万緑や我も緑になる日まで    星川 水兎

万緑や我も緑になる日まで    星川 水兎

『合評会から』(日経俳句会)

芳之 ドキッとしました。まだその覚悟がなかったせいだと気づきました。
十三妹 そろそろそうなりそうだなと、万感を込めて献点します。
ヲブラダ 「ソイレント・グリーン」という1973 年製作のSF映画が最近リバイバル上映されましたが、関係ないのでしょうね。万物転生輪廻を実感しました。
健史 万物流転でしょうか。味わい深いです。
三薬 緑になるという言い方は、死ぬということを意味するのかなあ。死んだら緑になるとは聞いたことはないし、何で緑になるのか私には分からない。
水牛 樹木葬を連想したのではないか。
双歩 自然との一体感を感じた人もいたようです。
阿猿 深い自然のなかで自己と対象が一体化する瞬間ですね。
卓也 自然との一体感を希求する境地に大いに共感しました。
三薬 自然との一体化なら、分からない訳でもありませんが。
          *      *       *
 作者は「かっこいいかなと思って作ってみました。人生至るところ青山ありということで」と、けろりとのたまう。私は近頃はやり出した「樹木葬」に思いを馳せ、面白い句だなあと思った。人間死ねば皆ひとしなみ土に返り、肥しとなって樹木を育てる。
(水 24.07.05.)

病窓に万緑がある生きてゐる   大沢 反平

病窓に万緑がある生きてゐる   大沢 反平

『この一句』

 私事ながら、昨年難病指定の病気に罹ってからことに病床俳句に共感を覚える。病苦と闘いながら秀句を連発する句友もいて、日経俳句会では一つのジャンルの様相を呈している。この句の作者は千葉の自宅を離れ、湘南辺りに引き移ったとの近況を聞く。ずいぶん以前から病妻を詠んだ句をいくつも投句している。これはご本人のことか、ご夫人のことかよく分からない。
 病床俳句はややもすれば重苦しい雰囲気が避けられず、生死の境で苦しむ境遇ならなおさらだ。戦後まもなく、死病に冒された石田波郷の療養俳句集『胸形変』に典型的な心象風景をみることができる。
 ただ、病気に軽重があるにしろ、反平氏の句にはどことなく温かみが感じられる。「介護の夜妻に添い寝の夜寒かな」「寛解の報あたたかき穀雨かな」「久々に妻笑ひけり桜餅」などの句の数々である。これらにつながる掲句も作者自身を詠んだとも、ご夫人を詠んだとも思える。作者は病室の窓から見える景色がいつの間にか緑一色になっているのに気づいた。一種のカタルシスを覚えたのだろう。樹という樹、草という草すべてが生気を放ち広がっている。そこに「万緑がある」のだから、思わず「生きている」と悟った。「ある」と「ゐる」の一見綱渡りのような併用が、活き活きとし力強さを与えている。季語「万緑」の力と相まって、句もまさしく「生きている」。六月句会の最高点句である。
(葉 24.07.03.)

厚みます薬手帳や六月尽     和泉田 守

厚みます薬手帳や六月尽     和泉田 守

『季のことば』

 病院で薬の処方箋を貰って薬局に行くと、処方薬の内容を印刷したシールを「お薬手帳」に貼り付けて返してくれる。シールは多少厚みがあり、薬局に通う回数が増えると、手帳がだんだん膨らんでくる。医者通い、薬局通いが日常となっている高齢者の感慨を、手帳の厚みで上手く表現している。下五の「六月尽」によって、「まだ半年なのに、こんなに厚くなって」という作者の嘆きも伝わってくる。日経俳句会6月例会でかなりの点を集めた句である。
 ところが句会で長老の水牛氏から「みなづき(水無月)尽はあるが、六月尽という季語はない」との指摘があった。手元にある角川俳句大歳時記を見ると、確かに「みなづき尽」と「六月の限り」は載っているが、「六月尽」はない。意味も旧暦六月の尽きること、すなわち暦の上で夏が終わることを表す季語である。昔はこの日に「夏越の祓(なつごしのはらえ)」を行う習慣があったという。作者は単に新暦の六月が終わる意味で使ったと推察されるが、季節感のずれに水牛氏が違和感を覚えたようだ。
 片山由美子の「伝えたい季語、変化する季語」によれば、そもそも「尽」は季節が終わることを意味するので、三月、六月、九月、十二月になるが、去りゆく季節を惜しむ心がこめられ、ゆく春、ゆく秋に近い言葉である。したがって夏、冬にはいわないという。三月(弥生)尽と九月尽に、夏越の祓と結びついた六月尽が季語として定着したということであろうか。
 ネッでト検索すると、二月尽や五月尽、八月尽など歳時記にない季語を使った俳句がたくさん出てくる。新暦で暮らす人々の実感に即した季語の増殖は止まらないようだ。
(迷 24.07.01.)

古本をメルカリに出し梅雨に入る 高橋ヲブラダ

古本をメルカリに出し梅雨に入る 高橋ヲブラダ

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 うちの娘は、会社のフロア整理で本を全部処分するということがあり、娘は捨てられずに家に持ち帰っては、メルカリに出品したりしています。
青水 「梅雨に入る」という季語が生きていると思います。半年間の時間経過とエピソードが上手くはまっていると感じました。
水牛 家人から「一体どうするつもり」と言われています。時々、段ボールに詰めてブックオフに送っています。この句は「梅雨に入る」という季語がぴったりで、ひとまず清々したという気分が良く出ています。
光迷 古本整理は終活への一歩ですかね。それにしてもメルカリとは良い選択ですね。
可升 「出し」と「入る」がちょっとうるさいと感じました。「古本をメルカリに出す梅雨入かな」とか、動詞を一つにして欲しかったですね。
          *       *       *
 世はフリーマーケット全盛。メルカリやらブックオフやらに要らなくなった物を売りに出し、必要な人が購入する。SDGSの精神からいえばまことに結構なことだが、筆者は本は部屋に積んだまま。再読することはほとんどないのだがなぜか愛着があり「死んだら処分してくれ」と家族に言っている。梅雨を前にフリマできれいさっぱりしようという、いかにも当世風の句だ。
(葉 24.06.30.)

ラムネ抜く昭和の音の響きあり  加藤 明生

ラムネ抜く昭和の音の響きあり  加藤 明生

『合評会から』(日経俳句会)

実千代 昭和生まれは昭和に弱いので頂きました(笑)。
春陽子 駄菓子屋の婆さんが皺くちゃの手でラムネの栓を抜いてくれました。あれはやはり昭和の音ですよね。昭和の響きと言い切って大成功です。
豆乳 ラムネは栓の抜き方にも、飲み方にもコツが要ります。まさに昭和の思い出。懐かしいです。
操 ラムネは昭和そのもの。懐かしさに浸る。
          *       *       *
 なるほどなあ「昭和の音」とはうまいなあと思った。合評会でも異口同音にこの言葉が良かったとの評。とにかく懐かしい。
 ラムネは明治時代、欧米人が持ち込んだ清涼飲料水だ。英語のlemonade(レモネード)を当時の日本人の“耳から英語”で「ラムネ」と聞き覚えた名前が定着した。もともとはイギリス人が発明した、炭酸水を注ぎ込むと炭酸ガスの圧力でビー玉が持ち上がり瓶の口をふさぐ玉詰瓶がミソ。封入するのは砂糖とクエン酸とレモン香料を溶かした水で、玉詰瓶に入れて炭酸ガスを入れる。明治5年には日本人が製法を学び、ラムネ瓶を作り、大流行した。今では発祥のイギリスやアメリカではラムネ瓶を製造するメーカーが無くなり、日本の特産品になっている。それも中小企業の事業機会確保のための商品の一つに指定され、大企業がラムネを製造することは法律で禁じられているというから面白い。日本にやって来るガイジンさんたちが珍しがって大喜びしている。
(水 24.06.28.)

万緑を笠に照り映え斎王代    岡松 卓也

万緑を笠に照り映え斎王代    岡松 卓也

『おかめはちもく』

 斎王代とは初夏の京都を彩る葵祭のヒロインのこと。平安の昔には内親王が「斎王」として加茂神社に奉仕したが、葵祭が戦後に復興された時に、京都に縁のある未婚女性が代理として選ばれるようになったという。葵祭ではその斎王代が京都御所から下鴨神社を経由して上加茂神社まで行列する。きらびやかな衣装を着けた女官や公家に先導され、輿に乗った斎王代が進む光景は、まさに平安絵巻である。
 掲句は兼題の万緑を取合せ、斎王代を描く。京都の歴史と風情を詠み込んだところが気に入って点を入れたが、他に採った人はいなかった。点が伸びなかったのは、細かい点で句にあいまいさが残ったからではなかろうか。
 「照り映える」は光を受けて美しく輝くという意味の自動詞である。笠に照り映えているのは、神社の緑であろうから、助詞は主格を表す「万緑の」でなければ意味が通らない。さらに「笠」も分かりにくい。葵祭の女官や斎王代は笠を被っていない。斎王代のすぐ前を行く花が飾られた「浮流傘」か、斎王代の金属製の髪飾りを指しているとも考えられるが、はっきりしない。
 わずか17音の短詩である俳句では、助詞ひとつで意味が違ってくることがある。例えば「万緑の映える花傘斎王代」とか「唐衣に万緑映える斎王代」など、葵祭の景をより分かりやすく伝える言葉を選んだほうが良かったのではないか。
(迷 24.06.26.)

夕まずめ網うつ老父夏の川    池内 的中

夕まずめ網うつ老父夏の川    池内 的中

『季のことば』

 「夏の川」は朝・昼・晩で大きく印象を変えるが、ことに夕方は趣一入である。この句について番町喜楽会6月句会の合評会では「夕暮れ迫る夏の川で投網漁の老夫の姿が浮かぶ。モノクロ景色の風情」(てる夫)、「老父と言っても矍鑠とした人物が浮かびます。夕陽を浴びて投網を打つ姿は一幅の絵です」(迷哲)、「恥ずかしながら夕まずめという言葉をはじめて知りました。夕方薄闇の中はよく釣れるのだそうですね。老父が涼をとりつつ、のんびり魚を獲っている様子の句。何だかとても良いなあと採りました」(斗詩子)と、賛辞が相次いだ。
 「夕まずめ」という言葉が効いている。これは漁師や釣師が言い出して一般化した言葉だそうだが、日没前後の一時間ばかり、魚が気負い立って餌によく食いつく頃合いである。夏の夕まずめの川漁は気分が良さそうだ。
 作者の言によれば、「小学校六年。父の転勤により松山で一年間過ごした時に、重信川(しげのぶがわ、愛媛県)で網をうつ老夫の姿を見た経験からこの句ができました。西日に向かって網を打っているので、後ろ姿の影しか見えないのですが、とてものどかに感じました。老夫としようか、老父にしようか考えたのですが、後姿を眺める息子(少年)を配して老父としました」。
 「老夫」も誰かの父親、「老父」が自分の父親でなくとも一向に差し支えない。
(水 24.06.24.)

老木も若木もすべて柿若葉    中村 迷哲

老木も若木もすべて柿若葉    中村 迷哲

『季のことば』

 「柿若葉」も“得する季語“のひとつではなかろうか。初夏の瑞々しさがこの一語にこもっていて、多くを語る必要がないように思える。色自体が明るい薄緑で椿の葉にも似た艶があるが、椿とは逆に柔らか味がある。柿の名産地ではこの時季、家ごとの庭が柿若葉におおわれ匂うような景色であろう。むかし乗った第三セクター線の両側は柿の木を持つ家が延々と続き、若葉のいまを想像するさえ気分が晴れる。
 柿の葉といえば柿の葉鮨を連想する。もとは奈良、和歌山、加賀地方などの郷土料理だが、いまや全国区並みの知名度がある。鯖、鮭、小海老やさまざまな具材と酢飯を柿の葉で包んでおり一口で頬張れる。柿の葉には殺菌作用があるうえ、香りも手伝って弁当に良し、酒のつまみに良し。柿の木は果実のみならず葉も利用できる。中国、韓国、日本特産の果樹だったのだが、現在では生産量は中国に次いでスペインが2位と聞いて驚いた。欧州では「kaki」と日本語がそのままなのも面白い。
 柿若葉の気持ち良さを詠む掲句は、表面的な意味以上のものが隠されているように思うのだが……。青年が元気溌剌なのは当然のこととして、老いたる柿の木も同じように瑞々しい若葉を付けているという。人生には老いも若きもないとの寓意があると言えば穿ちすぎだろうか。
(葉 24.06.22.)

少女らの素足のびやか夏の川  山口 斗詩子

少女らの素足のびやか夏の川  山口 斗詩子

『合評会から』(番町喜楽会)

白山 素晴らしい足だったのだろうと思います。
幻水 今の子供たちは昔と違い足長で、すらっとした足をしている。特に女の子にそれが言える。観察のこまやかさと、のびやかな素足と夏の川という、取り合わせの良さに一票。
光迷 「素足のびやか」がいいですね。いまの青少年は手足がすらっとしていて、羨ましい限り。体操やフィギュアスケートの選手が一例でしょうが、昭和世代のずんぐりむっくりとは大違い。
作者 子供たちがズボンやスカートをめくり素足をにょきっと出して川ではしゃぐ様子は、自分の子供の頃の記憶も(あんなに綺麗でのびやかだったんだなあと)呼び覚まされ、つい微笑んでしまいます。
          *       *       *
 少女らが夏川にじゃぶじゃぶと踏み込んで行く様子を描き、まるで自分も一緒になって、その気持ち良さを味わっているように思えてくる句だ。作者はお気の毒にこのところ足腰に不調を抱え、ご不自由なさっていらっしゃるとのことだが、上記の「自句自解」からもわかるように、明るさを失っていない。こういうのびのびとした気分の句が出て来るのを見ると、こちらもすっかり嬉しくなる。
(水 24.06.20.)

十薬や漬物石の捨て置かれ    星川 水兎

十薬や漬物石の捨て置かれ    星川 水兎

『季のことば』

 十薬がドクダミの事だとは知識としては知っていたが、俳句を始める前はあくまでも「毒だみ」というおどろおどろしい名前で認識していた。毒があるわけではなく、干して乾燥し煎じたものは、食あたりや胃腸病に効き利尿作用もあるという。また、外用薬として腫物など皮膚病にも有用とされる。日当たりの悪いジメジメした場所を好み、繁殖力が強く、地表部を摘んでも地下茎が残っていればどんどん増える。匂いが独特で嫌われる要因となっているが、葉を潰したり引き抜いたりしない限り、生えているだけでは鼻を近づけてもさして異臭はしない。6月のこの時期は、白い十文字の愛らしい花(正確には苞という葉の一種)をつける。
 その日の句会で、兼題の十薬に29の出句があった。そのほとんどが「十薬の日陰ひそかに独り占め(迷哲)」や「十薬の慎ましやかに庭の隅(幻水)」などの一物仕立ての句が多かった。
 掲句はその中で数少ない取り合わせの句で、十薬と漬物石(それも「捨て置かれた」)が、付かず離れず微妙に響き合っている。「捨てられた」であれば主がいない廃屋も考えられるが、「捨て置かれた」の措辞からは、単に出番がないので置きっぱなしになっている程度だと覗える。その石の周りには十薬が結構生えているのだろう。とはいえ、住人が庭の手入れをサボっているのではない。私もそうだが、花が咲いてる間は妙に抜くのを躊躇らわれるのだ。
(双 24.06.18.)