時雨るるやむかし駅舎の在りし町  須藤光迷

時雨るるやむかし駅舎の在りし町  須藤光迷

『この一句』

 冬の季語である「時雨」を、上五に「しぐるるや」として置いた俳句はたくさんある。
  しぐるゝや黒木つむ家の窓明り    野澤 凡兆
  しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり   芥川龍之介
  しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹    川端 茅舎
 この他にも、正岡子規、種田山頭火など、少し調べただけでもいくつも出て来る。それなのに、筆者はこの句を読んですぐに安住敦の「しぐるゝや駅に西口東口」を想起した。ストレートに言えば「似てるな」と思った。それはおそらく中七に「駅舎」が出て来るからだろう。しかし、よく読んでみるとただそれだけの事である。類想の句ではなく、この句はまったく別の、独自の世界を切り取っている。
 作者によれば、この句の舞台は新潟県五泉市にある、廃線となった蒲原鉄道の駅らしい。ネットには往時の駅舎やホーム、車両などの写真や、現在の廃線跡の草むした写真などがたくさん掲載されている。ああ、この町に時雨が降ったのだなと想像すると、頭の中で「新日本紀行」のタイトル音楽が鳴り始めそうだ。
 冒頭の話に戻る。上五に「時雨るるや」と置かれたことで、一句は郷愁を感じさせる、とても味わいの深い句に仕上がっている。字面だけで「似てるな」と思ったことを今は恥じている。
(可 20.11.23.)

南瓜割る妻の顔つき伐折羅さま  澤井 二堂

南瓜割る妻の顔つき伐折羅さま  澤井 二堂

『この一句』

 奥さんが南瓜を割ろうとしている。とても固く、鉈(なた)割り南瓜と呼ばれるものらしい。このタイプの南瓜を料理するには、丸ごと茹でればいい、コンクリートに叩きつければいい、などと言われるが、奥さんはあくまでも包丁を手に立ち向かう。句の作者、すなわちご主人は、そんな奥さんの顔つきが「伐折羅(ばさら)さま」のようだと詠んだ。
 ならば伐折羅さまとは? 薬師如来やその信仰者を守る十二神将筆頭格の武神である。例えば奈良・新薬師寺の伐折羅大将は髪を逆立て、目を見開き、大口を開けている。この顔つきで悪霊などを脅し、薬師様や人々を守ってくれることになっているが、「伐折羅さま」と呼ばれると、人々を優しく守る民間信仰の仏様のような感じもする。
 句の作者が分かって、思い当たることがあった。長く日本画を描いていて、相当な腕前の人なのだ。「仏画に凝っている」という噂も聞いていた。問い合わせたら「最近は不動明王とか怒りの顔にも興味を持っていまして・・・」。その一つが「伐折羅さま」であった。奥様の表情は目的を果たせば、たちまち「如菩薩」に変わるはずである。
(恂 20.11.22.)

何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

『季のことば』

 一月から十二月まで月名はすべて季語とされている。ややこしいのが、睦月、如月、弥生・・・神無月、霜月、師走という陰暦(旧暦)の異称と新暦の十二ヶ月との関係である。年によって日にちにずれがあるが、新暦が概ね一ヶ月ほど旧暦より先行している。だから睦月というのは新暦では二月になる。「さくらさくら弥生の空に」は旧暦三月だが、新暦で桜が咲くのは四月である(もっとも地球温暖化で近頃の関東では三月中に開花するが)。日本国中の神様が出雲に集まり、若き男女の結びつきを協議するという神無月は旧暦十月だが、新暦では十一月である。
 今でも粋がってこの異称を用いる俳人が多いが、新暦三月を「弥生」、九月を「長月」などと単純に言い換えて詠むと、句意や季節感を損なう原因となり、混乱を招く。ただし慣例で一月を「睦月」、十二月を「師走」という呼称が定着しているので、この二つはさておき、他の月はこの句のように数字による月名で詠んだ方がすっきりする。
 この句は十一月をまことにうまく詠んでいる。7歳・5歳・3歳の子供や孫のいない家庭にとっては、それこそ何にも無い月である。しかし農業の盛んだった時代の十一月は、一年で最も大切な祭日の一つ「新嘗祭」(にいなめさい・11月23日)が行われる重要な月だった。稲をはじめすべての農作物の収穫を終え、天皇が神に収穫を感謝し、新穀を供えて祀り、それを食べる儀式を行う。万民もそれに習い、新穀を醸した新酒で祝った。それも今や「勤労感謝の日」などというわけのわからない祝日に堕している。
(水 20.11.20.)

蟷螂を避けて自転車みぎひだり  斉藤 早苗

蟷螂を避けて自転車みぎひだり  斉藤 早苗

『この一句』

 一読、景がまざまざと浮かんだ。しかも静止画ではなく、動画として。例えば、コンビニの駐車場。買い物を終え自転車をこぎ出したとたん、目の前に蟷螂(かまきり)がいた。やばい!危うく踏みそうになって、おっとっと。バランスを崩しそうになって、ハンドルを右に左に……。というような情景だ。実に面白い場面を詠んだものだと、句会ではいの一番に選んだ。
 ところが、面白いもので受ける印象は人それぞれ。「みぎひだり」の意味がいま一つ分からない、という声があった。「普通、自転車に乗っていると下は見ないし、路上の蟷螂なんかに気付かない」との異論も出た。こぎ始めのスピードが出ていない自転車を想像した筆者と違い、走っている自転車をイメージしたようだ。では、実際に走っているとき、視線はどの辺にあるのだろうか。筆者は、自転車に乗って〝実況見分〟を試みた。視線の在りかを意識しながら乗ると、斜め前方の路上を見ながらペダルを踏んでいた。あまりスピードが出ていない普通の速度では、路上の蟷螂は充分目立ちそうだ。
 と、あれこれ句の写実性を強調してみたが、当てが外れた。作者によると実際は自分の経験ではなく、路上にいる蟷螂を潰されないように端に移動させようとしていた女性の姿からヒントを得た創作だという。それはそれで、実に巧みな詠み方ではないか。現に句会では共感する人が何人もいて、高点句となったのだから。
(双 20.11.19.)

老の背の膨らんでゐる冬初め   今泉 而云

老の背の膨らんでゐる冬初め   今泉 而云

『合評会から』(番町喜楽会)

双歩 これは何かを着ているというよりは、ただ単に老人の猫背なんじゃないかと(笑)。いずれにしても「冬初め」とよく合いますね。
白山 始めはこの句、素通りしたのですが、再度読み直してみると、「これって俺の事詠まれているのじゃないか」と。よく女房に「背中丸くなってる」と言われるのです(笑)。猫背でしょう。
的中 たくさん着こんで、背中が膨らんでいる老いた相方を見て詠んだ句でしょうか?歳とともに首から肩甲骨にかけて丸くなる景は実感です。冬の情景が伝わる句だと思います。
二堂 老いを「背が膨らんだ」と捉えた点が素晴らしい。
*       *       *
 作者によると近所の碁会所の光景とのこと。頭を下げ盤面を見つめれば背が丸くなるのは当然だが、年寄りはもこもこしたチョッキみたいな物を着ているからますますこうなる。
 「冬初め」でこうだから、寒中ともなればさしづめダルマさんの集団と化すのだろう。しかし、着膨れても碁会所に一人で行けて碁が打てるうちはまだまだ大丈夫。
(水 20.11.18.)

居眠りを誘ふ写経や障子の間   谷川 水馬

居眠りを誘ふ写経や障子の間   谷川 水馬

『この一句』

 一読して頭に浮かんだのは、時は晩秋か初冬、所は京都や鎌倉の古刹の一室、写し取っているのは多分、般若心経で、華厳経などではあるまい、ということだった。
 ポカポカした小春日、静けさに包まれた場所に身を置き、ほっと一息となれば眠気も催すだろう。読経を耳にうつらうつらした覚えもあるだけに、この情景には合点が行った。
 それにしても兼題の「障子」に「写経」を取り合わせた技には、意表を突かれた。きっと体験によるものだろう。障子の薄ぼんやりとした明るさには、心地よい眠りを誘うものがある。ただ「鏡の間」はあるものの、「障子の間」という言い方はしないのではないか。句意から推し量ると「白障子」あたりが適当ではないか。
 ところで、風や寒さを防ぎ、光は採ろうという障子が出現したのは平安時代末期だとか。平清盛が安徳天皇に指で穴を開けさせたという話も残っている。とはいえ、庶民の暮らしに入って来たのは江戸も中期だった。現在は生活の洋風化を受けてカーテンやブラインドが全盛、一般住宅に障子は少なくなっている。畳も襖もまた…。
(光 20.11.17.)

ぐい呑みを厚手に替えて秋深し  植村 博明

ぐい呑みを厚手に替えて秋深し  植村 博明

『合評会から』(日経俳句会)

ゆり 冷えてくると日本酒が美味しくなる。猪口を厚手のものにして燗酒を飲むのでしょうか。
光迷 厚手のぐい呑みはそれなりの大きさです。ぬる燗、熱燗をゆっくり口に運ぶ季節。
而云 俳句として整っている、酒飲みの句で、美味いんだろうね。
実千代 手に触れる感覚を通して、秋の空気の冷たさが伝わります。
反平 熱燗、美味そうだなあ。つまみはじゃこに醤油ひとたらしでも十分。
操 変わり行く季節の深まりを感じる。
百子 お酒を愛する人のこだわりなのでしょう。
昌魚 酒器の衣更えとはいいですね。そろそろ熱燗でしょうか。
          *       *       *
 秋が深まると酒好きは日本酒が恋しくなる。旬の具材で鍋など仕立てて、温めた酒を大ぶりのぐい吞みで味わう。夏場は切子のグラスで冷酒を楽しんだりしたが、燗酒には厚手のどっしりとした志野や萩焼が合う。「厚手に替えて」という巧みな措辞から、季節の変化とそれを楽しむ酒好きの心情が伝わる。合評会の句評はいずれもその心情に反応し、自らの思いを重ねている。日経俳句会の10月例会で最高点を得たのも納得である。
(迷 20.11.16.)

始祖鳥の夢切れ切れに夜寒かな  中嶋 阿猿

始祖鳥の夢切れ切れに夜寒かな  中嶋 阿猿

『合評会から』(日経俳句会)

ゆり 意味が分からないのですが、雰囲気がある。「始祖鳥」と下五の「夜寒かな」が思いもよらず付いている。
迷哲 かけ離れている二物衝撃。「夜寒」とどっか合っている不思議な句です。どこがいいと言われても、フィーリングが合ったということ。
水牛 チンプンカンプンだった(笑)。面白いこと詠むな。始祖鳥のすがれた羽が「夜寒」と合っていないこともない。突拍子もない所に感心した。
ヲブラダ 取り合わせが面白すぎるので多分実体験なのでしょう。始祖鳥のいたころは、地球は今より暖かったなどという理屈が無意味なところが夢だ。
          *       *      *
 採った人たちの選評からも、皆々、夜寒に始祖鳥の夢を見たという体験談(?)に拍手喝采したことが分かる。こういうのは頭で拵えたものではなく、ヲブラダさんが言うように“実体験”によるものであろう。こうした奇矯な句を計算づくで作ろうとすると、必ず「わざとらしさ」が浮き上がってしまうものだ。
芭蕉高弟の其角にはこの類の句が多いが、それ等にも其角の直観から生まれたものと、こねくり回した末の句とがあるようで、無論一瞬のひらめきの下に出来た句には難解ながらも読者の琴線に響くものがある。掲句にも同じことが言える。「面白い」と思わせればそれで大成功なのである。
(水 20.11.15.)

金の砂撒いて木犀香を失せり   徳永 木葉

金の砂撒いて木犀香を失せり   徳永 木葉

《合評会から》(日経俳句会)

雀九 実際に最近見ました。こないだの雨で一斉に落ちていた。ものすごい。
早苗 「金の砂」という表現が素晴らしいと思いました。木犀の木を主語にしている点も面白いです。
阿猿 金木犀の花は一斉に咲いて強い香をふりまいたかと思ったら、一斉に散ってしまう。数日前の雨のあとまさにこのような光景を見た。「金の砂」が上手い。
       *       *       * 
 今年は、金木犀の当たり年ではないか、と句会出席者の口々から聞いた。確かに、あちこちの金木犀から濃厚な香りが、例年より漂っていた気がする。花が咲き誇っていたちょうどその頃、関東地方は無情の雨に見舞われた。雨上がりに近所を歩いていると、住宅街のそこここに雨に打たれた黄金色の花が路上に散り敷かれていた。
 その状態を、「金の砂を撒いて」と表現した作者の美意識。さらに、その金の砂はもはや香りを失っているのだ、と鋭い感性で畳み掛ける。「金の砂」の見立て、「香を失せり」の発見。作者の深い観察眼が遺憾なく発揮された素敵な一句だ。
(双 20.11.13.)

冷まじや剣を植えし城の跡    中村 迷哲

冷まじや剣を植えし城の跡    中村 迷哲

『この一句』

 句を見た瞬間、歌曲「荒城の月」二番の「植うる剣(つるぎ)に~」が浮かんで来た。「秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて」の後に続く歌詞である。この曲を初めて聴いた中学生の頃、「どういう場面なのか」としばらく考え、やがて浮かんで来た。武将(城主か)が軍勢を前に剣を地面に突き立てて、最後の決戦への覚悟を語る、という状況である。
 しかし違うかも知れない、と今回、調べ直したところ、やはり違っていた。落城近し、ではあるらしいが、押し寄せて来るはずの敵に刃を向け、城内に刀をぐるりと植えておく、という説明を読んだ。この場合は刀の先端ではなく、柄の方を植えることになる。なるほど、と頷いたが、敵方が長刀で一薙ぎすれば刀は一度に倒れそうだ、とも思った。
 土井晩翠は、瀧廉太郎は、どういう場面を思い描いて、この詩や曲を作ったのだろうか。ともかくこの句によって懐かしのメロディが浮かんで来て消えず、もはや句を選ぶほかはない。選句表の句の上に◎をつけた後に考えた。「冷まじ」は難解季語に類するが、掲句は季語の本意をしっかりと捉えている。それで私はこの句を選んだのだ、と納得した。
(恂 20.11.12.)