冷やかや小樽硝子は海の色   溝口 戸無広

冷やかや小樽硝子は海の色   溝口 戸無広 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 小樽にはガラス工房が沢山あって職人が昔ながらの手法で手作りしている。少し歪んだガラスと日本海の海の色がうまく重なる。小樽へ旅した気分になる句だと思って頂きました。 而云 良い句だと思った。でもこの冷やかが突き放した感じになっている。しかしまあ良い句だ。 阿猿 この夏、小樽を訪れた。八月でも曇ると朝夕は涼しい。かすかな秋の気配を小樽硝子に託したのが風情がある。 芳之 あの色はたしかに夏でも涼し気です。 反平 淡い青の、上品さが良い小樽硝子。 十三妹 言い得て妙。           *       *       *  「海の色」の措辞を見れば芥川龍之介の「木がらしや目刺にのこる海のいろ」が思い出される。群青からエメラルドグリーン、ターコイズブルーまで海の色は多種多様だがごくイメージしやすい。この句は小樽硝子に海の色を見たという。仕掛けた漁網の目印となるガラスの浮き球ともつながり、これも寒色の青だ。小樽では様々な硝子作品が作られているが、海を思わせる寒色の食器やワイングラスは夏でも涼しさを呼ぶ。秋を兆すこの時季、素直に「冷やか」を思わせる。龍之介の海の色とは、また趣のちがう感じがして選んだ句である。 (葉 24.10.09.)

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知事殿に土産どっさり唐辛子  中沢 豆乳

知事殿に土産どっさり唐辛子  中沢 豆乳 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 今、人々に不愉快な感じを与えている知事殿なんでしょう。なんか嫌な奴と思いながら作ったような句だなと思い、頂きました(笑)。 青水 なんとも騒がしい兵庫県知事騒動。それを揶揄してまとめた時事句。唐辛子の辛みがピリッとくる皮肉もみえて、及第点か。 健史 時事問題を完璧にとらえたタイムリーヒットでは。 明生 兵庫県知事を痛烈に批判した句。土産どっさりと唐辛子の取り合わせが面白く、思わず苦笑した。           *       *       *  母方のおじいさんが神戸の製靴業界の親玉で大金持だったという。物心つく頃からこれにバカ可愛がりされ、自己中心主義の塊のような人間になってしまったと週刊誌などに書かれている。東大出て総務省のエリート役人になり、県庁など地方行政機関の幹部をいくつかめぐっている間に「おもらいぐせ」がついたのか、兵庫県知事になると県内視察の行く先々で「おねだり」頻発、さらには気に入らぬ部下を徹底的にいじめるパワハラで、ついには自殺者まで出した。それやこれやで県議会全会一致の辞職決議案通過。本人はそれによる知事失職処分を受けても平然、11月17日投開票の知事選に打って出る。与野党それぞれ対抗馬を立てての乱戦模様となったため、もしかしたらこの男がまた返り咲いてしまうかも知れないとも言われている。  「唐辛子」という兼題を時事問題とからめてぴりりと利かせ、実にうまいこと料理したものだ…

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そぞろ寒娘が米を借りにくる   杉山 三薬

そぞろ寒娘が米を借りにくる   杉山 三薬 『この一句』  この夏は「令和の米騒動」といわれ、店頭からお米が消えた。そもそも新米が出回る前の8月は、端境期でもあり在庫は減っている。そこへ、南海トラフ地震臨時情報や大型台風接近による各家庭の米備蓄が重なったため、と一般的には言われている。他にも昨年の猛暑で高品質の米の生産量が減った、インバウンドによる外国人の消費が増えた、減反政策のツケなどと、様々な要因が浮かび上がった。9月半ばになって、ようやく新米が出回るようになり、多少割高だが米が店頭に並ぶようになった。  そんな時勢を踏まえ、掲句は嫁いだ娘が米を分けてくれと実家に泣きついてきた、という。「そぞろ寒」に相応しい光景だが、この夏の米騒動を度外視して、掲句に出会ったとしたらどう感じるか。主食の米を借りにくる何か差し迫った理由があるのだろうか。あるいは、近所に住む娘さんが気軽に「お母さん、ちょっとお米ちょうだい」と駆け込んできたのか。水牛さんは後者を採り「江戸の昔から今日まで連綿と続いている長屋風景にも通じる実にいい句」と絶賛。  実は、この日の席題は「米」だった。しかも、出題したのは作者である。作者が明かされると、一同感心するやら冷やかすやら、大いに盛り上がった。とはいえ、掲句には出題者の気負いは感じられず、とても素直な感じの良い句だ。作者の思惑通り、天の位を獲ったのも宜なるかな。 (双 24.10.05.)

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冷やかに退職手続ご案内     旙山 芳之

冷やかに退職手続ご案内     旙山 芳之 『おかめはちもく』  労務・人事関係の部署から届いた「退職手続のご案内」なる文書。満60歳なり65歳なり、退職年齢は企業ごとに異なりはするが、勤め人が仕事人生で必ず手にする書類である。当たり前だが、淡々と事務手続についての説明が書かれているだけで味も素っ気もない。作者はそれを「冷やかに」と詠んだ。  句会では「冷やかに、と言うのはちょっと言い過ぎではないでしょうか」という感想があった。確かに長年会社一筋に一生懸命働いて来た者に対して、「はい定年ですよ、以下のように手続してください」と木で鼻を括ったような紙切れが社内便で届けられたら、「物事にはやり方や順序というものがあるだろうに」と鼻白む気分になるのはわかる。しかし、この種の文書が紋切型になるのは已むを得ないことだ。逆に妙にクソ丁寧な、猫撫で声を字に書いたようなものだったら気持が悪くなる。このあたり、なかなか難しいところだが、やはり「冷やかに」は、少々きつ過ぎる感じがする。作者は会社では働きを大いに認められ、それなりに遇されて、定年を迎え何の不満も無く第二の人生を歩み出す手立てもついていると聞く。  種明かしをすれば、この「冷やか」は句会の兼題が「秋冷」だったが故に据えられたものなのだ。だから、これは「冷やかに」などと捻らずに、兼題をそのまま置いて「秋冷や退職手続ご案内」とした方が良かった。これで、ぶっきらぼうな文書にすっと冷たい風が吹き抜けた感じや、ちょっと寂しい気分も、切字「や」の働き…

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爪割れて齢身に入む夕べかな   嵐田 双歩

爪割れて齢身に入む夕べかな   嵐田 双歩 『この一句』  季語は「身に入む」。水牛歳時記には、「秋風がひんやりして来ると、人は誰しももののあはれを感じるようになる。こうした秋のもの思いを誘うような、肌に沁み通って来るような感じ」を言うとある。たんに物理的な温度の変化ではなく、心情的なものに重きが置かれた季語であることがわかる。  作者は、近頃よく爪が割れることに気づき、それが老化現象によるものだと捉えている。調べてみると、たしかに、加齢によって爪の主成分である「ケロチン」というタンパク質や水分が不足し、爪が弾力性を失い、脆くなって割れると説明されている。  この句は、句会では、同じような経験を持つ人たちから支持され高得点句となった。とりたてて大きな出来事ではなく、こうした日常生活のなかでの、ふとした気づきのようなことを題材にして詠むのがとても上手な作者である。爪割れに気づき、「あゝ、齢をとったものだなあ」というしみじみした思いと、「身に入む」という季語の親和性はとても高く、まさにぴたりとはまった句である。  また、兼題の「身に入む」を「身に入むや」として上五に置いた句がずらり並ぶ中、「齢身に入む」と中七にまとめた技法の上手さも光っている。しょっちゅう爪割れに悩む筆者は、真っ先に特選句として採り上げた。 (可 24.10.01.)

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秋茜行合の空よく晴れて     水口 弥生

秋茜行合の空よく晴れて     水口 弥生 『季のことば』  「行合の空」とはなんとも雅で素敵な言葉を見つけたものである。夏から秋へと移り変わる頃の空は暑気と涼気が行き交ひ、入れ替わる。地平に近いところには未だ夏の入道雲が湧いているが、上空には綿のようなあるいは鱗のような秋の雲が見える。そういった様子を昔の人は行合の空と言ったのである。  『古今集』巻三「夏歌」の最後に載っている「夏と秋と行きかふそらの通路(かよひぢ)はかたへすずしき風やふくらん」という平安前期の歌人凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌が元になり、以後、「行合の空」は数々の詩歌、俳諧に詠まれるようになった。行く夏と来る秋がすれ違う空の道の片側にはさぞや涼しい風の吹いていることだろうなあと、暑さにげんなりしている躬恒さんの姿が見えるようだ。  だが「行合の空」は歳時記には載っていない。あまりにも古色蒼然としていると見做されたのか、あるいは夏と秋のどちらに分類するかの決着がつかないせいだろうか。  しかし、夏秋の境目の微妙なところを衝いた「行合の空」という言葉に惹かれた俳人は多く、俳諧時代から現代まで結構詠まれている。蕪村の弟子の高橋東皋に「夏と秋と行き交ふ空や流星」というとても良い句がある。弥生さんの句も「秋茜」すなわち赤蜻蛉という人気のある秋の季語を添わせて「行合の空」を詠んでいる。このように二季に亘ってしまうが故に歳時記に載せきれない不思議な「季のことば」を用いる場合、夏にするか秋にするかは、その場の状況と詠…

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身に入むや類想類句といふ奈落  廣田 可升

身に入むや類想類句といふ奈落  廣田 可升 『この一句』  俳句を長年作ってくれば、「類想類句」という落とし穴にはまってしまうことがある。初心者のころは、何がなんでも五七五に従って句にしようとして、出来上がったものが他人の作品と似ていることなど気づかない。ところが俳句に慣れてくると、「はて、これは以前に誰かに詠まれたのではないか」と気になるものである。  手練れの作者がこの境地におちいり、「身に入む」ほどのうすら寒さを覚えたようだ。類想といい、類句といい、筆者もふくめ‟俳句作りの壁”を前に悩む人は多い。それを奈落に落ちたようだと作者は詠んだ。類想類句と一口に言うけれど、その定義はありやなしや。類句は、読めば大抵の俳句愛好家すぐ分かるほどの単純さがある。「あの有名句とよく似ているね」と。いっぽう、類想(ちょっと驚き。この言葉は辞書にない)はどうだろうか。この句は同じような発想だから、類想だと決めつけられないのではないか。俳人は森羅万象に感じて俳句を作る。同じ発想になるのは避けられない。日経俳句会では毎回百句を超える投句があり、兼題には同じ発想で作られた句がいくつも並ぶ。そのなかで、この句は他より優れているという評価が下され高点を得る。  乱暴に私見を言わせてもらえれば、類想と類句が一つに重なるとまずいということになるのではないかと思う。和歌連歌の世界でも、先人の余情・用語を取り入れた本歌取りがあるとも思う。 (葉 24.09.28.)

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身に入むや組立トイレ講習会   大澤 水牛

身に入むや組立トイレ講習会   大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 三薬 災害大国に生きる老人としては、これは他人事ではない。古めかしい季語に、現代風物をうまく組み合わせました。 春陽子 きっと作者自身が講習会に参加されたのでしょう。そう思うと、この句がぐっと臨場感を増し、身に入むが伝わって来ます。 光迷 地元の町内会では非常事態に備える策として組立てトイレや食料、水などを保管しています。災害続きで備えは怠れませんね。 木葉 南海トラフ地震などが注目される今、時宜を得た句。「組立トイレ」には特に老人の切実さを連想させます。 青水 この逸話が持つ切実さと可笑しみ。それが過不足なく納まり、会場のざわめきや作者の心情までもが浮き上がってきました。           *       *       *  水牛歳時記には、『秋風がひんやりして来ると、人は誰しももののあはれを感じるようになる。こうした秋のもの思いを誘うような、肌に沁み通って来るような感じを言うのが「身に入む」という季語』とある。掲句は、その「身に入む」という雅な季語に、「トイレ」という俗ではあるが切実なモノを取り合わせ、読者をはっとさせる。特に高齢者にとっては「組立トイレ」の使い方などの情報は極めて現実的な話題だ。  仏教の教えに「いま、ここ、われ」という言葉がある。俳句でも同様に「いま、ここ、われ」が重要と説く俳人がいる。この句は「組立トイレ講習会」を受講した作者の「いま、ここ、われ」を詠み込んだ、優れた現代俳…

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庭の鉢居間にあふれる厄日かな  中村 迷哲

庭の鉢居間にあふれる厄日かな  中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 いまちょうど台風シーズンですが、台風が来る前に庭の鉢を居間に移すというのは、とてもリアリティがあって、なおかつ微笑ましい光景です。 白山 台風が来るのに備えて鉢を避難させる。狭い部屋がなおさら狭くなりますが、しようがないですね。 二堂 台風シーズン、鉢を家の中に避難させることも多くなります。 てる夫 荒天対策で貴重な鉢物を屋内に取り込んだ。その数、半端じゃあない。天気回復までの辛抱とはいえ、なんともご苦労様です。 幻水 我が家もベランダですが、妻が同じことをしています。           *       *       *  作者によると、御父上が菊作りが趣味で「台風来襲となると家族総出で鉢を家の中へ入れさせられ、居間にまであふれてしまいました」ということだった。菊作りは春の「根分」に始まり、大輪菊の場合は初夏仲夏の挿し芽、大鉢への植え替え、脇芽摘み、支柱立て等々、一年中手間がかかる。台風シーズンは蕾が着く頃合いで極めて大事な時期でもある。天気予報を聞きながら、いよいよとなれば屋内に取り込む。奥さんはじめ子供達まで総動員だ。  私は小菊しか作っていないから屋内にまで入れずに済んでいるが、それでも植木棚の鉢を下に下ろし囲いをする。それを詠んだ『植木鉢せっせと下ろす厄日前』を同じ句会に出したのだが、「居間にあふれる」の迫力には到底敵せず、無残な返り討ち。 (水 24.09.24.)

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廃農家ぐるり囲んで曼殊沙華   徳永 木葉

廃農家ぐるり囲んで曼殊沙華   徳永 木葉 『季のことば』  曼殊沙華は彼岸花の別称。ヒガンバナ科の多年生植物で、秋のお彼岸の頃に川の土手や田の畦、墓地などで真っ赤な花を咲かせることから彼岸花の名がある。水牛歳時記によれば、曼殊沙華は法華経に由来する名前で、天上に咲く赤い花を意味する。寺の裏庭や墓地でよく見かけるのはその由来によるようだ。また球根に有毒成分があり、ネズミやモグラの害獣避けとして、水田の畦にもよく植えられた。紅い花が田の縁を彩る景観は、秋の農村の風物詩のひとつである。  掲句は曼殊沙華が、廃業した農家を取り囲むように群生している様を詠んでいる。古びた藁葺屋根の農家と曼殊沙華の紅い色がマッチして、風景画家・向井潤吉の絵を思わせる景である。しかし曼殊沙華をめぐる歴史と農村の現実を句に重ねると、心象風景はかなり違ってくる。  曼殊沙華は生命力が強く、球根を埋めておけば、日影や水気の多い場所でもどんどん増える。球根は澱粉を多く含むので、飢饉の時は水に何度もさらして毒を除き、救荒食物としたという。田の畦や農家の周りに植えられた曼殊沙華には、そんな悲しい歴史がある。  さらに「廃農家」の措辞からは、荒れた田園がイメージされる。畦の手入れをする人もなく、曼殊沙華は広がり放題。家の裏に植えられた曼殊沙華が表にまで進出し、今や崩れかけた家をぐるりと取り囲んでいるのであろう。離農が相次ぎ、荒れ果てていく現代農村の光景と捉えると、咲き盛る曼殊沙華が、「死人花」「幽霊花」とも見えてこないだ…

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