風光る梨の新芽の力瘤      谷川 水馬

風光る梨の新芽の力瘤      谷川 水馬

『合評会から』(番町喜楽会)

百子 「風光る」という兼題の句の中で一番にいただきました。春の力強さ、風の透明な感じが「新芽の力瘤」とよく合っていると思います。
光迷 「風光る」のイメージがよく表れていると思います。手入れの行き届いた梨の木の新芽が力瘤のように出てくる。春の息吹を感じさせます。
木葉 「風光る」「新芽」「力瘤」の三連発が効いています。
青水 季語が生きている句だと思います。「新芽」と「力瘤」が効いています。
          *       *       *
 「新芽の力瘤」がいい。寒さはまだまだ残っているのだけれども、梨の木は本格的な春に向かって、葉芽も花芽も徐々に膨らんで、力をみなぎらせている。「さあ春だ」と梨の木が力瘤を込めているのだ。新芽はごく小さいけれど、よく見ると小さいなりに盛り上がってまさに力瘤だ。
 芽吹き始めた梨の木を見つめていると、人間の方もしゃんとした気分になる。「風光る」とぴったり合っている。
(水 20.03.25.)

このままの往生ねがふ日永かな  金田 青水

このままの往生ねがふ日永かな  金田 青水

『この一句』

 二十年ほど前、「死の瞬間」という本に出会った。米シカゴの病院で末期患者を診てきた女医、E・キューブラ―・ロスが患者との対話など臨床体験を記録、分析した著作である。そこでは患者の死の過程にはさまざまな姿勢があり、「否認と孤立」「怒り」「取り引き」「抑鬱」「受容」の五段階があると言う。
 正岡子規の病床随筆を重ねてみると、うなずけることが多い。結核カリエスで仰向けに寝るしかない床で綴った「仰臥漫録」や「病牀六尺」の記述には、苦痛に苛まれての怒りや呻吟、絶叫、号泣がある。家人の介助のもとで筆を持ち、辞世の三句を書いた。
 「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」──その日のうちに昏睡状態となり、翌明治三十五年九月十九日午前一時、永眠。子規にとって生きることは書くことであり、最期まで筆を放さなかった。鉄人の死だと思う。
 ひるがえって掲句。温かく気持もゆったり、伸びやかな春の日。このような平安の中で永遠の眠りにつきたいと、ごく普通の高齢者が持つであろう思いを「日永」の季語に込め、素直に詠んでいる。
(て 20.03.24.)

あれ程の声が要るのか猫の恋    渡邉 信

あれ程の声が要るのか猫の恋    渡邉 信

『季のことば』

 犬は人間に飼われていると思っているが、猫は人間を飼っていると思っている、と聞いたことがある。アテになる話ではないが、放し飼の彼らには飼い主のことなど全く考えていない様子が確かに見えてくる。特に恋の時期になると人目も人の耳もはばからず、恥ずかしげもなく鳴き叫びまくる。その響きはもの凄く、本能の赴くままと言う他はない。
 酔ってうたた寝の作者は「猫の恋」の叫び合いに目を覚ました。初めは腹が立っていたが、遂には呆れ果てて「あれほどの声が要るのかね」と可笑しくなってきた。枕元から歳時記を取り出して目を通すと、「一匹の雌に数匹の牡が鳴き寄り」という記述があり、ライバルの存在に気付かされた。すさまじいあの声の源を思えば、同情心も湧いてくる。
 考えて見れば彼らは、ライオン、虎、豹などの同族を代表する「ネコ科」の一員なのだ。犬などとはいささか違うレベル、と言えるだろう。遥かな進化の旅の果に、人間に飼われているような状況に置かれているが、春を迎えれば、本能の赴くままも仕方のないところ。翌朝、奴は駐車場の車の上に寝そべり、一家の主人が出かけるのをジロリと見ていた。
(恂 20.03.23.)

春の日や伸びして伸びぬ身と心  斉山 満智

春の日や伸びして伸びぬ身と心  斉山 満智

『季のことば』

 「春の日」は暖かい春の陽射しと、のどかな春の一日の二通りの意がある。句によっては両方の意味を持たせたり、どちらともつかない作品もあるというユニークな季語だ。この句はどちらだろう、両方かもしれない。
 麗らかな春のある日、作者は窓に差し込む春の陽射しを全身で受け、太陽に向かって思わず伸びをしたのだろう。ところがである。腕が思うように真上まで上がらず、無理をすると痛い。「あちちち」と小さく悲鳴を上げたかも知れない。五十肩は誰しも経験あると思うが、寿命が延びた今では六十肩や七十肩も珍しくない。肩関節は複雑で様々な筋が肩と腕を支え繋いでいて、その筋が老化で固くなり無理に耐えかねて炎症を起こすのが原因だそうだ。
 作者はさらにたたみ掛ける。心も錆び付いてしまった。若い頃は伸びやかでしなやかな感性を持っていたはずなのに、と。しかし、この句からはあまり切実な印象を受けない。むしろ気持ちにゆとりすら感じるのは、季の働きのおかげもあるのだろう。
(双 20.03.22.)

蛤の舌だし泳ぐ太平洋   野田 冷峰

蛤の舌だし泳ぐ太平洋   野田 冷峰

『季のことば』

 蛤は春の季語。特に雛の節句の御馳走には蛤の吸物が欠かせない。これは蛤の貝殻の模様と真っ白な内側との対比が美しく印象的なこと、さらには貝殻の内側に金蒔絵を施し和歌を記した「貝合せ」という女子の遊び道具になったことなどが元になっている。また、その貝殻は他の貝殻とは決して合わないので、「二夫にまみえず」という封建時代の女子教育観にも添うものでもあった。
 句会では「ウソつけ、と思わず言ってしまいそうなほど巧みな句だ。極めつけは下五の太平洋」(青水)という評があった。確かにこの句の面白さは、蛤が潮干狩の手を逃れて「あかんべー」と舌を出しながら悠然と太平洋を泳ぐという「見てきたようなウソ」をしゃあしゃあと詠んだところだろう。古代中国人は海上に城や巨船が浮かぶ現象を「蜃気楼」と名付けた。「蜃」という途轍もなく巨大な蛤が吐き出す「気」というわけだ。この句の蛤もその仲間かも知れない。
 蛤は浅蜊や汐吹貝などよりかなり深い所に居る。そして海水温が急変したり、汚れたりするとさっさと移動する。「一夜に三里走る」とも言われる。あの大きな舌(足)を使って、海水を吸っては吐き出しながら好きな場所を探すのだろう。
(水 20.03.20.)

春の日や再雇用とて白髪染め   谷川 水馬

春の日や再雇用とて白髪染め   谷川 水馬

『この一句』

 再雇用とは「定年後再雇用制度」のこと。企業の大半は60歳定年制を採用しているが、厚生年金の支給開始年齢引き上げに伴い、65歳までの継続雇用が法律で義務付けられた。定年を延長した企業もあるが、多くは1年契約の再雇用制度で対応している。
 作者も再雇用で仕事を続けることが決まったのであろう。新年度からの出社に備えて白髪を染め、気持ちを新たにしている。助詞の「とて」が絶妙である。直接的には白髪染めの原因・理由を表しているが、何やら一歩身を引いて、自分を面白がっている気配が漂う。
 川柳は仕事をテーマにした句をたくさん見かけるが、仕事の俳句は農業を除くと意外に少ない。川柳が世の中の変化をいち早く捉えて笑い飛ばすのに対し、俳句は季語や字数の縛りがあり変化に遅れがちだ。川柳を進取とすれば、俳句は守旧といえる。掲句は、再雇用という仕事の「いま」を捉え、白髪染めする自分をちょっと茶化して、笑いを誘っている。長閑な春の日にぴったりの時季の句であり、仕事の句である。
(迷 20.03.19.)

春の日の首筋過ぐる梳き鋏    塩田 命水

春の日の首筋過ぐる梳き鋏    塩田 命水

『この一句』

 「春の日」には、「春の日和」と「春の陽射し」という両方の意味がある。一読した時には後者の陽射しを想起し、屋外での散髪かなと思った。だが、子供ならいざ知らず明らかに詠み手は大人であり、理容室か美容院で散髪してもらっているのだろう。そうすると「春の日」は陽射しではなく、室内で感じる外の日和を意味するのだろうと合点した。もっとも、仲の良い夫婦が庭で髪を切りあっていると想像してみると、それはそれで微笑ましい光景である。
 この句が詠んでいるものは、梳き鋏が首筋に触れるときのあの冷やっとした感触である。しかもそれは、冬場の寒さの中とは異なり、春めいた陽気の中で感じる、少しくすぐったいような感触にちがいない。作者の感覚の繊細さをよく感じさせる句だ。
 一方、下五の「梳き鋏」は、三文字の「鋏」を五文字に整えるための工夫だろうくらいにしか考えなかった。ところが水牛氏の評に、普通の鋏はチョキチョキ、梳き鋏はシャキシャキ、この梳き鋏の音の軽快さが良いのだ、とあった。そうか梳き鋏の音か、と読みの深さに感心してしまった。そう思って改めて読むと、いっそう「春の日」に相応しい味わいのある句になった。
(可 20.03.18.)

土手の道人影伸びる日永かな   高石 昌魚

土手の道人影伸びる日永かな   高石 昌魚

『この一句』

 自分の影を含めて、よく伸びた人の影を、最もはっきりと確認できる場所は河川の土手の上ではないだろうか。周囲にはおおよそ高い建物がない。道は当然平坦で歩きやすい。歩いている人の数も通常の道路より少なく、何より安全で、障害物などに気を配る必要も少ない。自分の影によって自分の歩きぶりを確かめるにも絶好である。
 作者は夕方の散歩に出たのだろう。町中を過ぎれば、その先に大きな河の堤が控えている。階段を上り、土手の上に出る。街も河も左右の眼下にあり、西空には夕陽が傾きかけていた。さて、これからが晴れ日の日課ともいうべきウォーキング。一キロ先の目印まで行って引き返す。往復三十分が目安である。
 往路の時は気づかなかったが、折り返すと西日を背に受けて、自分の影が前方にぐんと伸びていた。帰りの一㌔は影が先導してくれるのだ・・・。句会の後、会場を出て交差点まで、作者といっしょに百㍍ほどを歩いた。すでに九十歳を超えておられるはずだが、足取りに不安は全く感じられなかった。人生も日永の時代である。
(恂 20.03.17.)

公園に絵描き現れ日永かな    植村 博明

公園に絵描き現れ日永かな    植村 博明

『この一句』

 なんともないありふれた光景を、なんともなく詠んだと言えばそれもそうだ。日没が早く、キーンと冷え込む冬が終わった日永の公園。絵描きとおぼしき人がやってきた。イーゼルを抱えていなくても画帳を手にしているので、この公園に絵を描きに来たのだと見定めた。作者はベンチに座っていてこの人物の登場を眺めている。舞台劇の幕開けのようなワンシーン。これから何が始まるのか、展開に興味津々といった客席の静まりを見るような気がするのは評者の妄想だろうか。
 公園を一つの舞台として、この先の展開を妄想させるこの句が気になった。男か女か絵を描きたい人が、やおら画帳を開いてスケッチを始めただけよ、と詠んだだけかもしれないのだが。評者がさらに妄想を膨らませるのをお許し願いたい。
 「百万本のバラ」というラトビア発の歌謡曲がある。貧乏な画家が恋した女優の住む窓辺の広場を、百万本の紅いバラで埋めたという歌はカラオケでよく歌われているが、ふとその情景を思い浮かべてしまった。
(葉 20.03.16.)

来て逃げて雀の群れの日永かな  堤 てる夫

来て逃げて雀の群れの日永かな  堤 てる夫

『合評会から』(日経俳句会)

二堂 私の家にも雀がよく来ます。群れで来ては逃げる。それを上手く詠んでくれている。
昌魚 動画のように景が動いていくのが分かるいい句です。
博明 確かに雀は団体で来ては、さっと逃げて、またしばらくして団体でやってくる。いったい何しているんだと思うし、それを眺めてるいる作者も「日永」。
ヲブラダ 拙宅は十五階なのですが、ベランダに雀が来ます。警戒心が強く、正にこんな感じです。鳩ならこういう気分にはなりませんね。
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 田園地帯に住まうようになって六、七年たつ作者は今や雀とも友達である。毎朝、庭に玄米を撒いてやるのだそうだ。その内に雀のお宿に招かれて宝物の一杯詰まったつづらを貰ってくるのではないか。
 雀は人間のすぐそばに暮らしているくせに警戒心が非常に強い。まず物見雀が来て、大丈夫だと見極めると仲間を呼ぶ。一寸でも危険を感じると逃げろの合図を発して、一斉にぱっと飛び立つ。とにかく、作者は雀の生態をよく見ている。
(水 20.03.15.)