振り向けばだあれも居ない初夏の街 横井定利

振り向けばだあれも居ない初夏の街 横井定利 『この一句』  非常事態宣言の出た街を、コロナ俳句として詠んだのは一目瞭然である。いまや新聞の俳壇も歌壇も、もちろん詩歌専門誌もコロナ禍の吟詠が真っ盛り。自粛生活の中、仕事でやむなく外に出ざるを得ない人々のほかは、自宅に籠もるのが多数派といった状況だ。ただ、自粛が倒産の崖っぷちとなる居酒屋、飲食店などは、万全のウイルス対策を講じたうえ店を開けるのを非難できないと筆者は考える。“自粛警察”とかいう嫌な風潮は排したい。  それはさておき、この句である。コロナ関連の難しいカタカナ用語や、自粛、巣ごもり、蟄居などの語も使わずに社会の不気味さを表した。俳句では上五に「なになにすれば」と条件を付けるのはよろしくないと教えられてきた。が、この「振り向けば」は句の構成から必要条件だと思う。作者は通院だろうか、夏が来た街中を歩いており後ろの静かさに、ふと振り返ってみたが当然誰もいない。近未来映画のような雰囲気が句の全体をおおっている。ことに効果を出しているのが「だあれも」と「あ」を加えたところだ。不気味さをすこしだけ減殺しているようにみえる。 (葉 20.06.04.)

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空豆の夏場所消えてしまひけり  大澤 水牛

空豆の夏場所消えてしまひけり  大澤 水牛 『この一句』  伝統を守る大相撲の世界は食材の仕入れでも、明治、大正の流通を受け継いでいるという。例えば両国国技館の名物、焼鳥である。千葉など近県の特定の農家から運ばれてきた大量の鶏肉は、館内の調理場でさばき、焼き上げ、桝席に運ばれてくる。そして夏場所(五月場所)とくれば、何を差し置いても空豆を挙げねばならない。  季節感たっぷり、味も絶品の空豆である。ある大相撲ファンは「夏場所の桟敷席で空豆を肴に一杯」を生涯の目標に掲げているほどなのだ。掲句はその夏場所を「空豆の~」と表現した。句を見たとたん、筆者は「上手く詠むもんだねぇ」と感嘆したが、句の後半によって現実に引き戻された。夏場所は消えてしまったのである。  中止の理由は説明するまでもない。さらに七月の名古屋場所も中止し、名古屋場所は東京・国技館に変更の予定だが、相撲協会は「無観客を目指す」という。一方、力士たちは体と体が触れ合うどころか、ぶつかり合い、もみ合いながら鍛え込まねばならない。彼らは復活を目指し、どのような道をたどって行くのだろうか。句の下五「しまひけり」には、これからの大相撲への思いが漂っている。 (恂 20.06.03.)

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川の香を運ぶ大鮎宅配便     池内 的中

川の香を運ぶ大鮎宅配便     池内 的中 『この一句』  番町喜楽会の5月例会に出された句である。「川の香を運ぶ」の措辞に惹かれて点を入れた。鮎は春先に川を遡上、苔を食べて成長し夏に旬を迎える年魚。スイカやキュウリのような独特の香りがあり、香魚とも呼ばれる。食べた餌の種類によって香りに違いが出るとされ、育った川の環境(香り)を身に蔵しているといえる。  掲句は産地から取り寄せた鮎を詠んだのであろう。コロナ籠りの自宅に広がる天然の香り。鮎の育った清流が想起され、滅入りがちな気分も吹き飛ぶようだ。  ここまで書いて、ふと鮎釣りの解禁は6月1日ではないかと思い至った。しかも初夏の鮎は小ぶりで、大鮎の表現も気になる。  調べてみると、近年流通している鮎の7割は養殖物で、5月初めから20センチ級のサイズが出荷されている。養殖物は香りがしないのが普通だが、餌の工夫や湧水の利用など養殖技術が進み、産地によっては天然物と変わらない香りがあり、味も劣らないという。鮎の旬には少し早いが、養殖魚と宅配便を活用し、籠り家に初夏を呼び込んだ作者に拍手したい。 (迷 20.06.02.)

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通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操

通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操 『この一句』  ときおり思うのだが、若葉は桜と紅葉に挟まれて少し不遇なのではないか。桜には華やかさがある。花と言えば桜、咲くのも散るのも愛でられる。紅葉の色づきは秋の深まりを感じさせ、しっとりとした情緒がある。そこへいくと若葉は、夏の盛りに向けて、樹木が放つ「いきれ」のようなものをぷんぷん匂わせ、情緒の面では少し損をしているかもしれない。しかし、景観の美だけを問うならば、若葉は桜にも、紅葉にも決して引けをとらないと思う。たとえば、東福寺の通天橋は筆者の好きな場所だが、若葉の季節にあの廊下に佇むと、一面の見事な緑の美しさに息を呑み、ついつい見惚れてしまう。  掲句は、ただでさえ美しい若葉に通り雨を降らせ、雨後のきらきらと光る眩しい情景を詠んだ句である。句そのものはいたってわかりやすく、この句の解釈に紛う人は誰もいないだろう。しかも、語順も語感も完成度が高く、口にしてみて心地よい句に仕上がっている。しかし句会では、こういう句はえてして見落とされがちである。人の気を引く措辞や、ひとひねりしたような措辞がないからである。双歩さんが「俳句は平明でなければならない」という俳人の言葉を引いてこの句を褒められた。まったく同感。美しい句である。 (可 20.06.01.)

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鮎来るや千曲は重機工事中    堤 てる夫

鮎来るや千曲は重機工事中    堤 てる夫 『この一句』  鮎の遡上は作者の住む長野県上田市周辺では、ことに季節を感じる景物なのだろう。作者は鮎を食べるのはあまり好きではないと聞いたことがあるが、それとこの句は別物。記憶にまだ鮮明に残っている通り、昨秋の千曲川べりは豪雨氾濫で大きな被害を受けた。堤防が決壊し多くの民家や田畑、果樹の水没はもちろん、上田から別所温泉に通じる私鉄の鉄橋まで崩落した。  それでも今年の鮎が千曲の急流に上って来た。しかし川の周辺一帯は堤防の工事やら鉄橋の架け替えなどの真っ最中。ブルドーザーやクレーンなど重機がうなりをあげているのだろう。そんな騒がしいなか、鮎が無事遡上を果たして、十分に川藻を食み産卵の目的を果たせればと願うのは万人の気持ちである。  この句は、岩がゴロゴロしている氾濫川にも間違いなく鮎が上ってきた喜びを「鮎来るや」の一言で、復活への万感の思いを表している。鮭と同様、鮎も生殖を終えれば一生を終える哀しみがあるが、それも自然の一つの摂理とするのは世の習いである。その一方では重機で日常生活を元に戻す工事が粛粛と進んでいる。自然と人の営みの対比を巧まず詠んで、平易な句ながら隙間がない。 (葉 20.05.31.)

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遊具みなテープで縛る子供の日  中村 迷哲

遊具みなテープで縛る子供の日  中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 今年の時事句としても記念碑的な一句。 命水 行き場がなくなって子供も自粛を強いられている。 白山 本当に子供は可愛そうです。 てる夫 コロナ禍の句の典型なので頂きました。 木葉 子どもの日なのに公園で遊べない。「テープで縛る」と、「縛る」が生活を拘束している現実を言い表して的確です。 可升 縛られた遊具だけをモノとして描写し、変に説明しないところがいい。 星川 テープでぐるぐる巻きにされた遊具は、物寂しい光景でした。      *     *     *  子供が遊んではいけない児童公園。誰も来くるなという観光地。事実は小説より奇なりというが、誰がこんな事態を想像し得ただろうか。新型コロナによる悲しい実態だ。とりわけ、子供たちには辛い仕打ちが続いた。2月末、安倍首相がいきなり全国の小中学校の臨時休校を要請して以降、子供たちの行き場がなくなった。もちろん部活は中止、図書館も閉館。動物園やテーマパークどころか、近くの公園すら行けなくなる始末。公園の遊具は使用禁止の看板とともに、ロープやテープでぐるぐる巻きにされてしまった。  掲句は、この悲劇を実に巧みな言葉遣いで詠んでいる。今年の「子供の日」の秀句として、いつまでも記憶に止めておきたい一句だ。 (双 20.05.29.)

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春雨の傘の取り持つ出会かな   田中 白山

春雨の傘の取り持つ出会かな   田中 白山 『この一句』  「なんとまあ、瑞々しい」というのが第一印象でした。そして春雨の出会いの記憶を句にできる羨ましさが段々募ってきました。句会では、だれも票を入れませんでした。嫉妬心かもしれません。しかし作者がわかって、「八十路の青春」はなんとも素晴らしいと申し上げたい。  最近、昔の出来事などを思うことが多くなりました。五年生の第二学期に編入した都内の小学校で、気になる女の子がいました。出来る子で、姓名をちゃんと思い出せます。高校時代には手紙をやりとりした同級生が居ました。高校卒業でお付き合いは途切れてしまいましたが、名字が変わったことを知っています。  わが青春を語ることは恥ずかしいかぎりですが、大学時代は四年間、学費稼ぎの家庭教師に明けくれ、クラブ活動の仲間と寄った高田馬場のスタンドバーで、お姉さんに言い寄られそうになったことがあるくらい。五味川純平の「人間の条件」を貪り読んで、仲代達矢・新珠三千代の主役にほれ込んだりしましたが、自分がロマンの主役になることはありませんでした。  ですから八十歳代半ばの年齢で、素敵なロマンを胸に秘めている作者はやはり羨ましいあ。 (て 20.05.28.)

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妻の乗る脚立を支へ立夏かな   玉田春陽子

妻の乗る脚立を支へ立夏かな   玉田春陽子 「合評会から」 鷹洋 夏のグリーン・カーテン張りは最早妻の仕事。退職後の男は見上げるだけで、本当に頼りにならない。自嘲的でペーソスあり。 双歩 いったい、この奥さんは何をしているのでしょうか?高い所の物を取るだけなら、夫がやればいいのですから。さらに立夏とどう関係しているのでしょうか?謎多き句です。 ゆり 夏を迎える作業をされているのでしょう。力仕事だと逆のはずなので、カーテンや簾を掛け替えるとかそんな情景を思い浮かべました。 而云 立夏の陽光に妻の活躍。婦唱夫随はいつものことながら。        *         *        *  脚立の上に妻が上り、夫が下で脚立を支える。婦唱夫随の風景が実にはっきりと浮び上がって来るではないか。奥さんが物置から脚立を持ち出してきたのを見て、ご主人は「そうか、この時期が来たか」と結婚当初のことを思い出す。新妻が「日よけ、どうしましょう」と言い出したのだ。「日よけ?」。あの時、夫はきょとんとするのみであった。  以来、夫は毎年、下で脚立を支えるだけ。下っ腹が出て来た昨今、脚立における下克上の夢など、とっくに消え去っている。「この日覆、まだ二三年、大丈夫ね」。夫は「うん、うん、そうだね」と応ずるのみだ。陽射しまばゆい立夏の朝。「晩酌は家内の好きな赤ワインで行くか」などと夫は考えている。 (恂 20.05.27.)

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オンラインのほのかなる時差春愁  大下明古

オンラインのほのかなる時差春愁  大下明古 『季のことば』  汗ばむほどの季節になってきた。読者はこの句の「春愁」という季語がいささか時宜を得ないのではと思われるかもしれないが、五月の番町喜楽会の作品である。春には「春愁」秋には「秋思」があり、それぞれ物思いの感情を表している。夏と冬は、と言えばしっくりする同意の季語がないように思う。体の適応に追われる猛暑、厳寒下では、物思いどころじゃないということだろう。  作者はコロナ禍のいま、友人とオンライン俳句に興じていると聞いた。LINE、ZOOM、SKYPEなどの何かでやりとりしているのだろうか。たしかに相手との受け答えには微妙なズレがある。一秒の何十分の一かもしれないが、対面の句座とはちょっと違う。その違和感を「ほのかなる時差」と詠んで、「春愁(はるうれひ)」だと言うのだ。きわめて当世的なIT事象をとらえて、季語を詠み入れたものだと思う。「時差」というほどの大げさなズレではないが、作者の鋭敏な感性が読み取れる。  作者はオンライン俳句を通じて、俳号「明古」を付けるようになったとも言っている。本名を長く守って俳号とは無縁だった作者が、心境に変化を来たしたのもコロナ禍の副産物だろうか。 (葉 20.05.26.)

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せせらぎへ卯の花こぼる城下町  前島 幻水

せせらぎへ卯の花こぼる城下町   前島 幻水 『合評会から』 迷哲 津和野あたりをイメージしました。「こぼる」が絶妙で静かに散る卯の花が見えてきます。 水兎 地方の旧街道沿いの小流れに、静かに卯の花が散っている。長く残って欲しい風景です。           *       *       *  こういう句を読むとすぐに、これはどこを詠んだのだろうと思ってしまう。せせらぎのある城下町。小さな川であればどこでも良さそうだが、「せせらぎ」は浅瀬の川音を想起させる言葉で、川音が聞こえるような静かな場所でないといけない。迷哲さんは津和野をイメージし、水兎さんは旧街道沿いの城下町をイメージしている。いずれにせよ、少し草深い小さな城下町を想像させる。  この句はやはり「こぼる」を使ったところがお手柄だという気がする。意味からすれば「落ちる」でも良いのだろうが、それでは句として収まりが悪い。「こぼる」は、ふわっとこぼれる静かな落ち方で、語感がとても柔らかである。また、「せせらぎ」の動と、「こぼる」の静の組合せが、この句を趣きのあるものにしている。 (可 20.05.25.) 

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