教壇に薫る一輪水仙花      徳永 木葉

教壇に薫る一輪水仙花      徳永 木葉

『この一句』

 殺風景な寒々とした教室の教壇机に一輪挿が置かれ、水仙が一本挿されている。非常に印象的な句である。気の利く女生徒がそうしたのか、女先生が持ってきたものか。味気ない教室にほっと温もりを感じる。私は七十年前の高校の教室を思い出した。まさにこの情景に出会ったのだった。
 句会でもとても人気を呼んだ句である。「遠景の水仙を詠んだ句が多い中で、一輪の水仙に焦点を当てて秀逸」(朗)、「水仙をどこに咲かすか、この句は教壇を選んだ。確かに教壇に飾る花一輪と言えば、水仙が似合いそうです」(双歩)、「一輪挿に薫る水仙。凛とした教室の風景」(操)、「教壇の牛乳瓶に花が挿してあった風景が懐かしい」(豆乳)、「児童が庭の水仙を一本。授業がはかどりそうです」(定利)、中には「もしかしたら、生徒から慕われていた先生がお亡くなりになったのか」(守)という句評もあった。
 皆々思いは似通っている。作者の生まれ育ちは北海道、この句を採った人たちは東北から九州まで広がっている。水仙という草花が日本国中津々浦々に広がり、日本人の郷愁を誘うものになっていることが分かる。身も心も縮んでしまう厳寒の中で健気に花咲かす水仙は、見る人の心に灯をともすのだ。
(水 24.12.28.)

焼き餅のぷっと膨れて縮みけり  前島 幻水

焼き餅のぷっと膨れて縮みけり  前島 幻水

『この一句』

 番町喜楽会12月例会の兼題句である。餅が焼ける様子をよく見て、素直に詠んだ句で、「ぷっと膨れてが楽しい。匂いも伝わってきそうだ」(光迷)と、衒いのない詠みぶりに好感を抱いた人が多かった。
 最近は電子レンジやオーブントースターで餅を焼く家庭が多く、焼ける様子を見たことのない子供もいるようだ。昭和30年代までは火鉢の炭火の上に網を置き、餅を何個か並べて焼いた。子供たちは早く焼けないかと、周りで目を凝らして待ったものだ。掲句からはそんな懐かしい時代の年末の光景が立ち上がって来る。
 選句表のすぐ近くに「焼餅のぷうと息して肩下ろす」という嵐田双歩さんの句があり、そちらを選んだ人もいた。評者もそのひとりで、擬人化表現に面白みがあり、「ぷうと息して肩下す」の表現はよく工夫されていると感じた。これに対し「擬人化が気になって、餅が焼ける瞬間を素直に詠んだ幻水さんの句を採った」(可升)との意見もあった。
 擬人化表現に対する好みが票を分けた形だが、幻水句も「焼き餅」を嫉妬の焼きもちと考えれば、若い女性が頬を膨らませて拗ねている姿ととれないこともない。いわば隠された〝擬人化〟の句と見るのは牽強付会と言われるであろうか。 
(迷 24.12.26.)

冬温し長縄跳びの声そろえ   玉田 春陽子

冬温し長縄跳びの声そろえ   玉田 春陽子

『合評会から』(番町喜楽会)

愉里 縄跳びが好きなので採ったのですが、正直この句にはあまり点が入らないだろうと思っていました。それが三位になるなんて、意外です(笑)。
而云 昔、うちの子供が小さかった頃を思い出しました。いまは子供が少なくなってしまい、見る機会が減りました。
迷哲 確かに集団縄跳びは冬場の遊びでした。穏やかな冬の日の校庭で、子供たちの掛け声が聞こえます。
幻水 今時の子供はこんな遊びをするのかなぁ、と疑問も。
可升 「冬ぬくし」で、かくれんぼを詠んだ句がありました。ぼくはそちらを採ったのですが、かくれんぼこそまだやる子がいるのかと思いながら。
春陽子 縄跳びもかくれんぼもぼくの句です。うちの団地に学童保育があり、公園で縄跳びをやらせたり、シャッター街でかくれんぼをさせたりしています。それを見て…。
          *       *       *
 大勢の子供が一緒に遊ぶ光景を見ることが少なくなった。少子化、共働きの増加、地域社会の希薄化などのせいだろう。竹馬や独楽は姿を消したらしい。大人の社会でも麻雀は少数派とか。「力を合わせ、みんなで仲良く」という土壌が失われていくのは寂しい。
(光 24.12.24.)

冬紅葉かつて鉄路の眼鏡橋    須藤 光迷

冬紅葉かつて鉄路の眼鏡橋    須藤 光迷

『合評会から』(番町喜楽会)

幻水 名前が出てこないのですが、新幹線で廃線になった越後へ行く路線の風景でしょうか。百子さんが同じような句を作られたような記憶があります。
可升 信越線の碓氷峠の光景じゃないでしょうか。佐久に工場があって、しょっちゅう出張で行きました。峠の釜めしを食べたり、小諸の蕎麦屋に行ったりするのが楽しみでした。新幹線は早くていいのですが、風情はなくなりました。今年の秋はほとんど紅葉を見ることが出来ずに終わった気がしました。
双歩 具体的にはどこか分かりませんが、冬紅葉と相性がよさそう。
光迷(作者) ご指摘のとおり碓井第三橋梁、通称眼鏡橋を詠みました。廃線がいまは遊歩道になっています。
          *       *       *
 この絵はがきのような光景はどこだろうと気になった。筆者には見たこともない信越線の碓氷第三橋梁だと作者が明かした。さっそく画像検索して成る程と思った。冬紅葉はもちろん冬の季語となる。目を奪う錦秋のときより、物寂びた初冬の方がかつて幹線だった鉄路跡には似合うだろう。眼鏡橋という名の古レンガ橋は、レールのない現状と同調してものの哀れを誘う。置き去りにされた鉄橋を舞台に、この句は一幅の絵画を届けた。おおかた葉を落とした冬紅葉が一片、二片散りゆくさまも見えるようだ。
(葉 24.12.22.)

会えぬ人会えぬまま過ぐ年惜しむ  斉山満智

会えぬ人会えぬまま過ぐ年惜しむ  斉山満智

『合評会から』(番町喜楽会)

春陽子 年賀状で何人もの人に「今年こそ会おう」と書いたのに一人しか実現していません。しみじみとその通りだなあと思った句です。
青水 コロナがはさまったので、六年ぶりに開催された集まりが今年ありました。会えないもどかしさと季語の「年惜しむ」が合わさって、とても感慨深い句になっています。
愉里 年の初めに会おうと言っていたのに会えない残念さが、季語の「年惜しむ」ととてもうまく響き合っている気がします。
而云 似たような句は僕も作ったことがあります。「会えぬまま過ぐ年賀状」だったかな。
てる夫 いやあ、だから賀状の枚数が膨らみます。
斗詩子 一年が本当にあっという間に過ぎ、会おうね会おうねと言いつつ会えぬまま。コロナ以降なかなか実現しない再会。もどかしい気持が伝わります。
          *       *       *
 誰もが経験し、歳末になると思うことを上手く詠んだ句だ。このように万人共通の思いをすっと詠むと、「そうだよなあ」とつぶやきながら採ってしまう。年末句会にはうってつけの句だ。ただ、「過ぐ」に少し違和感がある。「過ぐ」が「年惜しむ」の季語の力を弱めている気がしたのだ。「会えぬ人会えぬままなり年惜しむ」などとした方がいいのじゃないかなと思ったのだが・・。
(水 24.12.20.)

「みんなの俳句」来訪者が25万人を超えました

「みんなの俳句」来訪者が25万人を超えました
 俳句振興NPO法人双牛舎が2008年(平成20年)1月1日に発信開始したブログ「みんなの俳句」への累計来訪者が、令和6年12月17日に25万人を越えました。この盛況は一重にご愛読下さる皆様のお蔭と深く感謝いたします。
 ブログ「みんなの俳句」はNPO双牛舎参加句会の日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の会員諸兄姉の作品を取り上げ、「みんなの俳句委員会」の幹事8人がコメントを付して掲載しています。
 このブログのスタート当初は一日の来訪者が10人台でしたが、最近は一日平均150人を超えるようにになっています。発信開始後11年弱かかって累計来訪者が10万人となり、それから5年後の昨年9月に20万人に到達、その1年3ヶ月後に25万人になりました。地味なブログですが注目して下さる方がこのところぐんぐん増えています。
 幹事一同、これからも力を尽くしてこのブログを盛り立てて参る所存です。どうぞ引き続きご愛読のほどお願いいたします。
     2024年(令和6年)12月18日 「みんなの俳句」幹事一同

母と子のカフェで宿題暮早し   植村 方円

母と子のカフェで宿題暮早し   植村 方円

『この一句』

 現今の世情をビビッドに切り取った一句である。夕方の街中か駅のカフェで、子供がテーブルに宿題を広げ、母親が見守っている。どんな事情があってカフェでやっているのだろうと、疑問が湧く。働くお母さんが仕事の都合で家で見る時間がないとか、あるいは塾に連れてゆく前に宿題を済まそうということかもしれない。騒がしい店内で、わざわざ宿題をやる光景は差し迫った感じがあり、暮早しの季語の雰囲気とよく合っていると思う。
 学校の宿題は家に帰ってからやるものという固定観念があるので、句会でも「なぜカフェで」と議論になった。作者自身が「何で家でやらないのかと、自分の句なのによく分からなくて」と述懐する中、実千代さんが「最近はお母さんと子どもとか、家庭教師と生徒とかが、たくさんスタバなんかで勉強してるんです。家庭教師と高校生や中学生のやりとりが聞こえてきたりします」と解説し、一同納得。作者も「やっと腑に落ちました」と大きくうなずいていた。
 総務省の2023年の統計によれば、働く女性の増加に伴い共働き世帯は1,206万世帯と7割を超え、専業主婦世帯は404万世帯の25%に減っている。子供の帰りを待ち、宿題を見てやれる家庭は今や少数派である。働くお母さんたちは、仕事をやりくりし、生活スタイルを工夫しながら、子供と一緒にいる時間を確保することになる。作者がカフェで目にしたのは、そんな現代社会の断面だったようだ。
(迷 24.12.18. )

熱々を噛めば汐の香牡蠣フライ   篠田 朗

熱々を噛めば汐の香牡蠣フライ   篠田 朗

『合評会から』(日経俳句会)

双歩 特に解説はいらない。牡蠣フライが汐の香がしても当たり前。だがいきなり熱々って言われると確かに熱々はやっぱり美味しいよね、素直にいただきました。
方円 出来立ては何でも美味しいが特に牡蠣フライは美味しい。
三薬 この時期、毎年、娘から三陸の牡蠣をドカンと送ってもらっていたが、去年から急に送って来なくなっちゃった。そんなことを思っていたらこの句に出会って、思わず採っちゃった。
操 汐の香り立つ旬の味わい。美味しさの共有。
          *       *       *
 牡蠣や帆立の出来が良くないという。夏の間の海水高温化によるものだと地元の漁業関係者は嘆く。身が思うように育たないので小さく、出荷量も激減しているようだ。牡蠣や帆立好きにとっては寂しい限りである。冬の食卓を彩るものの一つに牡蠣フライ。揚げたてを家族銘々5粒ほど皿に盛り、タルタルソースにウスターソースで、おっとレモンを絞るのも忘れずに頂けば、中身は火傷しそうな熱さながら‶口福口福〟。掲句は思わず牡蠣フライが食べたくなってしまう句だ。牡蠣フライの美味しさを詠んで納得。家族団らんの夕食風景も見えるようで、「熱々を」の上五とほんのり舌に乗る「汐の香」が効いている句だ。
(葉 24.12.16.)

塩つかみ白菜漬ける母若し    岩田 千虎

塩つかみ白菜漬ける母若し    岩田 千虎

『合評会から』(日経俳句会)

愉里 子どもの頃の記憶で一回か二回、白菜を漬けた思い出があります。あの頃の母は若かったんだなあと。
実千代 この句はお母さんが若くて、塩をつかんでいる動作が、やっぱり白菜と結びついている。
健史 「つかみ」という言葉の威勢の良さ。何歳でも若いです。
二堂 母若しがいいですね。好きな事を元気よくやっている姿は若く見えるのでしょうね。
守 私の世代はまだこういう風景があったなと思い浮かべられるオーソドックスな句に感じました。
豆乳 せっせと白菜を漬けていた若かった母を思い出す一句です。
          *       *       *
 合評会でも指摘されたが、「塩つかみ」の上五によって生き生きとした感じが伝わってくる。白菜漬はどういうわけか女を元気にさせるようだ。多分この句の母は実年齢も若かったのだろうが、子供の頃の作者には、母親が妙に元気にてきぱきと白菜を漬けるのが殊の外印象深かったのだろう。私にも全く同じ経験があって、「似たようなことがあるものなのだなあ」と感じ入った。
(水 24.12.14.)

白菜漬盛っておんなの長ばなし  杉山 三薬

白菜漬盛っておんなの長ばなし  杉山 三薬

『この一句』

 昭和の匂い濃厚な句である。田舎では来客や寄り合いがあると、お茶請けとして白菜漬や沢庵など漬物をたくさん皿に盛って供した。農家の縁側などに女性が数人集まり、漬物を勧め合いながら噂話で盛り上がり、時間を忘れている光景が思い浮かぶ。「盛ってが白菜を盛っているのと、話を盛っているのと両方にかかっている」(双歩)との〝深読み〟も示され、盛り上がった。作者によれば三十年前に東京の下町で目にした実景という。
 昭和四十年代までは、各家庭で主婦が白菜を買って樽に漬け込むのが当たり前だった。塩加減だけでなく昆布や唐辛子の量など、家ごとにレシピと味が違った。句会には掲句のほか「塩つかみ白菜漬ける母若し」(千虎)や「白菜や母はいつでも割烹着」(双歩)といった句も出され、話が弾んだ。掲句の作者はそんな時代背景を下敷きに、噂話に興じる女性たちをちょっと揶揄して描いたのではなかろうか。
 白菜と女性の親和性が高いとはいえ、ジェンダーレスをめざす令和の今の世は、「おんなの長ばなし」と決めつけるような表現に違和感を抱く人もいるであろう。女性の長話はよく見聞きするが、男性だって長話が無い訳ではない。飲んだ時など、くどくどと終わらない人も多い。「あと一本果てぬおとこの長ばなし」といった〝返歌〟があってもおかしくない。
(迷 24.12.12.)