七五三シングルママの凛々しくて 田中 白山

七五三シングルママの凛々しくて 田中 白山 『この一句』  この一句を目にした時、ある女性の姿が浮かんだ。なぜ母一人子一人の家庭になったのか、その事情はつまびらかにしない。ただ、女の子が「医者になりたい」と進路を口にした時、編集者の母親は「うちには私立大学の医学部に進学させるだけの蓄えはない」ときっぱり答えた。子供はその言葉にうなずいたものの、あきらめず、夢を叶えた。  どうしたのか。お伽噺のように足長おじさんが出現したわけではない。自力で、夢を現にする道を探したのだ。入学金や授業料が不要なばかりか、月々、また期末の手当てが支給されるところ、防衛医科大学校を目指したのである。それは、今様に言えば凛々しい、古い言葉では逞しい母親と、その遺伝子を受け継いだ子供らしい挑戦だった。  最近、家族の形態も人々の生き方も多様化している。女性の社会進出は加速し、見た目ではなく、生き方が凛々しい女性が増えているのも確かだろう。ちなみに、この女の子は防衛医大を卒業し、結婚、出産をしたとか。となれば、早晩、七五三の時を迎える。それはともかく、男であれ女であれ、知恵を凝らし、力を尽くす姿は美しい。 (光 19.11.20.)

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耳うとき身にも沁みるや初時雨  山口斗詩子

耳うとき身にも沁みるや初時雨  山口斗詩子 『季のことば』  耳うときという表現にちょっと立ち止まった。「うとい」では関心や関係が薄い、不案内だという意味がすぐ浮かぶ。辞書を引いてみた。目や耳の機能が十分に働かないとも意味すると分かった。それはさておき季語「時雨」である。由来、季語は情緒・詩情があり句作りの発想を広げる機能を持っている。時雨などもいつの時代から使われるようになったのか勉強不足で知らないが、なんとも情緒豊かな語彙のうちの一つである。「時雨する」と形容動詞として使っている薄田泣菫の詩もあった。それに「初」を付ければ詩情満点になる。  初時雨は冬の始まりを告げる気象上の現象のみならず、心の内を響かせる季語だ。この句の作者はもちろん老年のご婦人だが、詩情を詠んだものではない。耳の機能に自信を失くされているのだろう。自宅の部屋にいて窓を見れば雨。降ったり止んだりするが、ややもすれば耳には届かない。それでも冬に向かう厳しさだけは感じ取れる。「初」がことに身に沁みるという、作者の心情を表した佳句だと思う。 (葉 19.11.19.)

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湯冷めして二十数へしころ思ふ   塩田 命水

湯冷めして二十数へしころ思ふ   塩田 命水 『季のことば』  風呂上がりで身体がほてっているものだから羽織るものもいい加減に、気になるテレビ番組を見ていたらクシャミが出た。これはいけない、湯冷めしてしまったようだ。風邪を引かなければいいが・・。「予防のため」などとつぶやきながら一本熱燗をつけた。  猪口でなく湯呑についでぐいとひと吞み。熱燗の湯気に噎せて、こんこん咳をしながら、「やっぱり引いたかな」なんて思っていたら、大昔を思い出した。四、五歳の頃、風呂が嫌いというより、じっと入っているのが嫌いで、すぐに出ようとする。母親が「もう少し温まらなくてはだめよ」と肩を抑えつける。それを撥ねのけて立ち上がろうとすると、もっと強い力で抑え付けられ、「さあ、二十数えましょ」と言われる。一生懸命の早口で、イチ、ニイ、サン、シイ・・と数えたものだった。  風呂で温まったら冷えないうちに寝るのが鉄則だった時代の冬の季語「湯冷め」。暖房の行き届いた最近はすっかり忘れられたかのようだが、油断すると昔を思い出すことになる。 (水 19.11.18.)

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切干や脇役ばかり五十年     須藤 光迷

切干や脇役ばかり五十年     須藤 光迷 『この一句』  読んですぐに「太秦」のことを思い浮かべた。東映と松竹の撮影所が今も残る映画の町。大映はなくなったが大映通り商店街に名前を残している。「蒲田行進曲」という、主題歌とタイトルは松竹蒲田なのに、舞台は東映太秦という不思議な映画もあった。  この脇役はこの町に長年住む大部屋俳優。毎日撮影所に通い出番を確認する。出番はめっきり減ったが、殺陣の稽古だけは欠かさない。撮影所の帰りにはいつもの小料理屋を覗く。いつのまにか冬がやってきた。女将の作った切干の煮物で一杯やると、なんだか昔のことを思い出す。役者稼業もそろそろ五十年になる。・・・この句を読んで抱いた妄想である。  俳句には字数の制限があるから、この脇役がどこに住むのか、どんな役柄が多いのか、独身者か妻帯者か、なにも教えてくれない。そこから先は、読者が十七文字を手がかりに想像するしかない。この句は季語の「切干」と「脇役ばかり五十年」の組合せが絶妙である。筆者はもともと妄想癖の強い方だが、こんなに刺激された句は滅多にない。佳句だと思う。 (可 19.11.17)

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虫歯治療完了ですと秋うらら   大澤 水牛

虫歯治療完了ですと秋うらら   大澤 水牛 『おかめはちもく』  この句を見てすぐ、どうして「秋うらら」を上五にもってこなかったのだろう、と不思議な気がした。句会で作者が分かり、「例えば『秋うらら虫歯の治療完了す』では駄目なのでしょうか」と疑問をぶつけてみた。すると、「あ、そのほうがいいね」と間髪を入れず即答された。そんな事情もあり、僭越ながら傍目八目として取り上げさせてもらった。  この例に限らず、上五と下五を入れ替えると句がまったく違う印象になることがままある。入れ替えが可能な句は、とりあえずこの作業を試みて損はないと思う。  とまあ、ここまでが一般論。作者が分かってみると、原句のほうが作者らしい気がしてきた。「虫歯治療完了ですと」とのつぶやき口調によって、「やれやれこの歳で、やっと虫歯の治療が終わったよ、あっはっは」と、照れて頭をつるりと撫でる水牛さんを思い浮かべて楽しくなる。この辺りが「味」というもので、俳句鑑賞のおもしろさでもあるのだろう。 (双 19.11.15.)

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投げ上げる声も受け止め掛大根 玉田 春陽子

投げ上げる声も受け止め掛大根 玉田 春陽子 『季のことば』  掛大根(かけだいこん)とは、丸太で組んだ足場に、葉の部分を縛った大根を振り分けに掛けて天日干しするもの。10日ほどでしなびてきて沢庵漬けにされる。大根の産地の冬の風物詩であり、大根干す、干大根などと同類の季語である。  掲句は足場に大根を掛ける作業を描く。2段、3段に組まれた所では、大根を投げ上げる人と上で受け止める人が息を合わせないと上手くいかない。「投げ上げる声も受け止め」の上五中七から、「いくよ」「よしきた」といった声が聞こえ、大根の重みと収穫の喜びが伝わってくる。番町喜楽会の11月例会で最高点を得たが、連携作業を楽しむような句調から、おそらく夫婦であろう二人の仲の良さも読み取れる。  作者によると幼い頃に熊谷で見た原風景という。大根は重いので、下から投げ上げる方が大変だろうと思うが、作者の記憶では妻が投げ上げるケースがほとんどらしい。上州名物の空っ風は利根川を越え熊谷にも吹く。大根を乾かすとともに女房の強さも育むのかも知れない。 (迷 19.11.14.)

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韓国語消ゑて長崎冬に入る    高井 百子

韓国語消ゑて長崎冬に入る    高井 百子 『この一句』  令和最初の立冬の朝、東京の気温は10度ちょっとだった。それはともかく、この一句は、昨今の日韓関係を背景とした時事句として受け止めた。来日観光客が減少し、観光地・長崎も寂しさが募っていると…。徴用工問題に端を発し、貿易問題などに発展した両国の関係は、まさに冬の季節に入ったようである。  俳句では現在、すなわち今を詠うことが中心になっている。しかし、政治や経済という現在を突き動かしているものを正面から取り上げることは珍しい。ほとんど無い、といってもいい。それを観光という文化の一面から取り上げた作者に大きな拍手を送りたい。花だとか蝶だとかばかりもてあそんでいるんじゃないよ、という姿勢に。  いわゆる伝統俳句には、地名や人名という固有名詞は季語同様の重みを持つという考え方もあるようだ。忌日が季語になっているのは、一例だろう。その意味では、長崎が効いているのか、という問題が出そうだ。しかし、中七を「消え長崎も」としたのでは、強さが失せる。個人的にはむしろ、ほとんど発音されない「ゑ」の表記に難を唱えたい。 (光 19.11.13.)

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温室のウツボカヅラの秋思かな  星川 水兎

温室のウツボカヅラの秋思かな  星川 水兎 『この一句』  ウツボカヅラという名前を知らない人でも、植物園や大きな園芸店などでこの食虫植物を見たことがあるに違いない。蔓性植物でツルの節々に親指大からフランクフルトソーセージくらいの捕虫袋を付ける。この捕虫袋の中には甘い香りの消化液が溜まっており、それにつられて飛び込んで来る昆虫を溶かして栄養分にしてしまう。東南アジアの熱帯湿潤地帯の植物で、形が面白いことから18世紀に英国人、フランス人などがヨーロッパに持ち帰り、大人気の園芸植物になった。日本にも明治時代後半にもたらされ、捕虫袋の形が弓術の矢を入れる靫(うつぼ)に似ているとして靫蔓(うつぼかずら)と命名された。  格好は珍妙だが地味な植物で、眺めていてそれほど面白いものではない。捕虫袋に虫がどんどん飛び込めば面白いのだが、そんなことは滅多に起こらない。熱帯雨林ならいざ知らず、日本の掃除の行き届いた植物園の温室では虫などほとんど見当たらない。ウツボカヅラは十年一日の如く、袋の口を開けてただただ待っている。そんなウツボカヅラに「秋思」を感じるとは、そこがまた何とも言えず面白い。 (水 19.11.12.)

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秋深し何も語らぬ石舞台     中村 迷哲

秋深し何も語らぬ石舞台     中村 迷哲 『この一句』  奈良の明日香村にある石舞台は、大きな石を組み合わせた6世紀の古墳だ。元々あった盛り土は風雪に失われ、巨石の土台だけが残った。平らな天辺の形から石舞台とよばれ、観光名所となっている。蘇我馬子の墓という説が有力だが、詳しくは不明。ロマン溢れる遺跡ゆえか俳句にはよく詠まれている。  石舞台の俳句数ある中で、この句は中七の「何も語らぬ」が魅力的だ。当然ながら石は石のままで何一つ語りようがないが、見る人それぞれが感慨を受けるのだ。この句は、その当たり前の事実を改めて呈示したところが共感を呼んだようだ。  かつて、銀座一丁目にあった映画館「テアトル東京」で、筆者は『2001年宇宙の旅』というSF映画を観た。この映画にはモノリスという巨大な黒い石柱が登場するのだが、掲句を一読して真っ先にそのモノリスを思い浮かべた。この石柱は時空を越えて存在する不思議な物体で、太古の類人猿に啓示を与え、宇宙飛行士を異次元へと導く。石舞台もモノリスもただの石で、何も語らない。人間が勝手に何かを読み取るのだ。秋思の季節にふさわしい一句ではないか。 (双 19.11.11.)

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手に入れし牛乳瓶に野菊さす   鈴木 好夫

手に入れし牛乳瓶に野菊さす   鈴木 好夫 『おかめはちもく』  散歩の途中に野菊を見つけ、摘んで家に帰ってきた。それを牛乳瓶に挿したというのだ。牛乳瓶の、あの厚ぼったいガラス瓶の形がまず目に浮かんで来る。瓶の胴に牛乳メーカーの名らしきものが浮いているが、はっきりと読めない。おや、と思う。薄紫の野の花によって、野暮ったい牛乳瓶に花瓶としての存在感が生れてきたではないか。  「牛乳瓶」がとても利いている句である。野の花を、特に野菊を挿して似合うのは牛乳瓶を措いて他にない、とまで感じ入った。ところが、句を見直すうちに「手に入れし」が気になってきた。どこかで貰って来たのか。古道具屋で売っているとも思えない。そんな由来などを考えさせるのは、この句にはマイナスだと思う。  とりあえず別の語を・・・と考えるうちに「とりあえず牛乳瓶に~」が浮かんだが、イマイチか。ふと世界最短詩などとされる「陽へ病む」(大橋裸木)を思い出した。これに倣って「牛乳瓶に野菊」はどうか。伝統的な形式を守る句会に出すようなものではない。しかし俳句の本質を考えるための何かを含んだ句と言えるかも知れない。 (恂 19.11.10.)

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