猫じゃらし五分刈り頭陽に透けて 谷川 水馬

猫じゃらし五分刈り頭陽に透けて 谷川 水馬 『この一句』  句を見たとたん「そうなんだ、陽に透けて光るね」と可笑しくなり、やがてほろ苦い思いが湧いてきた。野原には猫じゃらしがはびこり、夏の暑さが去っていく頃。私たち、悪童どもの相撲の季節となり、私の思いはクリクリに刈り上げた一人の頭に繋がっていく。彼は小柄だが、なかなかしぶとく、立ち上がるとすぐ、私の胸に頭を付けてくるのだ。  上半身裸だから、私の胸の辺りは刈り上げたばかりの、あいつの頭でチクチクと痛い。それをものともせず、彼の体を引き上げながら、胸を合わせ、がっぷりの四つ相撲にしてしまえばこちらのもの――。相撲のライバルだった新聞店の息子の彼は、高校を出てすぐに新聞店を継ぎ、若くして区議会議員になったのだが、五十代で亡くなってしまった。  彼の頭は「五分刈り頭日に透けて」そのものだった。床屋に行き、バリカンで刈り上げた彼の頭は、誰よりも光っていた。原爆の記憶の生々しい頃のこと。小学校五、六年のクラスの悪童たちが、彼に名付けたあだ名が「ピカちゃん」とか「ピカドン」であった。作文の上手かった彼がいま生きていたら、俳句でもやっていたかな、と思うのだ。 (恂 22.09.26.)

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九月蝉少し息つぎ短くて     澤井 二堂

九月蝉少し息つぎ短くて     澤井 二堂 『この一句』  番町喜楽会の兼題「九月」に応じて出された句である。歳時記を見ると、「秋の蝉」あるいは「秋蝉(しゅうせん)」、「残る蝉」といった季語はあるが、「九月蝉」はない。作者の造語と思われるが、秋の蝉でも句として十分成り立つところを、あえて「九月蝉」としたところに作者の思いが込められているように感じた。  蝉は日本に30種ほどが生息しているが、よく目にするのは5、6種である。大半は夏に羽化し一生を終える。俗に羽化から1週間で死ぬといわれるが、最近の研究によると寿命は2、3週間で、中には1か月近く生きる蝉もいるという。それでも夏の初めに地上に現れ、秋の訪れとともに姿を消すことに変わりはない。9月に入ると鳴いている蝉の種類も数もぐっと少なくなる。  作者の住まいは上野の森にほど近い。7月、8月には喧しいほど鳴いていた蝉も、9月の声を聞くとともに減り、森に静けさが戻ってくる。騒がしいアブラゼミやクマゼミは既に生を終え、時折聞こえるのは生き残ったミンミンゼミかツクツクボウシであろう。  作者にはその声が、あまり息つぎをせずに、せわしく鳴いているように聞こえるのである。残る命を惜しむかのように鳴く蝉を「九月蝉」と呼び、作者自身の余生を重ねているのではなかろうか。「息つぎ短くて」という措辞にしみじみとした感慨がにじむ。 (迷 22.09.25.)

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この風はやっぱり九月隅田川    大澤 水牛

この風はやっぱり九月隅田川    大澤 水牛 『この一句』  九月の酔吟会で最高点を取った。一読、平明にして、素直に一気に詠んだ句だと感じた。難しい言葉や言い回しはどこにもない。隣人と世間話をしているような口語体である。筆者もお手本にしたいと思う一句だった。  この句は、清洲橋だか新大橋だかは聞き洩らしたが、句会直前に橋のたもとのベンチに座って昼食のサンドイッチを食べている時に出来たのだと言う。隅田河畔、この日爽やかな風が吹いていた。真夏のむっとした風と違いまことに心地よい。「ああ、やっぱり九月になったなあ」という心情がおのずと湧いてきた。上五中七の素直さ、簡明さはなかなか真似できない。(葉)                ☆  この句に出会い、俳句作品にも刺身のような「活きの良し悪し」がある、と気づいた。句会の会場は、江東区芭蕉記念館の一室。私はその会場の窓から、木の間越しにチラチラと光る隅田川の水面を見ただけで「おお、素晴らしい雰囲気だ」と大満足していた。ところが作者は記念館別館の芭蕉像のある屋上庭園や隅田河畔を歩いた。そして「おお、この風は九月の風」と気づき、掲句を投句予定の一句と取り替え、投句の中に加えたのだ。私も、掲句に“戻りカツオ風”の新鮮さを感じ、一票を投じている。  句会後の「一杯」を腹に収めた帰途、俳句作品における「活きのよさ」について考えた。この句を仮に別の句会に投句したらどうか。句会の時期と天候、状況などに左右されるが、条件にうまく会えば、好成績を収めそう…

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名水をたづねて久留里秋あかね  廣田 可升

名水をたづねて久留里秋あかね  廣田 可升 『この一句』  筆者は福岡出身で、千葉に住んではいるが、現役時代は職場と自宅の往復だけで終わり、地元千葉のことはあまり詳しくない。君津市に久留里という町があるのを知ったのも割と最近のことだ。句友に久留里出身者がいたのと、各地の町を紹介するテレビの情報番組で、久留里特集を観たことなどで認識したに過ぎない。博識の水牛さんによると、「上総を掌握するためのポイントだった久留里周辺は中世から争奪戦が繰り広げられ、太田道灌も攻めた。北条もやって来た。里見氏が山のてっぺんに城を構えて、それが徳川時代にも受け継がれ、今でも観光ポイントとして残っている。山の上なのに井戸を掘ったら水が出たと言われ、名水が出るので良い酒も出来ます」とのこと。  掲句の作者も千葉に住んではいるが、出身は関西。やはり千葉はさほど詳しくないのか、最近は奥さんと連れだって、千葉県内をあちこち探索しているという。なるほど、遠くに行くだけが旅ではない。近くの知らない町をぶらりと訪れるのも乙なものだ。というわけで先日、久留里を訪ねたそうだ。平成の名水百選に選ばれた名水の里として人気があり、遠方から訪れる人も多いとか。復元された久留里城から見た町の眺めが素晴らしかったという。  「訪ねてくるり」の語感が心地よく、作者自身もお気に入り。迷哲さん指摘の「トンボがクルリと秋あかね」の語呂合わせも隠し味に、「久留里」の地名を巧みに詠み込んだ手練れの一句。久留里出身の愉里さんからの得票も折り込み済みだ…

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秋彼岸バイク和尚のフルフェイス  杉山三薬

秋彼岸バイク和尚のフルフェイス  杉山三薬 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 お坊さんのフルフェイスが面白い。顔がすっぽり入る大きなものですよね。 鷹洋 マスクを外してバイクで商売優先。顔にはフルフェイス。それが坊さんだとは・・・。ユーモラスな句ですね。 てる夫 檀家廻りのお坊さんが、きっと法衣を着ているのでしょうけれど、バイクに乗ってフルフェイスをかぶっている。見たことはありませんが、さもありなんという感じです。           *       *       *  フルフェイスとはフルフェイスヘルメットの略称。頭部をすっぽり覆うオートバイ用ヘルメット。自転車やバイクなら普通のヘルメットだが、この坊さんは本格的なオートバイ乗りと見える。乗用車では駐車場探しが面倒だし、檀家が路地の奥だったりすると単車の方が断然いい。  母が元気だった20年ほど前までは我が家にも盆と春秋の彼岸に檀那寺の跡継ぎ若坊主が来てくれていたが、その時、法衣にバイクだったのに仰天した。今ではフルフェイスの本格的ライダー坊主が珍しくない世の中になったか。とにかく、ダダダっとお経を上げに来るというアンバランスが実に愉快だ。 (水 22.09.21.)

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胃カメラを終えてあおぎし鰯雲  須藤 光迷

胃カメラを終えてあおぎし鰯雲  須藤 光迷 『この一句』  胃カメラ、嫌なものの代表である。好きだと言う人はまさかいないだろうが。今は鼻から通す細い撮像チューブもあるらしいが、喉から食道を貫く胃カメラと聞くとぞっとする。筆者は現在に至るまで胃カメラを呑んだ経験がない。なにしろバリュウムを飲むことさえ受け付けないほどの神経過敏症だ。だから人間ドックに行ったことがない。掛かり付けのクリニックで二、三カ月に一度血液検査をして、各種数値をチェックするばかりだ。「手遅れ」という言葉はつねに頭にあるものの、持って生まれた気質はどうしようもない。どうでもいい私事はこの辺でやめておこう。  この句の作者は筆者と同期の入社で同じ職場に配属された。その後の進路は異なるが、俳句会を通じ句友として句会、吟行、連句の座で付き合いが続いている。七十半ばを越えた同期の仲間たちは当然だが一様に持病がある。コロナ禍の今、同期会の開催もなかなかできず二年三年と延び延びになっている。一病を抱える作者は定期的に検診を受けているものと見受ける。鼻からか喉からかは分からないが、やっと胃カメラの苦しい診察が終わった。会計を済ませ病院の外に出るとほっとしたことだろう。空を見上げると折から「鰯雲」。  鰯雲というのはなぜか物悲しい雰囲気がある。小さく分かれた雲の切れ切れが、まとまった考えを拒むような感じがするのだろう。とにかくこの句は鰯雲が役割を果たしている。診断結果も鰯雲が知っていると言っているようだ。 (葉 22.09.20…

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新蕎麦を神と分け合ふ御師の宿  中村 迷哲

新蕎麦を神と分け合ふ御師の宿  中村 迷哲 『この一句』  御師の宿に泊まったことがないので、詠まれていることが具体的にどのようなことなのか定かには知らない。だが、神と食事を分け合うというのは、慣れ親しんでいることのような気がし、ましてや、御師の宿であればさもありなんと思い採った句である。  神様に上げる供物は「神饌」と呼ばれ、それを下げてきて食べることは「神人共食」と呼びならわされて来た。いちばん典型的な行事としては、天皇の即位の時の「大嘗祭」、毎年の収穫の後の「新嘗祭」がある。もっとも八十年前までは、この国では天皇も神とされていたのだから、「神人共食」の例として適当かどうか疑問も残る。いちばん卑近な例では、われわれが七福神吟行をした後の飲み会を「直会」と称することがあるが、あれもその一例だろう。また、我が家で仏壇に上げたご飯を食べるのは、筆者の毎日の役割である。神と仏では少し話が違うようだが、もともとは神仏習合、「神人共食」と同根の習俗だと思っている。  作者によれば、ご自身が大山の御師の宿に泊まられた経験と、戸隠に泊まられた時、蕎麦屋がずらりと並んでいた経験を合体して詠まれた句だという。山里の秋の収穫である「新蕎麦」と「御師の宿」が取合わされ、「神と分け合ふ」の中七が取り持つ、心憎いばかりの配合の句である。 (可 22.09.19.)

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焼き味噌と一合で待つ走り蕎麦  星川 水兎

焼き味噌と一合で待つ走り蕎麦  星川 水兎 『季のことば』  新蕎麦とは俳句の世界では、その年の秋に初めて出回る蕎麦をさす。「秋蕎麦」あるいは「走り蕎麦」ともいい、仲秋から晩秋の季語である。水牛歳時記によれば、蕎麦はふつう初夏に種を蒔き11月に入ってから収穫する。だから「蕎麦の花」は秋の季語で、「蕎麦刈」や「蕎麦干す」は冬の季語である。ところが初物好きの江戸っ子が、新蕎麦を待ちわびたため、栽培時期や乾燥方法を工夫して9月、10月に蕎麦屋で供するようになったという。ほかの季語とずれて「新蕎麦」が秋の季語となった所以である。  掲句は秋が深まり、蕎麦屋の一角で新蕎麦を待つ人物を、季節感豊かに詠んでいる。卓上には一合徳利と猪口、それにしゃもじに盛った焼き味噌がある。「一合で待つ」が絶妙な表現で、酒は少量にとどめ、新蕎麦が茹で上がるのを待ちかねていることが分かる。これが二合、三合では蕎麦が伸びてしまう。下五に「走り蕎麦」を置くことによって、青みの残る香り高い新蕎麦のイメージと余韻が広がる。酒好き、蕎麦好きの多い番町喜楽会で最高点を得たのもうなずける。  同じ句会の兼題句に「酒かけて食べる志ん生走り蕎麦」があった。落語家の古今亭志ん生は酒が大好きで、蕎麦屋で飲んだ時は猪口に残った酒を伸びた蕎麦にかけて食べたという逸話を詠んだものだろう。実はこの句の作者も水兎さん。新蕎麦を詠んだ二句とも酒が蕎麦を引き立てている。酒好きの作者の面目躍如である。 (迷 22.09.18.)

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日時計の影に気付きし九月かな  今泉 而云

日時計の影に気付きし九月かな  今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 いいところに目を付けましたね。確かに九月は影が伸びてきますよね。そんなところに気が付いたところがすごいなぁと思いました。 双歩 少し涼しくなった九月は、日時計に目をやる余裕が出て来たのでしょう。九月らしい句です。 愉里 八月より、影がやわらいで見えたのでしょうね。そんなところに惹かれました。 迷哲 九月は、残暑がぶり返したり安定しない日が続くものですが、この人は陽が傾くことに秋を発見したのですね。その気づきを評価しました。 光迷 やっと九月になって朝顔が咲き、散歩にも少しずつ出られるようになりました。作者もどこかの日時計に秋を発見したのでしょう。           *       *       *  名句には発見がある。ある俳人は「俳句に盛り込む発見とは、珍しい事柄ではなく、むしろ、見慣れ聞き慣れているものが示す新鮮な断面の発見である」という。掲句も正にそうだ。真夏は太陽が真上にあり、日時計の影も短く気にも留めなかったが、九月に入って、ふと影の存在に気付いた、という繊細な感覚がもたらした発見が魅力的。  付け加えれば、「○○を発見した」とか「○○に気づいた」などと詠むことは少なく、発見内容を具体的な描写など別の表現で示すことが多いと思うが、「影そのものに気付いた」とストレートに詠んだ例は少ないのではないか。そういう意味でも記憶に残る一句だ。 (双 22.09.16.)

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石磨き石に磨かれ秋の水    玉田 春陽子

石磨き石に磨かれ秋の水    玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 双歩 こういうレトリックの俳句は多いとは思うのですが、石が水に磨かれていると感じる作者の感性。「うまい句」です。 青水 確かに、うまいですね。それと「秋の水」という季語へ持っていく措辞の技巧的で上手な描写に、気持が動きました。 てる夫 湧水が山の水路を通るうちに「磨き磨かれ」というのですね。どういう水路を通るかによって磨かれ方が違うのでしょう。 反平 澄み切った秋の空の爽やかさと、水の透明さが浮かびます。           *       *       *  季節は違うけれど、「石走る垂水の上のさわらびの・・・」の歌を思い出した。「石に磨かれる水」というのがいい。磨かれ方によって軟度も味も変わってくるのだろう。合評会では「むしろ冬の尖った感じがする」「いや、夏じゃないのか、強い流れの」という感想もあったが、石に磨かれる水は一も二もなく「秋」の清流である。  それよりもどきりとしたのは「僕はなんだか教訓的な句だと思うのですよ」(而云)という意見だった。実は私もこの句を選びながら、切磋琢磨とか金剛石も磨かずばとか、あれこれの教訓句が脳裏を過ぎった。しかし、この勢いのいい詠み方に惹かれて採った。「俳句は気合」というところもある。 (水 22.09.15.)

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