日脚伸ぶ間違いさがしあと二つ   嵐田 双歩

日脚伸ぶ間違いさがしあと二つ   嵐田 双歩

『合評会から』(日経俳句会)

ヲブラダ 新聞の間違い探しクイズに挑戦するのだが、毎回難問で、ものすごく時間がかかり、結局、回答サイトを見てしまう。
てる夫 新年の暇つぶしに挑戦したが、なかなか手ごわい。「あと二つ」まで攻めたとは、たいしたもんだ。
迷哲 「あと二つ」に時間経過が意識され、季語とよく合っています。コロナ籠りの正月とも読めます。
光迷 間違い探しは数独とともにステイホームの絶好の小道具に。
定利 巣籠り中、間違いさがしに没頭。何でも句にする。すごいです。
方円 心にゆとりのある生活をしているようで、いい感じです。
静舟 あと二つ! 少しだけれどそれだけ日が長くなったのでしょう。
ゆり 段々と夕暮れまでの時間が長くなってくるのは嬉しいです。
*       *       *
 いい大人が「間違いさがし」にうつつを抜かしているとは一体どうしたことだと、呆れられたり馬鹿にされたり。しかし、“コロナの冬籠もり”ともなれば別である。またこうしたゲームや遊びというものは、一旦はまってしまうとなかなか抜けられない。家族中で没頭して、「あらもうこんな時間」と慌てたりする。コロナ禍の鬱陶しさをいっとき忘れる、平和な情景が浮かんできて楽しい。
(水 21.02.22.)

窓猫の丸き背中や恋終わる    谷川 水馬

窓猫の丸き背中や恋終わる    谷川 水馬

『この一句』

 一読、いや一見にして恋の終った牡猫の姿が浮かんで来た。窓際に背を丸めた猫がいる。暖かそうな春の陽が猫に当たっているらしい。そうか、お前はそうやって傷心を癒しているのか、という作者の気持ちも十分に察しられよう。ところが句を何度か見直しているうちに、変わった句だ、作者は何かを企んでいるのかな、という思いが膨らんできた。
 「窓猫」という語は辞書に載っていない。季語では「竈(かまど)猫」や「こたつ猫」もあるのだが、「窓猫」は作者の独創のように思える。さらに「窓猫」と「恋終る」は上五と下五に分裂しているので、「これで季語になるのか」と異を唱える人がいるのではないだろうか。また「窓猫」がガラス戸の内側、外側のどちらにいるのかも不明である。
 とは言え、私にはこの句がなかなか魅力的で、兼題「猫の恋」の三十余句の中から一番に選ぶことになった。理由については、背を丸めた「窓猫」の姿に本当の「猫の恋」を感じたから、と言えばいいだろう。さらに加えれば、このところ背中の丸いご同輩たちの姿が気になっていることもある。私ももちろん、その中の一人なのだが・・・。
(恂 21.02.21.)

相槌の途切れぬ電話春障子    塩田 命水

相槌の途切れぬ電話春障子    塩田 命水

『この一句』

 最初に読んだ時、この句の作者は男性に違いない、電話をしているのは彼の奥さんに違いない、話している相手も女性に違いない。もっぱら相手の女性が話をし、こちらの奥さんは相槌を打つばかりの長電話。そういう情景を疑わずに読んだ。筆者の頭の中には、間違いなく「女性の長電話」という固定観念があった。が、ふと思った。この感性は、「女性が入ると会議が長くなる」と言ったあの人の感性に近いのではないか?少し怯んだ。
 ところが、句会で高得点を取ったこの句の支持者には女性が多かった。皆さん、おおむね女性が長電話を楽しんでいる様子を思い浮かべ、ユーモラスな句だと評価している。なかには、斗詩子さんのように、ズバリこれは「私のこと」だと喜ぶ人もいる。どうやら「女性の長電話」は女性自身も認める特質らしい。と言うか、言葉は同じでも、語る人の価値観や思いが、それを差別表現にしたり、不快なものにしたりする気がする。筆者の感性は、あの人とは断じて違う、と思いたい。
 季語の「春障子」は、暖かな陽射しの入る居間を感じさせる。そのことが、この句をほのぼのとした佳句に仕立てている。作者は、「長電話だなあ」と思いながらも、「まあ、いつものこと」と微笑んで、奥さんの相槌を聞いているに違いない。
(可 21.02.19.)

梅東風やアマビエに似た子が一人 今泉 而云

梅東風やアマビエに似た子が一人 今泉 而云

『季のことば』

 立春を過ぎて、西高東低の冬型気圧配置がゆるむと、これまでの北西風と違って柔でやや暖かい東風が吹いて来る。これが春を告げる風として平安時代から歌人文人に親しまれ、江戸時代には俳句の季語にもなった。「朝東風」「夕東風」などのほか、この風が吹くと鰆が盛んに取れだすから「鰆東風」、のどかな雲雀のさえずりとともに吹くから「雲雀東風」などとも詠まれる。
 「梅東風」は言うまでもなく梅を咲かせる東風であり、菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」の歌と共にしっかり定着した。
 この句は南斜面に広がったのどかな梅園での一コマであろうか。一人歩きできるようになった子が、お兄ちゃんお姉ちゃんの後を追って行ったはいいが、置いて行かれてしまい、ぼんやり佇んでいる情景が浮かぶ。
 アマビエは熊本地方に伝わる民間伝承の海の妖怪。と言っても恐ろしくはない。人魚のような姿で可愛らしい。その絵姿を身近に置けば疾病退散のご利益があるというので、コロナ禍の昨今にわかに人気が出て、シールや人形が次々に売られるようになり、ついには文楽人形浄瑠璃にもなったという。私も実は「門口にあまびえシール春立つ日」などと詠んだ。令和3年コロナ禍の梅見の句としてとても面白い。
(水 21.02.18.)

裸木のてっぺんに鳥動かざる   岩田 三代

裸木のてっぺんに鳥動かざる   岩田 三代

『この一句』

 寒中、庭木を目がけて飛来する野鳥の姿が目立つ。ある朝、オナガの群れが舞い込んできた。10羽ほどバラバラに飛び回り、そそくさと飛び去った。体長37㎝、長い尾羽、水色の鮮やかな姿に見とれた。一年を通して見かけるのはヒヨドリ、いつもつがいで行動する。単独で餌を探していても必ず近くに連れがいる。軒先近くまで来るほど厚かましく、飛び立つときも騒がしい。
掲句の「裸木の鳥」はこの季節、よく見かけるシーン。高所に止まって急降下、地上の虫を捕食するモズであろうか。体中の羽毛を膨らませ身じろぎもせず、枝に止まっている。地上に動くものが居る季節ではないので、何を狙っているのか。幹に潜む虫を探す風でもない。ひたすら寒風に耐えている。しばらく目を離しているうちにどこかへ飛んで行った。巣のある林に戻ったのだろうか。
「動かざる」という措辞に余韻を感じる。しかし作者がどんな思いを込めたか。それが何であるか、俄かにイメージ出来ない。ふと修行中の学僧の姿が浮かんだ。風雨にさらされながら、姿勢を正して読経を続ける。はてさて野鳥に意思があるだろうか。
(て 21.02.17.)

面取りの大根煮込む窓白し    斉藤 早苗

面取りの大根煮込む窓白し    斉藤 早苗

『季のことば』

 かつて「台所俳句」と呼ばれるジャンルがあった。女性が外に出てのびのびと活動が出来ない時代、大正初期に虚子が「ホトトギス」の女流俳人らに勧めたものと物の本にある。台所の家事や育児などの身辺雑事を詠む俳句であるのは知っての通り。虚子はまた、広く世の女性に投句を募ったため、名のある女流俳人をずいぶんと輩出した。今の世はと言えば、むしろ女性の俳句人口の方が多いのかもしれないとまで思ってしまうのだ。ちなみに双牛舎に連なる日経俳句会では、会員54人の中で女性は17人(協賛会員を含む)と三割を占めるだけ。世間一般の俳句会と比べてどうだろうか。
 この句である。料理をはじめ台所仕事をするのは女性だという意識は、とうの昔に過去のものとなった。このコロナ禍の現在は、自炊かテイクアウト品での食事となる。作者は自炊の大根を炊くのだが、丁寧に面取りをしている。煮崩れを防ぎ、味がよくしみ込むためのひと手間。男ならここまで手間を掛けず輪切りのままかも。「面取り」の一語で女性らしい細やかさが出た。作者名を見る前に女性の句と見当がつく。その大根がぐつぐつ煮えるのを、コンロの前で見守っている情景だろう。ふと台所の窓を見やるとガラスが湯気で曇っていたという。もとの「大根」の白さを「窓白し」に転化させたのがいい。
(葉 21.02.16.)

坊主とは戒めのこと初句会    高井 百子

坊主とは戒めのこと初句会    高井 百子

『この一句』

 普通「坊主」といえば僧侶のこと。さらに髪を剃った頭部いわゆる坊主頭あるいは禿を指すこともある。そこから「海坊主」のような言葉が派生し、親しみを込めて「腕白坊主」という使い方もすれば、嘲りを込めて「三日坊主」という言い方もする。しかし、この句の「坊主」は、それらのいずれでもない。禿に毛が無いことからの連想によるらしいが、皆無つまりゼロの意味なのだ。釣りで何も獲れなかった時も「坊主」というらしいので、釣りと俳句で同じ使い方ということになる。
 初句会に勇んで行ったものの、作者の句は誰も採ってくれず、零点だった。普通なら、そこで落ち込むのだが、作者の素晴らしさは、その惨憺たる成績をも句材にし、一句仕立てているところ。「戒めのこと」などと言っているが、本心かどうか。「照る日もあれば曇る日も。クヨクヨせず、また次回頑張ろう」というのが本音で、この前向きの姿勢は何物にも代え難い。多分、明るく朗らかな人生を歩んでいるに違いない。坊主と言う成績には同情するものの、その生き方は何とも羨ましい。いや、見習いたい。
(光 21.02.15.)

外国語放送虚し冬の駅      荻野 雅史

外国語放送虚し冬の駅      荻野 雅史

『この一句』

「ローカル線の駅の一風景だと思います。外国人観光客であふれかえっていたのに、いまや影かたちも無い。ただ外国語放送だけが虚しく響いてる。『冬の駅』がその辺をよく表していると思います」(明生)。「インバウンド需要は望むべくもなく、五輪もどうなることかと思わせます」(芳之)。この評言二つで全てを言い尽くしているのだが、「国際観光振興」とか「観光産業活性化」などというものは、つくづく平穏無事な世の中であればこそのものだと思う。
安倍政権の7年半で日本はすっかりダメになってしまったと私は思っているのだが、唯一拾うべきは外国人を呼び込んで、田舎にまでガイジンの息吹を吹き込んだことであろう。個人的には日本の国際化などまっぴら御免と思っているのだが、今やそうも行かないようだ。さすれば、国際化に遅れた日本を国際化する最も有効な手段は日本人と外国人との接触を深めることである。
とにかくここ数年で浅薄ではあるが日本の国際化は急速に進んだ。「ガイジン」が僻地にまで行くようになったからである。75年前、進駐軍が全国くまなくジープを駆って日本を強制的に“国際化”したが、この数年は言うまでもなく観光旅行によるごく自然な触れ合いである。
それがコロナで吹き飛んだ。駅構内や電車内の外国語放送はプログラミングされているから、ガイジンさんの来ようが来まいが流れる。凍てる駅舎にそれがキンキン響いて寒々しさを掻き立てる。
(水 21.02.14.)

五両ほど畳に零れ実千両    玉田 春陽子

五両ほど畳に零れ実千両    玉田 春陽子

『この一句』

 この暮、正月用の花を近所の花屋で買ったら、普段の二倍ほどの値段になった。「高いね」と主人に言うと「何しろ千両が入っているからね」との答え。そうかね、と頷いてから、我が家の庭に千両が赤い実をたくさんつけていることを思い出した。“猫のひたい”の庭に五年ほど前から万両が芽を出し、今では赤い実が近所の人に褒められるほどになっている。
 万両は小鳥が実を食べ、糞とともに庭に落してくれると芽生えるそうだ。実が付いたものを花瓶に一枝挿せば、生け花の立派な脇役を務めてくれる。掲句の千両は暮から一か月余りを経て、ついに畳の上に五粒ほど零(こぼ)してしまったのだ。それを「五両ほど」とは何たる機知だろうか。この洒落っ気に感嘆し、しばらく句を見つめていたほどであった。
 あんまり巧みなので悔しくなり、「ちょっと月並風かな」と悪口を呟いてみた。正岡子規の批判に遭い、滅亡してしまったと言われる月並流の俳句。洗練されたエスプリの句も少なからずあったはずで、決して捨てたものではないと考えている。さてこの句、秀句、好句、佳句には当てはまらないかも知れないが、現代の上等な月並流と評価したい。
(恂 21.02.12.)

エクセルのふつりと消えり鎌鼬  徳永 木葉

エクセルのふつりと消えり鎌鼬  徳永 木葉

『合評会から』(日経俳句会)

三薬 理由を告げぬまま、突然データなどを消してしまうパソコン様。いきなりバッサリという鎌鼬そのものではないか。上手い例えに気が付いた殊勲甲。
青水 むつかしい季語とパソコンの表計算ソフトの取り合わせ。しかも季語ではなくソフトを消してしまう手際の良さ。ウマい。
水牛 パソコンは訳が分からないうちに突然消えたりします。コンチクショウと怒鳴ってもどうにもなりません。まさに鎌鼬の仕業です。
弥生 わけのわからぬトラブルの元は、当世でも鎌鼬。先進の技術との取り合わせが興味深い。
水兎 パソコン画面がフリーズすると、本当に絶望的な気分になりますね。物の怪の仕業に違いありません。
百子 取り合わせの句として面白いですね。確かにパソコンの画面がふうっと消えるのは何か神がかっています。
          *       *       *
これは「現代社会の最先端を切り取った秀句」といっても過言ではあるまい。選評にあるように、かなりの人間が経験しているパソコンのトラブル。その困惑ぶりを「鎌鼬」という今は忘れられたような面妖な事柄に結び付け、うなずかせた手腕は見事。
(光 21.02.11.)