春眠のパソコン画面謎の文字   谷川 水馬

春眠のパソコン画面謎の文字   谷川 水馬

『この一句』

 一読して思わずニヤリとし、「ある、ある」と自らの体験を思い出して一票を入れた。パソコン作業をしていて睡魔に襲われると、一時意識が飛び、キーボードに置かれた指がキーを押し続けることがある。ハッと目覚めて画面を見れば、そこにはアルファベットや記号の意味不明な羅列が並んでいる。数秒で目覚めればいいが、寝落ち時間が長いと、謎の文字は数ページに渡って延々と続くことになる。掲句はそんな春の日の出来事をユーモアたっぷりに詠み、長閑な気持ちにしてくれる。
日本で売られているパソコンのキーボードは、アルファベットと仮名が併記されたJISの日本語配列が大半だ。アルファベットも仮名も配列に規則性はなく、むしろ打ちづらい並びとさえいえる。タイプライター時代からの歴史的経緯があって、この不便な配列になったらしい。使用頻度などをもとに、富士通の親指シフトなど、より入力しやすい配列も考案されたが定着していない。
 作者は文章を扱う仕事柄、パソコンには熟達している。キーボードもワープロ時代から様々なタイプを使いこなしているに違いない。その作者も眠気だけは如何ともしがたい。ましてコロナで在宅勤務が続いている今日この頃である。会社とは違いリラックスして画面に向かっている時に、春眠が兆す。画面に謎の文字が浮かぶのも、むべなるかなである。
(迷 21.04.25.)

テキストに欠伸一つ永き日や   久保 道子

テキストに欠伸一つ永き日や   久保 道子

『おかめはちもく』

 なにかの自習テキストとにらめっこしているのであろう。もしかしたら“コロナ籠もり”を契機に、長年やりたい、学びたいと思いながら取りかかれなかった課題に挑戦したのかもしれない。
 しかし、事志と異なって、テキストを読み始めるとすぐに眠気に襲われる。渋茶を飲んだり、そこいらをぐるぐる回ったり、ラジオ体操のようなものをやってみたりするのだが、さてまた机に向かうと眠くなる。まさに春の日である。
 誰もが経験していることをすっと詠んでいるところがなかなか良い。しかし、問題は5・6・5という「字足らず」である。漢語で「欠伸」と書いて「ケンシン」と読み、日本でも古い書物にそう読ませる例があることはあるが、まさか現代俳句でそんな音読を用いたわけではなかろう。
 世界最短の詩と言われる俳句は、「せめてもう一字でも二字でも使えれば」と詠み手を悔しがらせる短さである。だから、「破調」と言われるのを覚悟の上で「字余り」句を作ったりする。それなのに、この句は字足らずのままで「もったいない」と言われかねない。とにかく、「字余り句」は場合によっては許されるが、「字足らず」はいけない。それに、これは「意気込んでテキストに向かったが眠気を催してしまう有様です」という諧謔の句である。諧謔句は特に定型を守り、リズム良く詠んでこそ面白さが伝わる。
前後入れ替えて「永き日やテキスト前に大欠伸」とでもすれば、とにかく形が整うのではないか。
(水 21.04.23.)

近き人逝きて余生や暮の春    斉山 満智

近き人逝きて余生や暮の春    斉山 満智

『この一句』

 「近き人」とはまことに簡潔な表現である。親兄弟ではなく、単なる仲のいい人でもない。従兄弟(従姉妹)あたりまで含めた、長い付き合いを持つ人。特に何でも話せる、信頼の置ける人だった、と推測出来よう。世の中に二人といないような人が亡くなってしまったのである。心の中に大きな穴がぽっかりと開いたという状況なのだろう。
 そんな自分の心を見つめて「近き人逝きて余生や」とは、これまた何とも言いようのない簡潔さである。「これからの歳月は、私にはもう余生の日々なのだ」。亡き人は同い年か、いや、年の差は関係ないかな・・・。しかし、と考え込んだ。深い悲しみとか、嘆きなどとは、やや異なる次元の何かが、「暮の春」の中に漂っているようにも思える。
 「近き人とは?」と作者に尋ねてみるか、とも思ったが、やめることにした。俳句という詩は、わずか十五音で全てを表わし、読む側もその中から全てを汲み取らなければならない。想像の幅を思い切って広げて見ることにした。もしかしたら作者の傾倒する作家が亡くなって・・・。そんな「近き人」だったら、いくらか気が楽になるのだが。
(恂 21.04.22.)

婆さんの連弾の技春の風    池村 実千代

婆さんの連弾の技春の風    池村 実千代

『合評会から』(日経俳句会)

而云 「婆さん」は突飛だが、面白い。孫のピアノに連弾で加わったか。春の風が曲調を想像させる。
雅史 春風のように爽やかな演奏だったんでしょうね。とても素敵です。
水兎 素晴らしいですね。何を弾かれたのでしょうか?「老女」ではなく、意外さを感じさせるお二人が、春の風にのって弾くピアノ。人生百年時代ですね。
水馬 状況を色々と考えさせてくれる句ですね。また、連弾は一人ではできない難易度の高い曲も演奏できるそうですね。いづれにしても春らしいすがすがしい雰囲気がいいと思います。
*       *       *
この句について作者の弁がある。「四月のピアノ発表会で友人と連弾します。曲目はパッヘルベルのカノン。ユーチューブでプロの演奏をきき私達のは小学生レベルだわと笑いながら練習を重ねる日々。相手の音をしっかりとつかみ心穏やかに楽しくピアノに向かいます。あうんの呼吸の技を駆使して。コロナの自粛生活のお蔭で得た一番の宝物かもしれません」。これがこの句についてのすべてを語っている。オバアチャマ二人の連弾。自分たちはもとより、子どもたち、孫たちにも有無を言わせず「上手い」と言わせてはばからない。春風が実に心地良い。
(水 21.04.21.)

新しき靴おろす朝草若葉   中嶋 阿猿

新しき靴おろす朝草若葉   中嶋 阿猿

『この一句』

 通学あるいは出勤前の情景と受け取ることもできるが、「草若葉」という季語を置いたところからすると、これは早朝のジョギングに出で立つところではなかろうか。下ろしたてのスニーカーを履いて「いざ」という気分である。きつすぎず緩すぎず、靴紐をしっかり締めて、立ち上がり、足踏みしめてみる。そして、颯爽と草若葉の道を走り出す。早春のちょっと肌寒い空気が殊の外心地良い。
 ウオーキングでもジョギングでも、履き慣れた靴はなかなか捨てられない。しかし、毎日酷使しているのだから、しばらくたてば当然すり減って来る。極端に踵の減ったジョギングシューズを履き続けるのは運動中のバランスを崩したりして身体に良くないと言われる。それでも履き慣れたシューズは心地よく、なかなか捨てられない。それをある日、新品に取り替えたのだ。
別に大したことではないのだが、当人にとっては「変えたぞ」ということで、気分一新の趣を実感する機会になる。そうした気持がよく表れた佳句である。「草若葉」の季語がまさにぴったりである。
(水 21.04.20.)

桜さくら今日もどこかで人が死ぬ  嵐田双歩

桜さくら今日もどこかで人が死ぬ  嵐田双歩

『この一句』

 合評会でこの句に対する選評を聞いていて、「桜」あるいは「花」に対するイメージは実にさまざまだなと思った。「桜の樹の下には死体が埋まっている」という小説を思い出した人がいた。戦前の軍隊や特攻隊の「散る桜」をイメージする人もいた。また、西行の「ねがはくは花の下にて春死なん」の歌も忘れることができない。
 それぞれニュアンスは異なるが、日本人の死生観の中心に、「桜」あるいは「花」のイメージが纏わりついていることは間違いなさそうだ。いっぽうで、「桜」に華やかで浮かれた気分を感じるという人もあり、この方にとっては「桜」を「人の死」と取合わせることには違和感があるようだった。花見の宴会など、現代はこのイメージの方が主流かもしれない。
 この句は季語の「桜」に「今日もどこかで人が死ぬ」という至極当たり前の措辞を取合わせただけの句である。俳句は具体的なモノやコトを詠むことを善しとするのに、ここで詠まれている死は、誰かの具体的な死ではなく、抽象的で一般的な死である。こういう句はひとつ間違えば達観や観念論に傾斜してしまう恐れがある。しかし、この句は外連味なくさらっと詠まれたことで、読み手に「あゝ、そうだなあ」と共感させる、しみじみとした味わいのある句になっている。「桜さくら」と表記を変えてダブらせたことも、とても効果的である。
(可 21.04.19.)

休耕田紫雲英に染まり甦る    久保田 操

休耕田紫雲英に染まり甦る    久保田 操

『この一句』

田畑は長年耕作し続けると、病害虫がはびこり出し、収穫量が落ちて来ることがある。そこで耕土の疲れを癒やすのと、病害虫の卵や細菌、エサになるようなものを失くすために半年なり一年休ませる。大概は田畑の上で枯れた雑草や藁を焼く。こうして病害虫を殺すと同時に、燃えカスの灰が表面を覆い肥料となる。その後に紫雲英(ゲンゲ)や馬肥(ウマゴヤシ)など田畑に有益な作用をもたらす根粒菌を持つ草のタネを蒔いて放置する。昔はこれを休耕田(畑)と言った。
ところが近ごろの農村地帯の事情は昔と大いに異なり、耕作の担い手が無くなったり、国の減反政策に応じてといった休耕田が多い。都市近郊の農村地帯では“田畑として活用しているふり”をして紫雲英や草花をはやして宅地並み課税を免れている休耕田もある。トヨアシハラミヅホノクニの堕落である。
 しかし、本当の休耕田であろうと、税金逃れの休耕畑であろうと、そこに咲いている紫雲英に罪は無い。春になれば緑の葉を茂らせ、赤紫の可憐な花を一斉に咲かせる。雑草が生い茂り手入らずの荒れ果てた田畑が生き返ったようだ。中には粋な地主もいて、そこに山羊を放したり、誰もが入って遊べるように開放している休耕田もある。親子連れがそうした紫雲英の田畑でピクニックしている情景は楽しく、まさにこの句のような雰囲気である。
(水 21.04.18.)

ライオンの檻を自由に雀の子   田中 白山

ライオンの檻を自由に雀の子   田中 白山

『この一句』

 読めばすぐに場面が浮かび、ほのぼのとした気分になる句である。作者は句作にあたっては極力自分の眼で確かめるという現場主義で知られる。おそらく動物園で実際に目にした光景であろう。ライオンが寝そべっている檻に、好奇心旺盛な子雀が入り込み、恐れげもなく歩き回っている。「食べられやしないか」と、ちょっとスリルを感じる場面なだけに、雀の子の冒険心や愛らしさが一層印象づけられる。
 福音館から出ている「こすずめのぼうけん」という絵本がある。イギリスの児童文学者の作品を石井桃子さんが翻訳したもので、一人で飛べるようになった子雀が遠くまで行き、泊まるところもなく様々な体験をして巣に帰るまでの物語だ。試練に立ち向かう子雀と、信じて待つ母雀の姿が感動を呼ぶ。洋の東西を問わず、雀の子は冒険好きで目を離すと思いがけない所まで飛んでゆくのだろう。
 掲句はそんな雀の子の行動を、ドラマチックな物語仕立てで詠んでいる。最初に「ライオンの檻」という大きくて怖いものを提示し、次に「自由に」で何だろうと思わせ、最後に小さくて可愛い「雀の子」のアップになって完結する。わずか十七文字だが、「こすずめのぼうけん」に劣らない起伏に富んだ冒険物語ではなかろうか。
(迷 21.04.16.)

一行を行きつもどりつ春眠し   池内 的中

一行を行きつもどりつ春眠し   池内 的中

『合評会から』

命水 春は良い季節ですね。読書に没頭しているとどこまで読んだか分からなくなることがあります。
水牛 コロナ籠もりを奇貨として、読書に身を入れようと、ちょっと堅苦しい内容なので積んで置いたままの本を紐解いた。ところがやはり選んだ本が良くなかったか眠気を催し、いつまでたっても進まない。とても面白い。
*       *       *
 春の眠さはいかんともしがたい。生理学的には明快に説明できる現象なのだろう。専門家の説明によると、春は睡眠中の副交感神経が朝になっても活発な交感神経に切り替わりにくいからだという。「春眠暁を覚えず」はこの間の事情を詩に詠んで日本人にあまねく親しまれている。掲句は朝の眠たさを詠んだものではない。「春眠」の季語の本意は寝起きに限らず春の二六時中の眠気をいう。日中、春の眠気の中で本を読むとちっとも前に進まないことがある。心ここにあらずというわけではないが、読書に集中しようと思っても眠気が邪魔する。同じ行から先に進めず目が右往左往。みんなよくある体験を上手に詠めば、合評会評はおのずと異口同音にならざるを得ない。
(葉 21.04.15.)

紫雲英咲く彦根は城と湖の町   須藤 光迷

紫雲英咲く彦根は城と湖の町   須藤 光迷

『合評会から』(酔吟会)

青水 関東者からするとずるいと云いたくなる。うまいもんだねえ。
春陽子 季語が効いた、旅に誘う素晴らしい一句。コロナが納まったら、彦根吟行に行きませんか?
水牛 「おっしゃる通りですね」と言うより他ない句ですが、紫雲英の咲く頃の彦根はいいですね。いかにもうららかな感じが伝わってきます。
*       *       *
 最近はあまり聞かないが、「俳句をひねる」という常套句がある。苦心して俳句をひねり出すと言う意味だろうが、ストレートに表現するのではなく、読み手の関心を誘うような措辞や表現を使う、というようなニュアンスもあるような気がする。
この句には、そういう意味でひねったところがなく、季語の「紫雲英」に「彦根は城と湖の町」という当たり前のことをぶつけ、彦根の春の素晴らしさを平明に詠んだ句である。最初に読んだ時、筆者はその平明さからこの句を素通りしたのだが、再読して、その平明さゆえになんとも気分の良い句に仕上っていることに気づかされた。この句を「ひねって」しまうと、おそらくその良さが消えてしまいそうだ。ひねらずに止めるのは、結構むずかしい技のような気がする。
(可 21.04.14.)