稲光タワマン墓のごとく立ち   須藤 光迷

稲光タワマン墓のごとく立ち   須藤 光迷 『この一句』  一読して光景があざやかに浮かび、強い印象を残す句である。現代都市の象徴ともいえるタワーマンションが墓標のようだという比喩がぴったりで、季語の稲光と相まって、叙景句にとどまらない思想性を感じさせる。句会でも「何かストーリーがあるような気がする」(千虎)、「現代文明への批評にも通じる」(木葉)など句の背後に思いを致した人が多く、高点を得て二席となった。  タワーマンションに法的定義はないが、一般に高さ60メートル(20階建)以上の超高層マンションをさす。50年ほど前に最初は郊外に登場したが、建築基準法の改正で都心部にも相次いで建設されるようになった。首都圏には全国の半数の790棟があり、臨海部の勝どきや武蔵小杉など、50階を超えるタワマンが林立する光景は、テレビにもよく登場する。  今や平均価格が1億円をはるかに超すタワマンの購入者は、共稼ぎの高所得ファミリー層が多いと言われる。住んでいる人は眺望と都心暮らしを満喫しているだろうが、コンクリートに囲まれた超高層階での生活、防災面の課題など、傍から見るとどこか不安がつきまとう。「大地震でタワマンがバタバタ倒れる夢を見るが、何年か先の東京の実景かもしれない」(水牛)という予知夢も、あながち杞憂とは言い切れないであろう。  作者は切れ味鋭い時事句を得意とする。バベルの塔の神話ではないが、掲句は人々がタワマンに感じる根源的な違和感、不安感を、稲光に浮かぶ墓標に見立てることで、イメージ…

続きを読む

庭先に干されしおまる曼珠沙華  斉山 満智

庭先に干されしおまる曼珠沙華  斉山 満智 『この一句』  「おまる」とは乳幼児や病人用の室内便器。健康成人だけの家庭には無縁のものだが、乳児や寝たきり老人を抱える家には必需品だ。おまるは有史以来重要な家庭用品として生き続けてきたものなのだが、「不浄のもの」として常に日陰に押しやられてきた。こうして俳句に詠まれることなど滅多に無いことで、この句はその点でも特筆大書すべきものである。  古代日本語で排便することを「まる」と言い、時にはその落下物のことも言っていた。排尿は「ゆまる」と言うのだが、いかにもという感じである。『源氏物語』などで想像する奈良平安の大内裏や貴族館は実に優雅だが、実際は極めて不便な暮らしを強いられていた。その最たるものが「用足し」である。今のように自由自在に水道配管して必要箇所にトイレを設けるというわけにはいかない。屋敷内でもぐんと離れた所に設けられる。十二単をまとった御婦人方は間に合わないこともしばしばだったに違いない。というわけで「おまる」は大昔からの必需品だった。  さてこの句の鑑賞だが、私は一読、この「おまる」は乳幼児用のものではなく寝たきり老人のものではないかと思った。ただ食べて、排泄するだけの日々。真っ白なおまるが真っ青な秋空に干されている。その主人公が遠からず行く浄土を飾るという曼珠沙華があかあかと陽に映えている。 (水 24.09.12.)

続きを読む

とげとげの心丸めて盆支度     篠田 朗

とげとげの心丸めて盆支度     篠田 朗 『合評会から』(日経俳句会) 枕流 イライラすることがあっても、先祖が帰ってくる間くらいは、気持ちを抑えるという感じがよく伝わってきました。 卓也 盆に集う面々の屈託あれこれに思いを馳せ、実感と共感が新た。 朗(作者) 毎年の盆支度は私の仕事。今年もそろそろと思っていた矢先に家内から督促され、ちょっとイラっとしてしまいました。提灯を組み立てながら盆くらいは心穏やかにと過ごそうと反省し、心を丸めた次第です(笑)。           *       *       *  「とげとげの心丸めて」というフレーズが実にユニークで面白い。人は皆どこかにとげとげしい心根を持っているし、ときには日ごろの憤懣が高じて噴出することもある。盆の時期はことさら角ばった感情は「丸く収めて」先祖供養し、子や孫の帰宅を優しく迎えなければならない。仏壇の前に盆提灯を置き香華を供え、坊さんの来訪を待つ盆用意。そろそろやろうかなと思っていたその時、奥さんから催促されたとすれば、イラっとするのは理解できる。子どもに「早く勉強しなさい」と言ったら、逆にしたくなくなるという児童心理と似ている。さすがに作者は分別盛り。イラつく心を反省し奥さんに応えた。家内の平和大事と大人の対応をしたのであろう。亭主族共感の持てる句だ。 (葉 24.09.10.)

続きを読む

孫と嫁残暑を置いて帰りけり   加藤 明生

孫と嫁残暑を置いて帰りけり   加藤 明生 『この一句』  同居もしくは隣近所に住んでいる場合を除き、久しぶりに遠方の孫に会えるのは、祖父母にとって至福の喜びである。孫は、血を分けた自分の分身でありながら我が子と違い、育児やしつけ、教育への配慮、責任はなく、ただ短い間だけ可愛がっていればいい存在だ。孫の方も我が儘を聞いてくれ、怒られることもないので甘えっぱなし。孫の句が敬遠されるのは、そんな個人的な「甘い関係」があくまでも個の域を出ないからだ。「ほら、可愛いでしょ」と、ひとの孫の写真を見せられても…、という訳だ。  さて掲句。夏休みとあって息子夫婦が孫を連れて作者の家へ来た。あちこち念入りに掃除して、寝具も整えた。牛肉やら刺身やらご馳走を準備し、孫が喜びそうな食べ物も加え、盛大におもてなし。急に増えた家族と賑やかな食事を楽しむ。翌日は、近くのショッピングセンターに孫と買物。言われるままにおもちゃを買ったり、お子様ランチに付き合ったり。そんなこんなの二泊三日が終わり、孫一家が帰って行った。濃密な時間が過ぎ、また元の老夫婦だけの生活に戻ったとたん、急に残暑を感じた。まるで孫一家の置き土産のように。  「孫は来てよし、帰ってよし」。掲句はその「帰ってよし」を詠んだことで、孫句の甘さから距離をおくことに成功した。「残暑を置いて」の措辞も斬新で、得票は二桁を超え、堂々の一席に輝いた。 (双 24.09.08.)

続きを読む

なき人はよき人ばかり流れ星   廣田 可升 

なき人はよき人ばかり流れ星   廣田 可升  『合評会から』(番町喜楽会) 白山 感じがいい句ですねぇ。本当の気持ちなんだ。素直な人が詠んだ句ではないでしょうか。 てる夫 亡くなった人を偲ぶ気持ちは、こんな気持ちなんだなぁと感じました。死んだ人のことは、いい事しか思い出さないんだ。 春陽子 思い出とは、いい事だけが残るんです。それに「流れ星」という季語からはなぜか亡くなった人が頭をかすめる。この微妙なところを上手く詠んだなと思いました。 青水 名調子ですな。確かにおっしゃる通りといただきました。 迷哲 家族でも友人でも、先に逝った人はいい人ばかりというのは、残った者がよく抱く感慨です。「なき人」、「よき人」の対句表現、下五に流れ星を置いた語順などよく工夫された句です。           *       *       *  仏教に慣れ親しんできた日本人の死生観のひとつは、死んでしまえば善人も悪人もない、すべて仏となるというもの。何世紀ものあいだ染み付いたその感覚が死者を敬い、菩提を弔う心を育む。「あんなに嫌だと思っていた元上司でさえ、亡くなってみればよき人に思えてきます」と、作者は句意を解説している。故人の嫌な思い出は死去と同時に雲散霧消する。後に残るのは笑顔とか僅かばかりのよい記憶。兼題の「流れ星」にぴったり合い、身近だった故人をしみじみ想う心情が浮かんで来る句だ。 (葉 24.09.06.)

続きを読む

猫達と夫に一献遠花火     藤野 十三妹

猫達と夫に一献遠花火     藤野 十三妹 『季のことば』  花火は夏の風物詩として親しまれているが、江戸時代は秋の季語だったという。水牛歳時記によれば、もともとお盆の行事として始まったものが、「明治以降、夏休みの景気付けに各地で7月に花火大会が開催されるようになって、夏の季語になった」。よく知られる隅田川花火大会は7月の最終土曜日に開催される。夏休みと花火の記憶が重なる人も多いのではなかろうか。  同類の季語に、打揚花火、仕掛花火、庭花火、線香花火などがあり、離れた場所から花火を眺める「遠花火」もその一つである。間近で見る花火の迫力はないが、遠花火には光に遅れて音が届く面白さや、暗闇に小さく浮かんで消える儚さがある。  掲句の作者はその遠花火を猫達と眺めている。「夫に一献」とは、花火がお盆行事であったことを踏まえると、亡くなった夫に盃を捧げていると考えるべきであろう。作者は2年ほど前に最愛の夫を亡くし、偲ぶ句をたくさん詠まれている。掲句もそれに連なる一句であろう。  独り暮らしの作者が、飼っている猫と花火を見ながら、亡き夫を思って酒を汲むという状況が、遠花火の持つしみじみとした雰囲気と響き合っている。花火が遠いだけでなく、亡くなって2年を経て、夫との思い出も少し遠くなったという感慨もにじんでいるように思える。 (迷 24.09.04.)

続きを読む

銀の匙磨くも母の盆支度     星川 水兎

銀の匙磨くも母の盆支度     星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 盆の支度で、なぜ銀の匙かという点がこの句のミソでしょう。すごく年季が入った古いスプーンセットがお婆ちゃんのお気に入り。 双歩 仏具を磨くでは当たり前なので、銀の匙を持ってきたところがポエムだと思いました。 光迷 銀製品は手入れが大変、それにしてもご自宅で銀の匙をお使いとは。 豆乳 母はお盆になると忙しなくなります。盆支度という言葉がいいですね。           *       *       *  お盆を迎える支度はいろいろと忙しい。自宅回りの草刈りや清掃から始まって、仏間の掃除、仏具の手入れ、盆提灯を出して、霊棚を設え、茄子や胡瓜の馬を作って、盆花も生けて、苧殻を炊いて、などなど。さらに、子供や孫、親類などを迎える準備も大変だ。季語「盆用意・盆支度」にこれらの事柄、例えば「仏具磨いて」などと詠んでも佳句は生まれそうもない。それどころか、季語の説明になりかねない。  この作者の母堂は、お盆を迎えるにあたり来客用の銀の匙を磨くという。銀製品は、硫化や塩化によって黒ずんでしまう。専用の布やクリームで磨くと、銀の輝きが戻る。その作業も母にとっては重要な「盆支度」なのだと詠う。一見、銀の匙とお盆とはかけ離れているようだが、その乖離が詩を生み、印象鮮明な一句となった。 (双 24.09.01.)

続きを読む

ヴィトン下げあの娘降り立つ盆の駅 杉山三薬

ヴィトン下げあの娘降り立つ盆の駅 杉山三薬 『この一句』  盆と正月は日本人最大の年中行事だ。仏壇を前に先祖を敬い感謝するお盆に比べ、国中が清新の気につつまれる正月はうきうきする。盆はどうしても抹香くさく、墓参りの習慣も核家族化が行き着いた昨今、途絶えがちになっているようだ。「親戚もいまやちりぢり盂蘭盆会 大澤水牛」と嘆息するように、家族や親類が一堂に集う盆行事はほぼなくなった。伯父伯母、その子たちは今どうしているのだろうかと思うばかり。  そんななか、故郷の実家に帰って盆の行事に加わろうなどという、掲句の娘さんなどは立派な心掛けの持ち主である。ただし、勤め先が一斉盆休みでやることもなく仕方なく帰郷したのかもしれず、句の本意はどちらか分からないが。  とにかく若い女性あこがれのヴィトンのバッグを下げ、駅に降り立つ娘の姿がある。高校卒業後、故郷を離れ都会の学校を出てどこか会社に就職したのか。まずは娘の”現在地”が気になる。ヴィトンもボストンバッグほどの大きさになるとずいぶんと値が張る。それを持てるほどの収入があるのは間違いない。意気揚々と下車したのか、人目をしのぶように降り立ったのかも気になる。どこかに隠れたドラマがあるような句である。いささか古い話で恐縮だが、『カルメン故郷に帰る』という高峰秀子演じる、日本初の総天然色映画を思い出した。「妄想が過ぎるよ」と作者に怒られそうではあるが、「ヴィトン」と「あの娘(こ)」が妄想をかきたてる。 (葉 24.08.31.)

続きを読む

柴犬の耳ピンと立つ秋の声     斉山 満智

柴犬の耳ピンと立つ秋の声     斉山 満智 『季のことば』  秋の声とは「澄んだ空気の中に、繊細になった聴覚が捉えた秋の気配をいう」(角川俳句大歳時記)。風音、葉擦れの音、投句の水音、虫の音などが例示される。水牛歳時記は「秋を感じさせる心に響く物音であり、実際に耳で聴く場合もあれば、何か聞こえてくるような気がすることもある。広く秋の気分ととった方が良いようだ」と解説している。  明確な声・音ではなく、気配や気分なので、句作にあたっては秋を感じさせる風景、物音、状況などを詠むことになる。掲句は犬の耳という意外なものを登場させ、その動きに秋の声を感じ取っている。句会では点が伸びなかったが、そのユニークな取り合わせが目を引いた。  犬は毛に覆われているため汗で熱を下げることが出来ず、暑さに弱い。最近の猛暑では日陰で寝ていることが多く、柴犬の特徴である三角の立ち耳も垂れ気味である。作者はその耳が久しぶりにピンと立ったのに目をとめた。愛犬が何かに気づき、気力を取り戻した様子に、秋の気配を感じたのである。散歩をせがまれたのかも知れない。犬にいつも気を配っている愛犬家だから気づいた視点であろう。  犬の聴力は人間の4倍といわれ、人には聞こえない低い音や遠くの音を聴くことが出来る。もしかするとこの柴犬は、本当に秋の声を聴き取ったのではないかと考えると、愛犬家ならずとも愉快になってくる。 (迷 24.08.29.)

続きを読む

白桃やアダムもイヴも知らぬ味  玉田春陽子

白桃やアダムもイヴも知らぬ味  玉田春陽子 『この一句』  夏から秋にかけ、さまざまな果物が出回り食卓を賑わせる。西瓜、桃、葡萄、メロンを主役にチェリー、スモモやザクロなどの脇役も顔を見せる。それぞれ一番好きなものを堪能していることだろう。熱暑で弱った胃腸の負担にならず、また水分の補給にもなるから、この夏はことに果物が重宝される。あまり食べ過ぎないことが肝要なのは大方承知。最近は栽培農家が糖度の高さを競うようにしているので、過度の糖分摂取は糖尿病になる心配がありそうだ。  作者はいま白桃に舌鼓を打っている。桃どころ山梨では、桃は皮を剝かずそのままかぶりつくそうだが、その経験のない筆者にはその妙味は想像できない。瑞々しく柔らかい果肉は歯にやさしく、甘い汁が喉の奥に吸い込まれる。「ああ美味い」と声にならぬ声が聞こえて来そうだ。作者が思わず思い浮かべたのは、アダムとイヴの物語。蛇に唆され禁断の林檎の実を食べてしまって、エデンの園を追われたあの話。枝もたわわに実る林檎の未知の味に、心のブレーキがかからなかった。寓意は人間の性を表して不変の真理を語っている。  禁断の謂われもなく心のままに食べられる白桃。「この美味さはアダムもイヴも知らんめい!」と悦に入っている作者の顔が見える。機知にとんだ句だと高点を得た。 (葉 24.08.27.)

続きを読む