。
 最近、作者は大臼歯を抜歯したという。雪の中の歯科医通いは難儀そうだが、家に帰れば庭の野鳥が疲れを癒やしてくれると、掲句が語っている。
(双 24.03.20.)

ガンダムも隅に飾りて雛祭り  玉田 春陽子

ガンダムも隅に飾りて雛祭り  玉田 春陽子

『合評会から』(番町喜楽会)

青水 ガンダムは男の子のおもちゃだから、この家には男の子と女の子がいるのだと思うけれど、もしかしたら、ガンダム好きの女の子なのかも知れない。
二堂 雛祭りは女の子の祭り。男の子に気配りしているところが面白い。
満智 飾り付けに子供が参加している楽しそうな様子が浮かびます。隅に置いたのは大人との交渉の末でしょうか。
愉里 こういうことをするのは弟くんですね。ガンダムは大きいのかなあ、雛人形は段飾りなのかなあ、などと大きさが気になりました。
水馬 出産予定の二人目の孫が男の子のようなので、きっとこんなことになる予感がします。
          *       *       *
 筆者も二堂さんと同じように、男の子がすねないように、大人が配慮したのだと思った。ところが、女性(満智さん、愉里さん)は二人とも、ガンダムを飾ったのは、子供であると捉えている。なるほど、目が覚めた。僕たち、男という人種は家庭や子供たちのことなど何もわかっていないのだ、と改めて知った。よしんば、並べたのが男の子でなかったとしても、お姉ちゃんが弟のために置いてやったのかも知れない。いずれにせよ、ガンダムを飾ったのは子供で間違いないだろう。
(可 24.03.18.)

頬刺や駿河の海の銀の波    溝口 戸無広

頬刺や駿河の海の銀の波    溝口 戸無広

『季のことば』

 「頬刺」は聞きなれない言葉であるが目刺の異名。鰯のエラから口に藁を通し、数匹ずつ連ねることからその名があるという。純然たる季語ながらあまり使われていないようでもある。目刺も頬刺も「刺」という刺激的な字が入る。目に刺すか頬に刺すかの差にすぎないが、受ける印象はかなり違う。
 この句を読んで場面の解釈にちょっと戸惑った。最初イメージしたのは、頬に藁を通した大量の鰯が脚立に並んで浜辺に干されているという景色である。それが陽を受けて銀色に輝き銀の波と化している図だ。「銀の波」はもちろん駿河湾の波に掛かっている。また「頬刺」とあえて使ったのは頬を刺すような寒風の中ともみた。
 だが待てよ、これは作者が目刺を頬張りながら、鰯の集まる駿河湾の波を思い出しているのかもしれないと。「そういえばあの辺りには思い出があるなあ」と、頬刺で記憶が呼び起こされ、懐かしさから出来た句とも思えた。素直に読み解けばこちらの解釈のほうが真っ当だろう。「や」で切っているのだから、「頬刺」と「銀の波」は離れた二句一章の句とするのが正解かもしれない。
 それにしても、即物的な目刺の兼題に詩情豊かな句が出来上がり、迷わず一票を投じた。どちらの解釈が正解なのかは、大阪在勤の作者に訊いてみなければ分からない。
(葉 24.03.17.)

うろ覚え母の手順で木の芽和え  斉山 満智

うろ覚え母の手順で木の芽和え  斉山 満智

『合評会から』(番町喜楽会)

水牛 お母さんはどうやって作っていたかなあ、と思い出しながら木の芽和えを作っている。それを素直に詠んだとてもいい句ですね。真っ先に採りました。
春陽子 「うろ覚え」がいい。この言葉を発見したのがお手柄だと思います。うろ覚えでもやってみようというチャレンジ精神も感じます。
幻水 お母さんを真似てやってみるところに、なんとも言えないほんわかした気分がして好感が持てます。
迷哲 木の芽和えは、さほど難しい調理ではなさそうですが、美味しくできたのでしょうか?
          *       *       *
 木の芽和えは、春を告げる酒の肴に絶好の一品である。よって、小料理屋の突き出しなどによく登場する。もとより、家庭で作ることも多い。茹でた筍などに、擂り潰した山椒の若芽に砂糖と白味噌を咥えて混ぜたものだ。春の香りがいっぱいの料理である。
 店先で筍を見付けたせいかどうかはともかく、作者はそれを作ろうと思い、お母さんを偲ぶこととなった。筍の茹で方や切り方、白味噌を溶く塩梅などを。それと同時に、お母さんのいろいろな姿が浮かんだことだろう。実に味わいの深い佳句である。
(光 24.03.16.)

佐保姫のあっかんべーや今日の風 嵐田双歩

佐保姫のあっかんべーや今日の風 嵐田双歩

『この一句』

 酔吟会は兼題の他に席題が出される句会である。この日の出題者は大澤水牛氏。どんな席題が出されるかと思ったらなんと「あかんべ」。一同頭を悩ましたが、結果としてはなかなかの秀作が出揃った。
 佐保姫は平城京の東、佐保山に在す春の女神。平城京の西、龍田山に在す秋の女神である龍田姫と対置される。ともに春と秋にふさわしい美しい季語である。この日は晴天ながらも、とても風の強い日であった。この句の面白さは、なんといっても、おしとやかな姫君に、強風に向かって「あっかんべー」という茶目っ気のある行為をさせていることだろう。季語である佐保姫にあかんべをさせ、「今日の風」とその日の強風を織り込み、しかも句会の始まるまでの短時間に即興で仕上げたこの句は、挨拶句のお手本のようだと感心した。
 この句は、最初は「佐保姫があかんべと言ふ今日の風」であった。投句してから、「佐保姫のあっかんべーや今日の風」の方が良いと気がついたと、作者みずから言われた。この句を採ったものも採らなかったものも、ほとんどが「あっかんべーや」の方が良いと、差し替えに賛同した。俳句の勘どころを知っている作者だからこそ出来る改作だろう。この句は元の形で上々の人気を集めたのだが、最初からこの句なら最高点を争ったに違いない。
(可 24.03.14.)

弁当に早緑の葉や春めけり    徳永 木葉

弁当に早緑の葉や春めけり    徳永 木葉

『季のことば』

 「春めく」は「いかにも春だなあ」という感じを抱かせる仲春3月の季語なのだが、温暖化の昨今は2月からこうした暖かい日がある。春野菜もずいぶん早く育つ。ことに近頃はすべてがハウス栽培という「温室育成」だから、1月2月から春野菜が出回る。
 句会でこの句を採った人が「菜の花のことかなと思って頂きました。ちょうど昨日飲みに行き、菜の花がおいしいねって、お店で会話をしたばかりだったので……」と言っていたが、私もこれは菜花だろうなと思った。いかにも春らしい綺麗な句だ。
 私たちの句会は夜間開催が多いので時間節約のため、事前投句を幹事が取りまとめ「選句表」を参加者にメール配信する。それを見てあらかじめ選句して句会に臨み、句会はいきなり披講(選句発表)から始める方式を取っている。だからこの句も句会の4、5日前に見ていた。翌日、葉山に遊びに行くことになっていたので、「菜の花の辛子和えはいいなあ、これで弁当を作ろう」と思い立った。早速近所のスーパーで房総産の菜の花を買い、たらこむすびと菜花の辛子和えの弁当を作って、海岸で食べた。晴れた空には鳶が舞い、海の彼方には江ノ島がぼうと霞んで見える。早緑の菜花がたらこのピンクに映え、いかにも春めく感じであった。
(水 24.03.13.)

女流書展誘いの葉書春めきて   工藤 静舟

女流書展誘いの葉書春めきて   工藤 静舟

『この一句』

 女流書展という言葉の持つ華やかなイメージが、春の訪れを喜ぶ気分と響き合って、気持の明るくなる句である。上の句は字余りだが「じょ・りゅう・しょ・てん」という拗音と撥音の連続が勢いを生み、書展への弾む思いを感じさせる。女流書展を一度のぞいたことがあるが、参会者は大半が女性で、和服姿の人もいて、墨色の世界に色とりどりの花が咲いたような印象だった。
 句会では「女流書展は春も秋も開催されるのでしょうが、言葉の響きから春めいた感じがする」(雀九)とか「桜色の葉書にお誘いの文字が書いてあるのでしょう」(愉里)など、まさに春めく気分を感じ取った人が多かった。
 日本の書道人口は、レジャー白書によれば220万人程度と推計され、この10年で半分以下に減っている。パソコン・スマホの普及により、筆で文字を書く文化は日本人の日常から消えつつあるようだ。文化庁の調査では、書道団体に属して日頃書に親しんでいる人は67万人弱で、そのうち75%は女性である。女流書展が隆盛を極めるのも当然と言える。
 作者は古くから書に取り組み、日経書道会の幹事を務める能書家である。書道仲間の女性も多く、春の陽気とともに舞い込んでくる案内の葉書を眺めているのであろう。宛名は流麗な筆致の手書きに違いない。
(迷 24.03.12.)