タワマンが狭めた空よ月朧    篠田  朗

タワマンが狭めた空よ月朧    篠田  朗

『合評会から』(日経俳句会)

迷哲 江東区の東雲とか川崎市の武蔵小杉とか、タワマンが林立しているところに行って、下から空を眺めると、確かに空が狭まっていると感じます。月が霞んでいる風景を取り合わせて、何とも言えない雰囲気があります。
明生 タワーマンションが空を狭めたなんて、上手い表現です。そのため月がぼんやりと霞んで見えるなんて、心憎いと思いました。
百子 タワマンではなく、タワーマンションとした方が良いかも。でも、まさにこの通りです。
          *       *       *
 この句を見てすぐに東急東横線の武蔵小杉を思い浮かべた。昭和時代半ば、荒地や畑や田んぼが広がっていた小杉、丸子一帯に工場が続々建てられ、東横線に「工業都市」という名前の駅が生まれた。敗戦後しばらくして、それが南武線の武蔵小杉駅近くに引っ越して「武蔵小杉駅」に改名した。やがてバブル時代以降、工場がどこかへ引っ越した跡地にタワマンがニョキニョキ生じた。しかし道路は昔の畑道を舗装しただけの狭いまま。下水道は極めていい加減。ちょっとした長雨ですぐに浸水騒ぎになる。タワマン越しの月は、本当に情けない感じで面映そうに照っている。
 但し作者によるとこの句は川口市とのことだ。タワーマンションが四、五本建ち、非常階段には常夜灯が明るく、月が鰯の目のように潤んでいたのが印象的だったので詠んだという。
(水 25.03.09.)

蝋梅の小枝の中の星座かな   溝口 戸無広

蝋梅の小枝の中の星座かな   溝口 戸無広

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 蝋梅の咲き始めの様子が星座に見えたことを詠んだ句と解釈して頂きました。小枝の隙間から星座が見えたということでしたら勘違いになってしまうのですけれど。
光迷 蝋梅を見詰めていて、その小枝に星座のような形が見えたのでしょうか。ここにオリオン、あそこは寒昴とか。ロマンがあっていいですね。
阿猿 蝋梅の花は葉が出る前の枝にちょこんと乗っかるようにして俯き加減に咲く。見上げてみるのが一番いい。星座の見立てが秀逸。
健史 奥ゆかしく咲く花。星の例えが絶妙です。
豆乳 蝋梅の小枝と小枝がつくる空間に星が瞬く。美しい景色を詠んだ良い句です。
双歩 多くの人が蝋梅を星座に見立てたと解釈して採っています。私はてっきり小枝の隙間から星座が見えるのか、ウーンで終わっちゃった。
          *       *       *
 蝋梅の花自体が星座なのだと解釈してこの句を採った句友と、枝の隙間から夜の星座を見たのだろうと思った句友に分かれた句だ。欠席した作者の説明はないのだが、ここは前者の解釈が妥当と思う。この時季黄色い花を咲かす蝋梅。三分咲き、五分咲きの小さな花々が、あたかも小宇宙をなしていると作者は見た。連なる花は星座だという思いに納得する。作者の観察眼と比喩が光っていると、一票を入れた句だ。
(葉 25.03.07.)

薄氷の踏んでくれろと誘いたる  伊藤 健史

薄氷の踏んでくれろと誘いたる  伊藤 健史

『季のことば』

 薄氷は国語辞典で引くと「はくひょう」と読み、薄く張った氷を意味する。俳句の世界では「うすらひ」あるいは「うすごおり」と読み、春先に張るごく薄い氷を指す。角川俳句大歳時記は「昼頃には解けて、いくつもの断片に分かれ消えて行く。冬の氷と違い、薄く消えやすい。淡くはかない情感がある」と解説している。傍題に「春氷」もあり、初春の季語に分類される。
 掲句に描かれているのは、春先の寒の戻りで道端のくぼみに薄く張った氷であろう。子供でなくても思わず靴先で踏んでみたくなる。その気持を、薄氷が誘っていると表現したところに、可笑しみが生じ、ユーモアあふれる句になっている。「踏んでくれろ」という方言めいた表現もとぼけた味わいを醸している。
 子供の頃に誰もが体験し、心に残っている記憶なので、共感した人は多く、2月の日経俳句会で高点を得た。「子供の頃は見つけるとみんなでキャッキャ言って踏みつけた 水牛」、「薄氷は踏みたくなるもの。誘いたるが面白い 戸無広」といった句評のように、自らの体験を重ねて点を入れたようだ。
 もっとも国土交通省の統計では、全国の道路舗装率は82.5%に達している。現代の子供たちは登校の時に薄氷を踏みたいと思っても、氷の張った水たまりを見つけること自体が難しそうだ。
(迷 25.03.05.)

春寒し経年劣化大八洲    大澤 水牛

春寒し経年劣化大八洲    大澤 水牛

『この一句』

 今年一月末。埼玉県八潮市で突然、道路が陥没して、その穴にトラックが突っ込んでしまうとい
う大事故が発生した。もう一か月以上にもなるというのに、未だにトラックに乗っていた人は見つ
からず、復旧工事も遅々として進んでいない。連日、県知事が事情説明に躍起となっている。
 実は九年前にも道路の陥没事故が起きている。福岡市のJR博多駅前で同じように道路が陥没し、
連日、テレビで陥没し続ける映像が流れた。その時も日本全国にショックが広がった。何が起きた
のか分かった後に、事態の深刻さと対策のむつかしさに世論が沸いた。今回の大規模陥落は、博多
駅前の惨事以後、この国が本格的に対策に取り組んでこなかったことを図らずも証明した。
 この句は5,60年前の昭和の高度成長期に日本全国でなされた下水道工事の寿命が尽きつつあ
ることを嘆く時事句だ。
 「経年劣化」という、俳句にはまったくそぐわない字句を中七に持って来て、さらに下五には、これまたほとんど死語になっている単語を持って来て締めている。それもあって句会ではこの俳句には票が入らず「大八洲なんて知らない」などと、一蹴されてしまった。
 昭和100年。戦後80年。停滞30年。超高齢化・少子化が進み、この国の先行きへの懸念が尽きない。この句も時事句の宿命というか、「令和7年」といった詞書なしには埋もれてしまうに違いない。でも噛み締めたい句だ。
(青 25.03.03.)

ラストランドクターイエロー風光る 久保田操

ラストランドクターイエロー風光る 久保田操

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 ドクターイエローに思い入れはないのですが、ラストランのイベントに推しの人とかが楽しみに行っているのをテレビで見ました。出席者では私しか採らなかったので、高点ぶりにびっくりしました。
阿猿 ドクターイエロー、愛されてますね。風光る季節に鮮やかな黄色の車体が映えます。JR西日本のドクターイエローはあと二年現役だそうです。
定利 「風光るドクターイエローラストラン」にした方が良い。
水牛 一回だけ走っているのを見たけど、面白くも何ともなかった。
双歩 所詮は工事車両ですからね。ただ、子供たちにはすごく人気がある。それに、見ると縁起が良いとか幸運になるとも。
          *       *       *
 兼題の「風光る」に話題の「ドクターイエロー」を取り合わせた簡明な一句である。ある意味で素っ気ないが、それが風光るという言葉の清々しさに合致しているともいえる。下手に策を凝らさなかったことが成功の秘密だろう。ただ、定利さんの指摘にあるように、上五と下五を入れ替える方が、より情感のこもった、広がりを感じる句になるように思われる。
(光 25.03.01.)

風眩し過ぎし五年や船の旅   池村 実千代

風眩し過ぎし五年や船の旅   池村 実千代

『この一句』

 2020年2月3日、横浜港に入港した大型クルーズ船で、新型コロナウイルスの集団感染が発生。乗客・乗員3711人が船内に隔離され、712人が感染、13人が死亡した。
 ちょうど5年後の2月3日。当時の乗客の有志が横浜港で祈りを捧げるとのニュースを聞いた作者は、居ても立ってもいられなくなり近くの教会へ駆けつけ、朝のミサでお祈りをしたという。当時作者は、夫と共にその船に乗っていて、「永き日や数独をとく船の上」の一句を船上から投句。月例で一席に輝くと共に、その年の日経俳句会賞という年間優秀賞を受賞した(2020年2月21日付け、当ブログ参照)。
 その後、新型コロナ感染症は、2類から5類に変更され、今や季節性インフルエンザと同等の位置付けだ。節目ということもあり、NHKの番組で「クルーズ集団感染」が取り上げられたり、クルーズ船で対応に当たった災害派遣医療チームDMATを描く『フロントライン』という映画が今年6月に封切られるなど、回顧企画が目につく。
 当時の作者は、船を降りた後も様々な辛いことがあったという。それ故、クルーズ船の事を思い出す度に複雑な気持になる。とはいえ、この経験をプラスに変えたいという思いもある。兼題の「風光る」は状態をいうが、あえて「風眩し」と主体的に詠んだのも前を向こうという意思の表れか。作者にとっては重い「五年」だ。
(双 25.02.27.)

雑炊で締めるつもりが呑み直し  中沢 豆乳

雑炊で締めるつもりが呑み直し  中沢 豆乳

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 雑炊まで来て幸せだったという気持があり、またさらに盛り上がりたいというところが出ていて、良いかなあと思いました。
双歩 外でやる時は雑炊まで来たら呑み直せないけど、自宅ではこういうことは平気で出来る。あるいはもう一軒、行ったのかもしれない。いったん締めたがもっと吞みたくて。
てる夫 今や呑み直しどころか酒を絶っているので・・、呑み直しをしてみたいです(笑)。
静舟 よくありました。昔のオヤジは皆そうでした。断われへん!
操 雑炊の美味しさ、呑み助は後を引く。
ヲブラダ はい。まだまだいけます。暖かい友との語らい。
          *       *       *
 酒呑の生態をそのまま詠んでいる。宴会で前菜から刺身、煮物など次々に出てきて、「鍋」が仕立てられ、それも終われば、残菜が掬い取られ、ご飯が入れられて雑炊となって「お開き」となる。これで素直に散会すればいいのだが、そうは行かないのが呑ん兵衛だ。表に出て夜風に吹かれた途端、「もう一丁」となる。「これだからお酒飲みは嫌っ」とお堅いご婦人方にはそっぽを向かれる。しかし、近頃は「さあ二次会よ」と誘うご婦人方が結構増えてきたのが楽しい。
(水 25.02.25.)

雑炊となればでしゃばる男あり 高橋ヲブラダ

雑炊となればでしゃばる男あり 高橋ヲブラダ

『この一句』

 そうそう、こういう男いるよなあ、と膝を打った。正直言えば私自身もこういう風になりがちな癖の持主で、何か事あるごとに要らざる言葉を吐いて座を白けさせたりしてしまう。そこで、宴席では三分ごとに腿をつねって余計なことを言わないようにしているのだが、盃を重ねるうちに地金が出て、「この刺身はなかなかいいが、切り方がもう一つだな」などと言い出したりして嫌われる。
 鍋物ともなればまさに百家争鳴である。鍋物にはいろいろあり、その土地によって特色のある鍋料理がある。家によっても作り方が異なる。そして、みんな、自分の作るものが一番だと思い込んでおり、譲らない。それはそれで微笑ましく、結構なのだが、困るのは他の人のやり方を認めない偏屈頑固な輩だ。その男の作る鍋がまずまず食べられるものならいいのだが、時には味付けが極端でどうにもならないことがある。こんなのにぶつかったら悲劇と言うより仕方がない。
 この句は鍋が終幕となっての雑炊段階である。この段になってまで、とやかく言い出す男がいるというのが面白い。同じ句会に「蘊蓄も講釈も添へ河豚雑炊」(双歩)という句が出たところをみると、こういう男が一人や二人ではないことがわかる。とにかく、天下太平である。
(水 25.02.23.)

見廻りの猫またぎゆくクロッカス 金田 青水

見廻りの猫またぎゆくクロッカス 金田 青水

『この一句』

 クロッカスは名前は知っているが、意外に見ることの少ない花である。開花期が春先に限られることや、丈が低く目に入りにくいことが要因であろうか。しかし春の訪れを告げるかのように、庭の隅で色とりどりの小さな花を咲かせる姿は可憐である。「青春の喜び」や「切望」という花言葉がよく似合っている。地中海地方が原産のアヤメ科の球根植物で、水耕栽培にも適している。2月の番町喜楽会の兼題に寄せられた句を見ると、庭に咲いた花や窓辺の鉢、あるいは教室のクロッカスを詠んだものが半数ほどあった。
 その中で掲句は見廻りの猫を取合せて、意表を突く。多くの草花が枯れて色を失った庭の隅に、クロッカスがぽつぽつと咲き、春到来を感じさせる。ところが縄張りの見廻りに通りかかった猫は、「我関せず」とばかりまたぎ越して行く。その無関心ぶりに何とも言えぬ可笑しみ、俳諧味がある。可憐なクロッカスと無関心な猫の遭遇を、「またぎゆく」という動詞ひとつで鮮やかに描いて見せた作者の手腕に感心した。
 クロッカスの兼題句で最高点を得たが、採った人は猫好きが多かった。「花を見もせずに上手にまたいでいく猫の景がぱっと浮かびました。猫をよくわかっている方の句ですね。ユーモラスで好きです 満智」という句評がそれを代表としている。
 ところでこの猫はどんな色だったのだろう。白猫の方がクロッカスの色が映えるように思えるが、意外に黒猫だったかも知れない。そんな連想もまた楽しい。
(迷 25.02.21.)

春立つやなにやら動く池の中   嵐田 双歩

春立つやなにやら動く池の中   嵐田 双歩

『季のことば』

 「春立つ」とは二十四節気の『立春』を和訓でやさしく言ったものである。寒が明けたばかりのこの頃は寒さが最も厳しい頃合いである。しかし、「暦の上ではもう春なのだ」と無理して、やや粋がって春を感じ取ろうとする気負いがある。「立春」という季語にはそうしたところがある。ところがそれを「春立つ」と大和言葉で言うと、不思議と暖かくなる。
 音読みはどうしても硬い感じを与え、訓読みや我が国古来の大和言葉にすると柔らかい感じになる。年季の入った俳句詠みはそうした点をよく心得ていて、両者を上手に使い分ける。
 温度計はまだまだ冬の気温を示しているが、自然界の動植物は早くも動き始めている。散歩の道すがら、路傍にはイヌフグリが空色の花を付け、踊子草が赤紫の可憐な花を咲かせている。枯木だってよく見ると、ぽちっと小さな粒と、それより少し大きな粒を膨らませている。小さな方はやがて葉になり、大きな方は花を咲かせる芽である。
 池の水はよく澄んでいて、蓮や睡蓮、その他もろもろの水草の芽はまだ見えないが、水底の泥がちょっと動いた。気の早い水棲昆虫が目をさましたのか。それともこちらの目の錯覚か。とにかく、もう春なのだ。そうした微妙な季節の移ろいをきちっと詠み止めた一句である。
(水 25.02.19.)