シベリアといふ菓子食めば冬三日月 嵐田双歩

シベリアといふ菓子食めば冬三日月 嵐田双歩 『この一句』  シベリアという名のカステラもどきの菓子がある。昔から人気で今も全国の菓子屋で作り続けられている。愛好者が少なからずいるようだ。さしずめ作者はその一人に違いない。シベリアは羊羹や餡子をカステラようのもので挟んでサンドイッチ菓子にしたものだ。名前の由来は諸説あり、羊羹・餡子をシベリア凍土に見立てた、日露戦争当時に考案されたから、あるいは断面がシベリア鉄道の線路を表すからなどがあり定説はないという。  作者はいま俳句会への投句をあれこれ考えながら、シベリア菓子を食べている。「いいね、この小道具」とでも思ったのか。それにしても、地名でありながら「シベリア」という言葉には抜きがたいイメージがある。じつにユニークな菓子が俳句になった。「冬三日月」の措辞と重なって、シベリア抑留日本兵の幾万の憤死が脳裏に浮かんで来た。凍てつくツンドラの地の過酷さを甘い菓子の味わいで包みながら、塩辛い冬の句に仕立てたと思う。シベリアに代わる厳冬を表すにふさわしい菓子はないかとちょっと考えてみたが、思いつかない。手練れの一句としていただいた。 (葉 21.01.06.)

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カレンダーがドアノブにそっと年の暮 大平睦子

カレンダーがドアノブにそっと年の暮 大平睦子 『この一句』  外出から戻ると、玄関のドアノブにカレンダーの入った袋が吊り下げられていた。知り合いのナントカさんに違いない。毎年、趣味の良いカレンダーを届けてくれるのだ。留守をして悪い事したなあ、それにしても来るのなら電話の一本もくれればいいのに・・。でもそこがあの人らしい。お互いに暮の忙しい時に、カレンダー一本のことで電話するなんて、出来ない、というのだろう。  ちょっとした出来事を切り取って、「年の暮」の雰囲気を表した、とてもいい句である。日常生活の些事をすっと提示して、そのまま俳句になっている。この句は「・・が、・・に」という散文口調がかえって味を出している。  与謝蕪村(1716〜1783)に「鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門」という句があるのを思い出した。仲良しの釣り好きの友人が、釣った鮎を届けてくれた。「ちょっとお寄りよ」と言うのを「もう夜分だから」と門口であっさり帰って行ったというのである。  「君子の交わりは淡きこと水のごとく、小人の交わりは甘きこと醴(れい=甘酒)のごとし」(莊子)という至言がある。蕪村の念頭にはこの「淡交」の二文字が浮かんだものと見える。このカレンダーの句にもそうした気分が感じられて面白い。 (水 21.01.05.)

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賽銭の多寡気にしつつ初詣   山口 斗詩子

賽銭の多寡気にしつつ初詣   山口 斗詩子 『この一句』  七福神詣の吟行句として詠まれた句である。七ヶ所もお詣りをするので、最低でも七回は賽銭をお供えするわけだが、通常はもっと回数が多くなる。本殿の他にも、境内にはたくさんの祠があり、それぞれに百円を供えると結構な金額になってしまう。それを避けるため、日頃十円玉を貯めておいて、袋に詰めて持参する人がいる。また、場合によって百円と十円を使い分けている人もいる。本殿には百円、小さな祠には十円というような使い分けである。ところが、これもなかなかうまく行かない。例えば、山手七福神の場合、恵比寿神は目黒不動尊(瀧泉寺)の三福堂という祠に祀られている。本堂のお不動様に百円を供え、七福神詣の本来の対象である恵比寿様に十円では本末転倒ではないかと、ふと思ったりする。そんなこんなで思い悩んでいると、そもそも賽銭の多寡に何の意味があるのか、と開き直ってみたくもなる。この句を読んで、作者の心のうちをそんなふうに想像してみた。けっこう面白くて、身につまされる句である。  七福神詣をしていて、他にも困ったことがある。ここはお寺か、神社かという問題である。お寺なら合掌して祈り、神社なら拍手を打つということになるが、それがよくわからない場所も多い。七福神と「神」を名乗るのだから、そこは「神の社」であるはずだが、実際にはお寺にお詣りするケースが多い。薩長政府の神仏分離によって、それでなくてもややこしいものが一層ややこしくなった名残りだろうか。  とはいえ、神仏を…

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図らずも獅子に食はれて貰ひ福  金田 青水

図らずも獅子に食はれて貰ひ福  金田 青水 『季のことば』  獅子舞は正月や祭りの日によく見かける民族芸能である。新年に家々を訪れて厄を払う門付けの一種として江戸時代から広まったため、新年の季語とされる。獅子が子供らの頭を噛むのは、邪気を食べることで病気や災いから守るためと言う。 掲句は初詣客でにぎわう神社か商店街での光景であろう。遠巻きに見物していた作者の頭を、思いがけず獅子が噛んでくれた。「図らずも」の上五に軽い驚きを込め、「貰ひ福」の下五で意外な幸運を授かった喜びを表現している。正月らしい雰囲気と心の弾みが伝わってくる句である。 年末のテレビ番組で横浜中華街の獅子舞が取り上げられていた。二人組で舞う中国の獅子は、ダイナミックな動きで人気があり、催しに欠かせない。しかしコロナ禍で活動休止を余儀なくされ、客足の激減した中華街も元気をなくしているという。番組はこの苦境を乗り越え、正月に間に合うよう練習を再開した獅子舞チームを描いており、心に残った。 昨年は世界中の人々が、思いもよらぬ新型コロナの災厄に見舞われ、苦しんだ。今年の初詣は年越し詣りの中止や分散参拝で、人出は例年を大幅に下回る。そんな状況だからこそ、年の初めに幸せを祈る気持ちは切実だ。今年こそはみんなが獅子から福を貰い、明るい一年となるよう願わずにはいられない。 (迷 21.01.03.)

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ちんまりと猫も正座の淑気かな  大澤 水牛

ちんまりと猫も正座の淑気かな  大澤 水牛 『この一句』  実に楽しい、笑いを誘われる、心の温もる一句である。「ちんまりと」という描写に、何がかと覗けば「猫も正座」と来た。この意外なものに「それがどうした」と目を遣ると「淑気」という襟を正させる言葉が登場した。柔らかな「ちんまり」と硬い「淑気」という単語の組み合わせと俳味溢れる展開には「参った」と兜を脱ぐほかない。  この一句には、なごやかな雰囲気となだらかな口調に引き込まれる。その要因は多分、「猫も正座の淑気」の「の」の働きにあるように思う。この「の」を「や」として下五を「淑気満つ」などとすることも可能だが、そうすると「正座」と「淑気」が対峙してしまう。かといって「に」にすれば説明的過ぎる。やはり「の」が絶妙なのだ。 猫が「淑気」を帯びている、あるいは発しているというのだから、とにかく目出度い。 ところで、犬は従順で人になつくが猫は我儘で人になつかない、とよく言われる。本当だろうか。この猫が雄か雌かも気に懸かる。あと一カ月ほどで立春、猫の恋の季節である。乙に澄ましていた猫も、追い・追われの渦中に飛び込むのだろう。 (光 21.1.2.)

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年ごとに家族の増えて福笑い   高井 百子

年ごとに家族の増えて福笑い   高井 百子 『季のことば』  お正月になったら、男の子は凧揚や独楽を、女の子は鞠や追羽子をついて遊びましょう、という童謡がある。子供のころは正月が待ち遠しくて「もういくつ寝ると」と指折り数えていたのを思い出す。正月の伝統的な遊戯としては、ほかに福笑、歌留多、双六などの屋内での遊びがある。凧揚だけは春の季語だが、いずれの遊びも新年の季語となっている。そういえば、昔の雑誌の新年号には必ず福笑や双六が付録についていた記憶がある。一方、ゲーム全盛の現代は幼児から大人までがスマホや携帯ゲーム機に熱中し、伝統的な遊びとは無縁。おそらく福笑なんか知らない子の方がが多いのではないだろうか。  しかし、作者の家庭はそうでもないようだ。我が子に嫁や婿を迎え、やがて孫が出来て年々家族が増えていく。正月には、一族郎党打ち揃い賑やかこの上ない。そうだ、福笑をしよう。大事にしまっていた福笑セットを取り出すと、孫たちは興味津々。「ばぁばがやってみせるから」と目隠しをして、のっぺらぼうのお多福に目鼻を置く。目隠しを取ると、とんでもない変顔のお多福ができ、一同大笑い。福々しい笑いに包まれた理想的な大家族が浮かぶ。誠にお正月に相応しいお目出度い一句である。 (双 21.1.1.)

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夜回りに女の声のまざりけり   鈴木 雀九

夜回りに女の声のまざりけり   鈴木 雀九 『この一句』  「火の用心」を唱えながら拍子木を打って、何人かのグループで町内を巡回する夜回り。かつてどこの町内でもやっていた冬の行事だが、今でもやっているところがあるのだろうか。 その夜回りの声がすると思ったら、なかに女性の声がまじっている。「あれ!女の声だ」と思う。ただ、それだけのことを詠んだ句である。一読して男性の句だとわかる。  昔の夜回りは男ばかりだった。女性が動員されるのは、茶菓の用意など詰所での役割が主で、女性が外回りをすることは滅多になかった。それが、当節では女性も夜回りに出る。何も不思議な話ではない。でも、この作者は「あれ!女の声だ」と少し驚いたのである。おそらく女性特有の少し甲高い声だったのだろう。いったい、どんな女性だろう?声は聞こえても、作者にもその姿は見えない。あれこれ想像、あるいは妄想しただろうか。いずれにせよ、女性の声が聞こえるのはちょっといい気分。それが読み手にも伝わって来る。  筆者は合評会で、この句の下に「万太郎」と書いてあれば、「やっぱり、万太郎の句はいいな」と言ってしまいそうな句だと評した。思わず口を突いてしまったのだが、言い過ぎたとは思わない。「女の声のまざりけり」の措辞は、くどくど説明することなく、切字の「けり」が効果的に使われている。なんとも言えぬ艶があり、読後に余韻のある句である。 (可 20.12.31.)

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師走来る嗚呼嗚呼嗚呼と鴉鳴く  久保田 操

師走来る嗚呼嗚呼嗚呼と鴉鳴く  久保田 操 『この一句』  12月に入ると新聞などに十大ニュースが掲載される。社会部長が選ぶ十大ニュースというのもある。年の終りに一年を振り返るのは人の常で、家族で「わが家の十大ニュース」を考えてみるのも面白い。ただ今年について言えば、あらゆる国、機関、家庭のトップニュースは「コロナ禍で暮らし一変」であろう。  掲句はこの一年の感慨を「嗚呼嗚呼嗚呼」という鴉の鳴き声で象徴させる。中国武漢での発症に始まり、クルーズ船騒動、緊急事態宣言、マスク不足、GoToトラベル、第二波・第三波の襲来と、走馬灯のようにニュースが浮かんでくる。政府の後手後手の対応もあり、コロナ籠りを強いられたまま年が暮れようとしている。まさに嘆き、怒り、諦めの一年である。  「嗚呼嗚呼嗚呼」の表現からは、そんな万人共通の思いが読み取れ、句会でも高点を得た。もちろん作者・読者の感慨はコロナに限らないかも知れない。しかしコロナの年だからこそ、鴉の鳴き声がいつも以上に心に刺さってくる。 作者の弁によれば「一年に対する嘆きの思い。私の頭の上で鳴いて語りかけた鴉なので、実景を詠んだ」という。「カーカー」という鳴き声を「嗚呼嗚呼」という漢字に置き換え、しかもそれを三回繰り返すセンスは、ジャーリスト精神そのものではなかろうか。 (迷 20.12.30.)

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回転にひねりを入れて柿落葉   玉田春陽子

回転にひねりを入れて柿落葉   玉田春陽子 『季のことば』  柿の葉は意外に大きなものだ。手のひらサイズが普通で、柿の種類によっては草鞋大のものもある。散る時期になった葉の色と模様が素晴らしい。手に取るとまるで錦のような模様に見える。葉の形状は平らのようで複雑である。全体的に裏から表へと僅かに反り返っているが、それぞれに特定の凹凸があって一様ではない。  そんな葉がふと枝を離れる。風のない時はまさに「ひらひら」だが、曲面の形状によって、その葉なりの動きがあるようだ。地面に近くなると僅かな空気にも乱れがおこるのだろうか。一瞬、それまでと違う動きを見せて着地する。句はそれを「回転にひねりを入れて」と表現した。「上手く詠むもんだなぁ」と感心する。  まず思い浮かぶのが、体操競技の最後の着地だろう。選手の体がゴム毬のように弾み、くるくると回りながら、ひねりを入れたりして着地する。柿の落葉は空気圧と僅かな風に身を任せ、一葉がどの一葉とも違う動きをするのだ。直木賞作家・山本文緒さんの近作「自転しながら公転する」のタイトルそのものでもある。 (恂 20.12.29.)

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売り言葉買ってぶらぶら冬桜   中嶋 阿猿

売り言葉買ってぶらぶら冬桜   中嶋 阿猿 『この一句』  「売り言葉を買った以上は対決しなきゃいけないのに、ぶらぶらしていて度胸もない。可哀そうなおじさんだと、同情から採りました」とは三薬さんの選評。一方、鷹洋さんは、「買った以上、闘わなければならないのに、何だかはぐらかされたので採らなかった」という。  「売り言葉に買い言葉」の後は、激しくやり合うバトルが始まるのが通り相場。身近な例では、夫婦喧嘩だ。ささいな口喧嘩がエスカレートして、のっぴきならない所まで行き着く。誰しも思い当たる節はあるのではないか。しかし、この句の場合は「買ってぶらぶら」と何事も起こっていないようだ。そのはぐらかしを面白いと思うかどうかで評価が分かれた。  筆者は展開の妙が気にいって採ったが、「買って」と「ぶらぶら」の間に省略があるのではないかという気がしてきた。職場か家庭で売り言葉を買ってしまい、つい口喧嘩になった。ささくれ立った気分のまま公園か神社辺りをぶらついていたら、思いがけず冬桜に出会い、なんとなく荒んだ気持ちが和んできた。冬桜はソメイヨシノと違って派手さはないが、ものみな枯れる寒い季節にそこだけぽっと灯を点したような風情があって、見つけると何だか得したような気分になる。そう考えると冬桜の季語が生きてくる一句で、句会で高点を得たのも頷ける。 (双 20.12.28.)

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