夏山の小屋の夜に聴くシンフォニア 深瀬久敬

夏山の小屋の夜に聴くシンフォニア 深瀬久敬 『この一句』  「ドヴォルザーク?ワーグナーかな?山の夜にはしみじみと響くだろうな」(有弘)という評が寄せられた。そうした荘重な交響曲もいいかも知れない。しかし、作者は『アルビノーニのアダージョ』をシンフォニアというものだと思い込んでいるのだという。「山頂で星空を眺めながら聞いたら」と思いながらこの句を詠んだそうである。  バロック音楽のアルビノーニに想いを馳せてレモ・ジャゾットが1950年代に作曲したこのシンフォニアは、なるほどアダージョ(くつろぎ)と言う通り、ゆっくりとした旋律で聞く者の心を落ち着かせ、なだめてくれる。喘ぎ喘ぎ、振り絞る汗さえ無くなってしまったかと思われるほど、極度に消耗しきって山小屋にたどりついた。水を吞み、食事を採り、ようやく人心地を取り戻して吸い込む夜気と満天の星。イヤホンから流れ込むアルビノーニのアダージョは天恵の妙音に違いない。  「夏山の小屋の夜に聴くシンフォニア」という叙述は、「乙に澄ましてる」「エエカッコシイ」とからかわれ、場合によっては糞味噌にやっつけられる恐れ無きにしも非ずである。しかしこの句は、ためらわずに自分の思いを素直にすっと詠んだことによって、気持良く受け入れられる側に踏み止まった。 (水 20.08.21.)

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ふたりいてひとりの孤独夜の秋  斉山 満智

ふたりいてひとりの孤独夜の秋  斉山 満智 『この一句』  「夜の秋」は晩夏の季語。炎暑の夏も8月に入ると、日が落ちた後は少し涼しく感じたりして、ふと秋の気配を感じる、というような心情的な季語だ。  掲句の「ふたり」は多分、男と女。なんだか冷めてしまったようだ。この句を選んだ一人、的中さんは「それにしても、深い孤独感ですね」と驚く。一方、「人生にはこういうことはよくあるよなあ、と思っていただきました。『夜の秋』にふさわしい」と可升さん。作者は、「人と一緒にいて寂しくないはずなのに、返って寂しさを感じる瞬間が『夜の秋』に通じるのでは」と言う。  この作者には心情を表した作品が多い。当欄に登場した句を拾っても「彼岸過ぐ心は冬に置いたまま」、「誰からも音沙汰なき日梅雨に入る」、「よしよしと自分なだめて春を越す」などなど枚挙に暇がない。読者は、その心の有りように共感するかどうかなのだが、呈示の仕方がいかようにも取れる絶妙な言い回しなので、つい気になるし、捨ててはおけない。句会でも話題になる句が多い。  巣籠もり生活が続き、仲違いする男女が増えていると聞く。果たしてこの「ふたり」、その後どうなったのだろうか。 (双 20.08.20.)

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夏山の銀河に抱かれ眠りけり   後藤 尚弘

夏山の銀河に抱かれ眠りけり   後藤 尚弘 『合評会から』(三四郎句会) 圭子 真夏の夜、満天の星空に包まれ、大いなる何かに安心して眠れるような自然の神秘が感じられます。 而云 銀河の大きさが感じられます。山小屋泊まりの一句か。 諭  「夏の山」と「銀河」の織りなす壮大な句に圧倒されました。 久敬 数年前、野辺山天文台を見学に行ったときの夜景を思い出しました。           *       *       *  「夏山と銀河ではなあ」と、一瞥そっぽを向いたのだが、何か気になって読み直した。そうだ、こういう感激シーンを味わったことがあるではないかと、思い出したのだ。もう40年も前のことだが、オーストラリア内陸沙漠に忽然と聳える巨岩エアーズロックの麓で野営した時の星空である。空にはこんなに沢山の星があったのかと呆気にとられた。夜空びっしりと金銀砂子を蒔いたように星が散りばめられている。それが大きなお椀をかぶせたように地平線まで続いているのだ。気が遠くなった。  作者によれば大学時代ゼミ仲間と八ヶ岳を縦走した時山小屋に泊まり満天隙間なく輝く星に感激した思い出の句だという。こういう光景の前では、「夏山」という夏の季語と「銀河」という秋の季語が重なって云々・・などという小賢しい一言は吹き飛んでしまう。大らかな句である。 (水 20.08.19.)

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的中音響きわたりて夜の秋    池内 的中

的中音響きわたりて夜の秋    池内 的中 『季のことば』  選句表を一読、弓道を嗜む人の作と分かる句だ。弓道には縁のない筆者にも、矢が的に当たった音が何にも代えがたく快いのだろうと、容易に句意を察した。「正射的中」とこの世界では教えられるという。正しく射られた矢しか的に当たらないということらしい。弓道に限らず武道はなべて姿勢を問う。きりりと立つ、あるいは正座して矢を射る姿は見る者を粛然とさせる。また、正月の京都三十三間堂での通し矢は、ことに華やかである。振袖の長い袖を白襷で括り上げた女子学生が、一列に並んで次々と立射する光景は圧巻だ。このような映像シーンが自然に浮かぶ。  「夜の秋」という難しい季語に対し、この句は文字通り正鵠を得ていると思っていただいた。夜の秋は合評会の場でも示されたように、秋でもなく夏のちょっとだけ秋めいた夜の気分を詠むのが本意。が、ともすれば秋そのものの句になりがちだ。この句は暑さも和らいできた夜稽古で的中音が響く情景である。そこに夜の秋を感じさせる。作者の俳号である「的中」も呼応しているようだ。  ところで、この句は「的中音」の読みとして「てきちゅうね」とルビが振られていた。これが弓道で慣用の言い方ならば仕方がないが、さもなければ六音になっても辞書通り「てきちゅうおん」とすべきだろうとの指摘もあった。 (葉 20.08.18.)

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ハドソンの鰻も供しチャイナタウン 河村有弘

ハドソンの鰻も供しチャイナタウン 河村有弘 『おかめはちもく』  「ハドソン河の鰻とはね、それもチャイナタウンで。面白い」(而云)、「意外性あり、多様なニューヨークの暑い夏の実感も伝わってくる」(進)──若き頃柔道部の猛者として鳴らした人たちによるユニークな三四郎句会で好評を博した一句。この作者は半世紀も前、ニューヨーク特派員として活躍、勇名を轟かせた。何でもあるニューヨークだが蒲焼だけは無理だろうと思っていたら、チャイナタウンにはあった。「鰻」の兼題に当時の思い出を甦らせた。しかし、 ハドソン鰻は太くて大味だったという。  どの国の大都会にも必ずあるチャイナタウン。そしてそこの住人たちはもう中国語を話せない三世、四世が多いが、「食」に関する限り、先祖伝来の習慣を持ち続けている。何でも食材にしてしまうのもその一つだ。ハドソン鰻を料理するなどお茶の子さいさいである。但し蒲焼だけは別だ。確かに大味だろう。  この句意表をついて面白いのだが、「供し」という畏まった措辞が句の趣を壊している。鰻とあってチャイナタウンとあれば、料理屋であることは自明で、わざわざ「供し」と言うまでもなかろう。作者自身が述懐しているように、ハドソン鰻の「太く」「大味」なことを述べた方が良さそうだ。  (添削例)ハドソンの鰻大味チャイナタウン (水 20.08.17.)

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老犬のゆたかないびき夜の秋   金田 青水

老犬のゆたかないびき夜の秋   金田 青水 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 「ゆたかないびき」という表現が老犬に対する愛情を感じさせます。 水兎 「ゆたかな」が良いですね。安心して眠る動物を見るだけで、幸せな気分になります。 斗詩子 飼い主に大事に可愛がられて安心しきって眠っているワンちゃんの様子。「ゆたかないびき」という表現が面白い。           *       *       *  筆者もこの句を採ったが、まず「夜の秋」の季語に「老犬のゆたかないびき」が取合せられていることに驚いた。「夜の秋」は、秋の気配がして、少し肌寒くなった頃の季語で、やはりどちらかというと静寂を感じさせるものと取合せるのが普通ではないだろうか。それが「いびき」、しかも「ゆたかないびき」である。だが、真っ暗な部屋の中でこのいびきの音だけが聞こえてくるとすれば、それはやはり「夜の秋」にふさわしいもののように思われた。  この句を採られた三人の女性は、いずれも老犬に対する作者の愛情や、老犬の安心に言及されているが、筆者には老犬の姿は見えず、ただ「いびき」の音だけが聞こえてきた。筆者の読みはおそらく片手落ちだろう。しかし、闇の中から聞こえる「ゆたかないびき」の音の不気味さと「夜の秋」が共鳴することで、格調のある一句になったように思えた。 (可 20.08.16.)

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夜の秋五輪マーチの虚ろなる   徳永 木葉

夜の秋五輪マーチの虚ろなる   徳永 木葉 『この一句』  この句は2020年の夏を象徴している。出されたのは8月1日の句会。新型コロナウイルス騒動がなければ、社会は東京オリンピックに湧き返っていただろう。そういう想いが募るだけに、五輪マーチが耳に入れば、その響きは虚ろなものとなり、ひとしお身に沁みるものとなる。選手達はどうしているのだろうか、などと…。  そう、上記のような読み方が一般的なのだろう。だが、私は「虚ろなる」という一語に引っ掛かった。そしていささか臍曲がりの解釈をした。虚ろには、1年延期という結論に至った、馬鹿馬鹿しい騒動への皮肉が籠っている、と。来年、オリンピックは「完全な形で行う」そうだが、年を違え、十分な練習もできずに競技しても完全なのだろうか。  さらに、「夜の秋」という季語が、決まり過ぎるほどに決まっている。薄ら寒い感じは季節の変わり目のせいなのだが、それが五輪に狂奔する人々の心の貧しさに向けられたようにも思えるからだ。例えば、なぜ「選手村を、コロナ患者の一時収容施設に」という声が上がらなかったのか、である。本当に寂しい限りである。 (光 20.08.14.)

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玄海の波も翼に飛魚 (あご) の群れ 岡本 崇

玄海の波も翼に飛魚 (あご) の群れ 岡本 崇 「合評会から」(三四郎句会) 雅博 小学二年生のころ、関門の海で見た光景を思い出した。「波も翼に」が、気持ちの良い飛魚の飛びっぷりを良く表現している。 而云 飛魚は海面すれすれに、波を突っ切って飛んでいく。爽快な句だ。 有弘 飛翔へのあこがれ、かな。 心象風景、イメージ映像かも? 照芳 飛魚の飛ぶ姿をうまく描写していると思います。 久敬 子供の頃、伊東の海で見た飛魚の様子が浮かんできました。           *       *       *  飛魚は大きなヒレを翼のようにして海面すれすれを滑空し、波を突っ切りながら飛んでいく。一つの群れは数十尾から百尾を超えることもある。海の観光船、連絡船の乗客にとって、飛魚の飛翔はなかなかの見もので、甲板に大きな歓声が湧く。なお「あご」は九州北部から本州日本海側で使われている飛魚の別名。福岡県出身の作者には懐かしい呼び名なのだろう。 (恂 20.08.13.)

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霍乱や母が常備の正露丸     野田 冷峰

霍乱や母が常備の正露丸     野田 冷峰 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 万能薬の正露丸。あの嫌な匂いを嗅ぐと嘔吐、腹痛が収まる気がするから不思議。昔は征露丸だったが敗戦日本の悲しさ。改名しても薬効があればまあいっか。 反平 そういえば、なんでもかんでも正露丸だった。まだまだ健在のようだが。 二堂 家には富山の薬箱があって、腹を壊すと母は正露丸を出してきました。 定利 母の代から使ってる正露丸を、慌てて引出しに探す景がうかぶ。 而云 正露丸があって「霍乱」が成立した。           *       *       *  「霍乱(かくらん)」とは熱中症はじめ胃炎、腸チフス、赤痢など夏場に多い疾病をひっくるめて言う病名。日露戦争(明治37,38年)の従軍兵士の為に、そうした疾患の予防・治療薬として陸軍衛生材料廠が開発したのがこの丸薬。「ロシアを征伐する」という意味を込めて「征露丸」と命名した。電信柱や枕木の防腐剤クレオソート油と混同されることがあるが、防腐剤の方はコールタールを蒸留して作り、正露丸は木材を乾留して作る木酢液、木クレオソートが原料。日露戦争どころか第二次大戦中も使われ、戦後75年の今でも愛用者が少なくない。昔は「なんでもかんでも正露丸」というオバアチャンが多かったと言うが、今でも「うがい薬がコロナに効く」などというナイーブな知事さんも居る。 (水 20.08.12.)

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波静か夕日眩しき夏座敷     加藤 明生

波静か夕日眩しき夏座敷     加藤 明生 『季のことば』  「夏座敷」とは、襖も障子も取り払い、できるだけ開けっぴろげに、風通しを良くして、軒には風鈴や釣り忍などを下げ、涼しさを感じさせようとした座敷である。この季語を用いて俳句を詠む場合にはやはり誰しも、そうした趣を踏まえて、涼しげな感じを出そうとする。  しかし、この句は夕日が照り輝く夏座敷というのだから、恐らく西向きあるいは南西に開けた部屋なのであろう。房総半島の東京湾岸、真鶴半島、伊豆西海岸など、地形の関係からどうしてもそうした夏座敷が出来てしまうことがある。かなり暑そうである。そこがかえって面白い。強い日射しがまばゆいのに、妙に静かなのだ。  「波静か」とあるから、夕凪の頃合いか。海岸地帯では日中は海からの風が吹き、夜になると山側から吹き降ろしてくる。海風が陸風に切り変わる時間帯は無風状態となる。これが夕凪。夕日が沈む頃から暗くなるまでの間で、実に暑い。  昔、湯河原の海水浴場の知人の別荘に時折出かけたが、この句のような情景に何度か遭遇した。暑いことは暑いが、夕日に照らされてチカチカ光る小波が印象的で、やがて太陽が没し暗くなると、さあっと涼風が吹いて来るのだった。 (水 20.08.11.)

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