むきだしの命漂ふ水母かな     廣田 可升

むきだしの命漂ふ水母かな     廣田 可升

『季のことば』

 選句表でこの句を見た時、「むきだしの命」の表現に心をぎゅっと掴まれた思いがした。透明な丸い体を揺らし海中を漂う水母の姿から、命の切なさが伝わってくる。
 水母は夏場にたくさん発生し、海岸でよく見られることから夏の季語となっている。砂浜に打ち上げられた水母を見たり、海水浴で刺された経験のある人も少なくないだろう。世界には三千種、日本には二百種類が生息するとされるが、その生態はよく分かっていない。水中をゆらゆらと浮遊する姿に「見ているだけで癒される」と家で飼う人もいるという。山形県の加茂水族館は数十種の水母を展示し、人気を集めている。
 掲句は、透明なゼラチン質の水母を「むき出しの命」という本質を捉えた言葉で表現する。体を護る鱗や殻を持たず、まさに命そのものが泳いでいると見たのだろう。地球上の全ての生き物は海から発祥したとされる。夏の海に漂う水母から、あえかな生命を感じる作者の感性は、人類の遥かな記憶に繋がっているのかも知れない。(迷)

メイン変え一手違えば蟻地獄     石丸 雅博

メイン変え一手違えば蟻地獄     石丸 雅博

『おかめはちもく』

 「メイン」とは何だろうか。私には全く分からなかった。作者に聞くと「メインバンクのこと」だという。企業経営の上でメインバンクを変えたら、会社はどうなるだろうか、一つ間違えれば、という状況を詠んでいるのだ。ビジネスマンなら「メイン」と言えばすぐに分かるそうだが・・・。
 問題がさらに一つ。蟻地獄(夏の季語)はウスバカゲロウの幼虫である。体調は1造曚鼻砂地にすり鉢状の穴を掘って潜み、蟻が落ちてくると巣に引きずり込んで食べてしまう。しかし、経営を誤って蟻地獄へ落ちるというのは比喩であって、小さな昆虫を詠んだことにはならない。
 さて、この句をどう直すか。字余りになるが、まず「メインバンク」としよう。次に「変えてしまうか」と続け、下五に「蟻地獄」と置く。句は「蟻地獄」の前で切れ、二つの概念を対比させる「二句一章」の詠み方になる。即ち、経営上の悩みを抱えた経営者が蟻地獄を眺めているのだ。(恂)
  「添削例」   メインバンク変えてしまうか蟻地獄

わんぱくのひとかどの顔夏の果て     野田 冷峰

わんぱくのひとかどの顔夏の果て     野田 冷峰

『合評会から』(番町喜楽会)

而云 夏休みが終わる頃、特に男の子の顔は変わりますね。「ひとかどのわんぱくの顔」が普通の語順かと思いましたが、新学期が近づいた頃の少年の様子がよく出ています。
命水 夏休みはこういうことを意味するのですね。共感していただきました。
百子 (教え子の)大学生でも、特に一年生など、夏休みが終わると名前を思い出せないほど、風貌が変わってしまう人がいます。いろいろな経験が成長させるのですね。
水馬「ひとかどの顔」ではなく「いっぱしの顔」だったらどうだろうか。
水牛 「わんぱく」という漠然とした言葉でなく、具体的な年齢を言ったらどうかなぁ。
冷峰(作者) 小学生の孫、夏休みが終わったらどんな顔つきになるのかなぁ、と思いながら作りました。
                *        *        *
 少年は一夏で体も精神もぐんぐん成長し、顔つきも変わる。久しぶり会った子の顔を見て驚いたら「男子三日会わざれば、刮目して見よ、ですよ」なんて言う。漫画の「三国志」を毎日、読んでいたそうだ。(恂)

屋上に住民集ふ遠花火     前島 幻水

屋上に住民集ふ遠花火     前島 幻水

『合評会から』(番町喜楽会)

百子 マンションの屋上で、住民はマンションに住む人かもしれない。なんだか顔見知りでないような、どこかで見たことがあるような人たち。世相を感じます。夏は人とのつながりを生む季節ですね。
満智 マンションで、「あるある」の場面。私も経験があり、ぱっと景が浮かびました。
誰か 「住民」は行政的な感じがする。「隣人」ではどうだろう。
別の誰か 「隣人」は知っている人で、「住民」はあまり知らない人じゃないかな。
水牛 「屋上に住民集ふ」は面白い場面だと思いました。最近のコミュニティーは、隣同士の横の関係とは別の、下の階、上の階の人とか縦の関係が主みたいです。
幻水(作者) 実体験の句です。ありがとうございます。
               *          *          *
 屋上に集う人々は隣人なのか、住民なのか。昔の隣は垣根越しだが、今は上下の階も隣なのか。顔見知りでないような、どこかで見たような、というコメントも面白い。一句が現代の“近隣”を描き出している。(恂)

顔の染又一つでき老いの夏     田中 白山

顔の染又一つでき老いの夏     田中 白山

『この一句』

 顔に出来たシミ、作者が自分の顔を鏡で見たものか、と思った。後で伺うと、奥様のシミだと言うので、俄然「気になる句」になった。
 私自身、自分の顔を鏡で見るのは剃刀を使う時だけである。仔細にシミを点検することはまずない。いわんや、かみさんのシミを覗きこむなど、考えたことも無い。しかし作者のお宅では、奥様の顔を点検なさるのだろうか。それとも見慣れないシミに気付くほど見つめ合う? そんな想像をしながら、句を眺めているうちに、見えてきたのは、作者ご夫婦が笑顔の絶えない和やかな雰囲気に包まれて日々、過ごされている、と言うことである。シミが話題になっても笑いの種にこそなれ、喧嘩の種にはならない。そんな明るい、しっとりした世界なんだろう、と感じ入った。
 シミは活性酸素がメラニン色素を作りだし、それが沈着して色素班を生む。ひと口で言えば、老化である。老化現象が諍いの原因になったのでは、たまらない。やはり偕老同穴である。立秋を過ぎて夏の暑熱を振り返る時、目にとまったシミ。それを句にできる微笑ましい世界を見せて頂いた。(て)

尻もちで蟻と出会ふや一歳児      髙井 百子

尻もちで蟻と出会ふや一歳児    髙井 百子

『合評会から』(番町喜楽会)

光迷 公園でしょうか。僕にも一歳二ケ月の孫がおり、光景が目に浮かびます。
白山 類句がありませんね。「尻もち」と「一歳児」でいただきました。孫はいませんが、よく観察してますね。
迷哲 「尻もち」がいい。尻もちついて地面に座ったまま。それはそれで楽しい。
斗詩子 愛らしく微笑ましいですね。
而云 可愛らしい場面だが、幼児は尻もちつくと、びっくりして蟻なんかには目を向けないんじゃないか。座り込んで少し時間たった頃かな。
百子(作者) 実景です。尻もちついても、しゃがみこんだ母親と砂などを触って笑っている。よちよち歩きの孫です。
             *     *     *
 「尻もち」に「蟻」に「一歳児」。道具が揃い過ぎており、「作りすぎ」の評に頷ける面もある。嘘が入っているとすれば「蟻と出会ふ」だ。一歳児に「出会った」認識はないだろうから。しかし、歌舞伎の「忠臣蔵」をはじめ事件を基にした映画や小説は山をなし、脚色は当たり前。俳句は科学の実験レポートではない。創作おおいに結構、ではないか。(光)

来客の使ふ絵扇京の風     水口 弥生

来客の使ふ絵扇京の風     水口 弥生

『この一句』

 俳句の作り方に、対象を詳述せず解釈を読者に委ねる手法がある。掲句でいえば、客が絵扇を使っていると描写するのみで、「京の風」をポンと添えているような詠み方だ。
 句会では絵扇と京の風をどう読むか、いくつか意見が出た。「京都から来た客が絵扇を使っていて、それを京の風と表現した」という解釈のほか、「京都は古くから扇の主産地。絵扇を見て京都を思った」との見方もあった。
 扇は、扇ぐ(あふぐ)から来た言葉で、風を起こす道具の一種。中国語の扇(せん)が団扇を指すのに対し、木や竹を束ねて一点で固定し、開閉できるようにした扇は往古、日本で創案されたものという。扇も団扇も夏の季語だが、家庭でくつろぐ団扇に対し、扇はよそ行きのイメージがある。傍題には扇子、白扇、絵扇、古扇が並ぶ。
 掲句は扇を来客と組み合わせて、よそ行きの雰囲気を強め、さらに絵扇と京都のイメージを重ねている。単純そうに見えて実は奥行きのある句と言える。何やらはんなりとして芯の強い「京の風」を感じてきた。 (迷)

朝日さすオゾンの夏野越えにけり     後藤 尚弘

朝日さすオゾンの夏野越えにけり     後藤 尚弘

『この一句』

 太陽が昇り始めた頃の広々とした野原を越えて行く。尾瀬や日光の戦場ヶ原などを思い浮かべれば良いだろう。阿蘇の草千里でも北海道富良野の広大な原野でもいい。何とも気持がいい句である。
 ただし、この句は「越えにけり」とあるから、作者は夜明け前に宿を出て、明け初める野に踏み出し、朝日が高く昇った時間には夏野を越えてしまっていることになる。高みに立ち、今来た野原を見渡しているという情景である。珍しいタイミングを詠んでいる。
 もう一つ、「オゾンの夏野」というのに気が惹かれる。オゾンというのはよく聞く言葉だが、実態はよく分からない。調べてみたら、強い紫外線や放電現象などにより、空気中の酸素が破壊されてO3という状態になったものだという。強烈な酸化力で殺菌、脱臭、脱色などの力を持ち、最近は食品の殺菌などに利用されているが、これ自体は人体に有害な物質なのだそうである。
 ともあれ、昇る朝日の清清しい夏野を越え、「さあ、行くぞ」と次の目的地を目指す、そんな意気込みが伝わって来る。(水)

ホームから磯波眺む夏の果て     塩田 命水

ホームから磯波眺む夏の果て  塩田 命水

『この一句』

 ホームから海が見える駅は全国に点在する。関東近縁だと小田原の根府川駅や江ノ電の鎌倉高校前などが浮かぶ。ただ、どちらも「磯波」の雰囲気はない。どこだろう、と作者に聞けば青森のJR五能線千畳敷駅だという。ネットで写真を見ると、確かにごつごつとした岩肌むき出しの海岸がホームの目の前に展開していた。季語のはたらきもあって、なんとなく感傷旅行をイメージさせる素敵な句だ。
 句会では「ホーム」が話題になった。かつてはホームといえば駅のホームに決まっていたが、今は老人ホームが話題になることが多い。例えば、週刊誌。若い人は見向きもしない媒体で、読者は年配者ばかりなのか、特集記事は「相続」「終活」「病院」「薬」などなど。昨今は「老人ホームの選び方」が目立つ。
 仮に「秋風やホームの母のほつれ髪」と詠んだとして、駅か施設か判然としない。掲句も海の見える老人ホームか駅か、読者は少し迷う。「駅ホーム」とするのも冴えないし、こういう場合は「五能線千畳敷駅にて」などの前書きが有効かもしれない。(双)

つないだ手だれが離した夏の果て     斉山 満智

つないだ手だれが離した夏の果て     斉山 満智

『この一句』

 一読して頭に浮かんだ光景は「かごめ、かごめ」や「はないちもんめ」の、屈託なく遊ぶ子供の姿だった。林間学校の季節とあって、それがキャンプファイヤーの中学生らに切り替わり、そこで画像が途切れた。同時に疑問に襲われた。「これは子供の遊ぶ姿を詠ったものなのか。全く違うのではないか」と。
 迷い、考えた末の結論は「現代の世相を切り取ったもの」。つまり、写生句ではなく時事句、という解釈。「だれが離した」のかで言えば、英国のEU離脱、日米韓のきしみ…の問題。手を繋げるかどうかではペルシャ湾の航行に絡む有志連合など。政治や経済の世界で合従連衡は世の常なれど、最近の動きは分かりづらいことばかり。
 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)のように分かり易い句はいい。だがしかし、頭の体操を助けてくれる句はもっといい。「朝顔や百たび訪はば母死なむ」(永田耕衣)のように。「だれが離した」を引き金に、小生の想いはグローバリズムの終焉にまで及んだ。けだし、発表された俳句は作者の手を離れ、読者のものになる、とか。(光)