なめらかな母の頬なり雨の通夜  斉山 満智

なめらかな母の頬なり雨の通夜  斉山 満智

『合評会から』(番町喜楽会)

幻水 これは無季の句ですよね。どうしようかと思いましたが、雰囲気があって感じ入りました。
而云 美しいほどの「死に顔」が見えてくる。「梅雨の通夜」をあえて「雨の通夜」としたのだろうか。
青水 無季の句ですね。僕はあえて「雨の通夜」としたのだと思います。近親者を送る辛さ。上五・中七に感情を集約し、下五でさらっとまとめた、気品ある句だと思います。
百子 「朝一番の飛行機で高知に帰ります。母が急に亡くなりました」と作者からラインで連絡を受けました。その後「母の頬を触ったら冷たくてすべすべしていました。まだ受け入れられません」と。悲しみが伝わってきます。「梅雨」としないで「雨」としたのは、悲しみの深さによるのでしょう。
         *      *      *
有季定型を当然とする考え方からすれば、このような無季の句に戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、肉親の死は、そのような約束事を超えたところにある。作者は同時に「向日葵やあっけらかんと死を孕み」という投句もしてきた。整理したくてもできない、複雑な心境がうかがえる。ご冥福のほどを。
(光 21.07.19.)

向日葵の夜は時々後ろ向く    今泉 而云

向日葵の夜は時々後ろ向く    今泉 而云

『この一句』

 「夜の向日葵」を詠んだ句は、先にこの欄で(可)氏が取り上げた「ざわざわと夜の向日葵動き出す 嵐田双歩」の評が面白い。戦国の軍勢が動き出すさまを連想している。そのなかで述べているように、おのずから太陽の軌道と一体ととらえられる向日葵に対して、舞台を真昼に設定せずあえて夜にしたのが斬新ということだろう。ちなみに全部の向日葵が日中つねに太陽を向いていると思いがちだが、実際はそうでなく生長期の時期だけ太陽を追う。完全に開いた花は東を向いたままほとんど動かないという(ウイキペディア)。
 さて夜の向日葵の生態である。筆者の記憶をたどると、夕方にはまるで顔をうつむけたように花はうなだれるという印象をもつ。伸び盛りの向日葵は夜に西を向いて頭を垂れる。この句が詠みあげた光景は、向日葵の花が後ろを向いて垂れているよと言っているのである。とうぜんありうる光景だ。風かなにかの具合で後ろ向きに花が倒れることもあろう。向日葵にもつむじ曲がりがいてオレはなにがなんでも後を向くんだというのもいるだろう。「時々後ろ向く」という措辞がなんとも言えない詩情をかもしだしている句だと感じ入った。「時々」がにくい表現であり、さらに夜という設定がなおのことそう思わせる。
(葉 21.07.18.)

南総の海へ海へと麦の秋     大沢 反平

南総の海へ海へと麦の秋     大沢 反平

『合評会から』(日経俳句会)

水馬 海の青と熟れた麦の黄色のコントラストが美しい句。景の大きさも気に入りました。
迷哲 半島の台地に広がる麦畑。風になびく穂先は海に向かいます。雄大な景です。
芳之 海に向かって麦畑が波打っているのでしょうか。「海へ海へ」が効果的です。
弥生 「海へ海へ」と畳みかける表現にスケール感あり。快い風が吹いていたに違いない。
           *       *       *
 南総とは昔の上総国の別称で、房総半島の東南部一帯を指す。東京湾と太平洋の二つの海を持つが、景の大きさから九十九里を望む房総台地がピッタリくる。太平洋に向かって眺望が開けた畑で、収穫期を迎えた麦の穂が風になびいている。「海へ海へ」のリフレインがリズム感を生み、吹き渡る風の音や麦のざわめきまで聞こえてきそうだ。
 上総、下総の「総」は、房総半島一帯が古代に「総(ふさ)の国」と呼ばれていたことに由来する。麻の実が豊かに実る様子から名付けられたと言われる。後に上総、下総、安房の三カ国に分かれたが、上古より豊饒な土地であった。千葉に住む作者は奥様と房総半島をよくドライブすることがあり、この句を得たとコメントしている。海に向かって黄金色の穂がなびく光景は、作者のみならず、房の国の古代人も眺めたに違いない。
(迷 21.07.16.)

竿捨てて逃げ出す子らに雷とどろ  中村迷哲

竿捨てて逃げ出す子らに雷とどろ  中村迷哲

『合評会から』(番町喜楽会)

双歩 そうなる前に早めに避難すべきでしょう。特に子供は。
水馬 釣りの時(海でも川でも)に雷が聞こえるということは、いつ落ちても不思議のない状態のようです。子供のころを思い出しました。
二堂 ゴロゴロピカと雷がやってくる。子供だけでなく誰にでもとっても怖いものです。その怖さがうまく表現されています。
的中 僕もゴルフ場で足早に駆け込むゴルフ客の句を詠もうと思ったのですが、うまくいきませんでした。雷を恐れて我先に逃げ出す子供の様子が微笑ましく、雷の「とどろ」という音もユニークですね。
          *       *       *
 作者の生まれ育ちは佐賀。小運河(クリーク)が縦横に走る平野で、釣りの最中にゴロゴロと来たら身を寄せるところがない。「必死で逃げましたよ」と思い出を楽しそうに語る。評者が口々に云うように、そういう「怖いけど面白い」感じがよく出ている。
「とどろ」という古風な形容語が効いている。「轟く」から来ている言葉で、音が響き渡る様を言い、まさに雷様に追い掛けられている気分がする。
(水. 21.07.15.)

ざわざわと夜の向日葵動き出す  嵐田 双歩

ざわざわと夜の向日葵動き出す  嵐田 双歩

『この一句』

 向日葵を詠んだ句はほとんどが昼間の光景である。漢字で「日に向く葵」と書くのだから当然ではあるが、それにしても昼間の句ばかりである。以前、金子兜太の「きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中」の句について、一部から、新緑は昼間のものであって「新緑の夜中」はおかしいという異議申し立てがあったという話を聞いたことがある。向日葵にも同様に、昼間を詠まないといけないというしばりがあるのかどうか知らないが、いずれにせよ太陽が照りつける中で咲く向日葵が、もっとも向日葵らしいということはよくわかる。
 ところが、この日の句会には、この句と「向日葵の夜は時々後ろ向く」と、夜の向日葵を詠んだ句が二句も登場した。しかも、二句ともにとても斬新で秀逸な句である。
 掲句を読んで筆者が想像したのは、戦国時代の軍勢が夜間に行軍を始めるような光景である。あるいは、まだ実物を見たことがないが、兵馬俑の光景も浮かんできた。その背丈が高く、大輪の花が人間の頭や顔のように見える向日葵は人間の立姿のように見え、向日葵畑は人間の集団を想起させる。また、「ざわざわ」というオノマトペが、武将や兵士からなる甲冑姿の軍団とその行軍を想起させるのである。夜の軍隊はとても不穏で不気味であるが、いっぽう、なぜか、とても詩的なものを感じさせる。
(可 21.07.14.)

五輪硬貨はじく自販機缶ビール  須藤 光迷

五輪硬貨はじく自販機缶ビール  須藤 光迷

『この一句』

 一読し、世相を巧みに映した秀逸な時事句と考え、点を入れた。いま五輪といえば、57年ぶりに開催される東京五輪である。コロナ感染が止まらず、4度目の緊急事態宣言が発令された状況下でも、東京五輪は〝強引に〟開催される。新聞・テレビの世論調査を見ると、国民の大多数は五輪開催で感染が拡大すると心配し、中止か延期を望んでる。
 ところが強欲なIOCと強情な菅首相は、専門家や世間の声を聞かず、開催強行に突き進んできた。あげくは無観客である。国民は驚き、あきれ、白けているに違いない。この句からはそんな作者の気持ちが読み取れる。自販機に「はじかれた」五輪硬貨は、国民にそっぽを向かれた東京五輪と菅内閣の象徴であろう。さらに五輪硬貨を「五輪効果」と読み替えれば、国立競技場のビール販売をはじめ、泡と消えた経済効果にも思いが至る。ジャーナリスト出身の作者の時事感覚が光る句といえる。
 ところで東京五輪の記念硬貨は既に2018年11月から発行されている。額面100円の白銅貨は銀行で引き換えできた。作者はたまたま持っていた五輪硬貨でジュースを買おうとして使えなかったという。全国に三百数十万台ある自販機は改修の手間が大変なので、五輪に限らず記念硬貨の類はどれも使用できない。ただ過去の五輪硬貨は額面以上のプレミアムが付いて取引されている。今回の異例・異常な五輪の象徴は果たしてどんな価値を生むのであろうか。
(迷 21.07.13.)

半夏生友より届く吟醸酒     堤 てる夫

半夏生友より届く吟醸酒     堤 てる夫

『季のことば』

 「半夏生」とは暦の七十二候の一つで、夏至から11日目に当たる。半夏(はんげ)というサトイモ科の多年草で山蔭の湿地や時には畑にも生える雑草。球根に薬効成分があり、吐気を抑えたり、去痰、つわりを軽くするものとして漢方薬の原料になっている。
この宿根草が伸びるのが夏場で、蛇が鎌首をもたげたような形の、緑と紫だんだらの花(仏炎苞)を咲かせる。この半夏が生じる頃ということから昔の季節指標である七十二候に取り上げられた。現代暦では7月1日か2日になる。
 米作が日本の主産業だった昔は、「田植は半夏生までに終えること」が鉄則だった。のそのそして田植えを遅らせたら実りが半減してしまうとの戒めである。だから農家は暦の「半夏生」とにらめっこしながら、田植えに励み、麦刈りに精を出した。そして、無事に終えた半夏生の五日間は農作業を完全に休み、蛸をはじめ日頃あまり食べられない魚などのご馳走とお酒を楽しんだ。ちょうどこの頃は梅雨の末期であり、植えて間もない早苗が雨水を満々とためた田んぼにしっかり根付くのを見やりながら、今年の豊作を祈った。
 この句の作者は農作業はやらないようだが、住まいの周囲は見はるかす田んぼと畑の広がる穀倉地帯。近所のお百姓が植えた田畑を見渡し、「おお、田植えも滞りなく済んだか」と、ゆったりした気分になっている。タイミング良く、酒友から吟醸酒が届いた。それを傍らにでんと据えて、これぞまさに「殿様気分」というものであろう。
(水 21.07.12.)

梅雨明けは笑顔広がる接種かな  石丸 雅博

梅雨明けは笑顔広がる接種かな  石丸 雅博

『季のことば』

 掲句を見たとたん、上五で思考が止まった。関東では梅雨入りして間もなくの時期に「梅雨明け」を詠んでいる。そして下五でポンと「接種かな」が現れた。二度目のワクチン注射を終えた人々が出始めており、接種は当初の予想よりも順調に行きそうではあるが、句の順序がどうもすっきりしない。「笑顔広がる」は「梅雨明け」と「接種」のどちらに掛かるのだろうか。
 数日前、東京・大手町に出かけた。目的のビルに行くには東西線竹橋駅で降りるのが近い。地下鉄駅から地上に出ると、大勢の人々が列をなし、ぞろぞろと歩いている。いつもは歩行者の少ない辺りなのだが、理由はすぐに分かった。その先に立つ大きな茶色のビルが、コロナワクチンの「自衛隊大規模接種センター」の所在地であった。
 道路に立つ案内の人に接種者の数などを聞くと「初めは凄かったが、このところ減ってきた」とのこと。ワクチンの一回目を終えた人が増えてきたようで、今は焦ってワクチン接種を求める状況は過ぎている。梅雨明けの頃は笑顔の人が増えているはず。「梅雨明け」と「接種」と「笑顔」が一つに繋がった。俳句はやはり理屈を述べるものではないようである。
(恂 21.07.11.)

駒込に最後の踏切麦の秋     野田 冷峰

駒込に最後の踏切麦の秋     野田 冷峰

『この一句』

 駒込という地名にどんなイメージを持つだろうか。神話のなか、日本武尊東征の陣があったという伝説の地。江戸時代にはソメイヨシノ発祥の染井村があった。柳沢吉保の六義園も域内で、歴史的・文化的には由緒ある土地柄である。ところが現代。それらに最寄りのJR駒込駅と言えば実に地味な存在である。一日の乗降客は山手線の駅中26、27位程度に甘んじていて影が薄い。高輪ゲートウエイという新駅もできたが、順位が最下位近いのは間違いない。
 この春、山手線駒込―巣鴨間の開かずの踏切が廃止されるとニュースで知った。「へー、まだ山手線に踏切が残っていたとは」と意外に思ったことである。これが最後の山手線踏切だそうだ。円滑な往来と事故防止のために踏切を無くすにしくはないが、いままで顧みられなかった。ということは、それほど往来もなく喫緊の課題ではなかったとも推測する。
長々と駒込雑記を書いたが、本題のこの句である。駒込の様々な事歴とイメージを重ね合わせれば、味わい深い一句と思うのである。山手線に最後まで残っていた駒込の踏切がついに廃止という時事を取り込んで、都会の「麦の秋」を抒情的に詠んだ一句と受け取った。ことに「最後の踏切」の措辞がなんとも言えない。(葉 21.07.09.)

自粛せずもう我慢せずさくらんぼ  横井定利

自粛せずもう我慢せずさくらんぼ  横井定利

『季のことば』

 さくらんぼとは不思議な果物である。それほど美味いものではない。見栄えや甘みや旨味から言えば、さくらんぼなど足元にも及ばない果物はたくさんある。
 だけど、五月になって果物店のショーウインドウに、化粧箱にちんまり納まったさくらんぼを見ると、初夏だなあと浮き立つ気分になる。黄色地に紅を掛け輝くところは宝石である。こういう出始めのさくらんぼは値段も宝石並みだ。やがて六月の出盛りになるとスーパーや近所の八百屋にも出回り、産地の果樹園では「さくらんぼ狩り」も行われる。この旬のさくらんぼは甘味も増し、酸味との兼ね合いも良い。
さくらんぼのもう一つの不思議さは、食べ始めるとついついくせになって摘んでしまうことだ。さくらんぼ狩りで「一時間食べ放題」などと言われると、いろいろな木の食べ比べなどで、つい量を過ごし、時には腹をこわしてしまう。アレルギー症状を持つ人は唇が腫れたりすることがある。さくらんぼはビタミンA,Cが豊富で、リン、カルシウム、鉄分も含有、利尿、むくみ解消、美肌効果など有益なところもあるのだが、下剤にも用いられるソルビトールをかなり含んでいるから、バカ食いするとPPになってしまう。いくら食べ放題と言われても30粒くらいに止めておいたほうがよさそうだ。それでも帰りの観光バスはおなら合戦になったりする。
 この句はコロナ禍による「自粛」と「さくらんぼ」の取り合わせが面白く、ついそんなことを連想した。とんでもない読み間違いだったら蒙御免。
(水 21.07.08.)