雑炊で締めるつもりが呑み直し  中沢 豆乳

雑炊で締めるつもりが呑み直し  中沢 豆乳 『合評会から』(日経俳句会) 愉里 雑炊まで来て幸せだったという気持があり、またさらに盛り上がりたいというところが出ていて、良いかなあと思いました。 双歩 外でやる時は雑炊まで来たら呑み直せないけど、自宅ではこういうことは平気で出来る。あるいはもう一軒、行ったのかもしれない。いったん締めたがもっと吞みたくて。 てる夫 今や呑み直しどころか酒を絶っているので・・、呑み直しをしてみたいです(笑)。 静舟 よくありました。昔のオヤジは皆そうでした。断われへん! 操 雑炊の美味しさ、呑み助は後を引く。 ヲブラダ はい。まだまだいけます。暖かい友との語らい。           *       *       *  酒呑の生態をそのまま詠んでいる。宴会で前菜から刺身、煮物など次々に出てきて、「鍋」が仕立てられ、それも終われば、残菜が掬い取られ、ご飯が入れられて雑炊となって「お開き」となる。これで素直に散会すればいいのだが、そうは行かないのが呑ん兵衛だ。表に出て夜風に吹かれた途端、「もう一丁」となる。「これだからお酒飲みは嫌っ」とお堅いご婦人方にはそっぽを向かれる。しかし、近頃は「さあ二次会よ」と誘うご婦人方が結構増えてきたのが楽しい。 (水 25.02.25.)

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雑炊となればでしゃばる男あり 高橋ヲブラダ

雑炊となればでしゃばる男あり 高橋ヲブラダ 『この一句』  そうそう、こういう男いるよなあ、と膝を打った。正直言えば私自身もこういう風になりがちな癖の持主で、何か事あるごとに要らざる言葉を吐いて座を白けさせたりしてしまう。そこで、宴席では三分ごとに腿をつねって余計なことを言わないようにしているのだが、盃を重ねるうちに地金が出て、「この刺身はなかなかいいが、切り方がもう一つだな」などと言い出したりして嫌われる。  鍋物ともなればまさに百家争鳴である。鍋物にはいろいろあり、その土地によって特色のある鍋料理がある。家によっても作り方が異なる。そして、みんな、自分の作るものが一番だと思い込んでおり、譲らない。それはそれで微笑ましく、結構なのだが、困るのは他の人のやり方を認めない偏屈頑固な輩だ。その男の作る鍋がまずまず食べられるものならいいのだが、時には味付けが極端でどうにもならないことがある。こんなのにぶつかったら悲劇と言うより仕方がない。  この句は鍋が終幕となっての雑炊段階である。この段になってまで、とやかく言い出す男がいるというのが面白い。同じ句会に「蘊蓄も講釈も添へ河豚雑炊」(双歩)という句が出たところをみると、こういう男が一人や二人ではないことがわかる。とにかく、天下太平である。 (水 25.02.23.)

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見廻りの猫またぎゆくクロッカス 金田 青水

見廻りの猫またぎゆくクロッカス 金田 青水 『この一句』  クロッカスは名前は知っているが、意外に見ることの少ない花である。開花期が春先に限られることや、丈が低く目に入りにくいことが要因であろうか。しかし春の訪れを告げるかのように、庭の隅で色とりどりの小さな花を咲かせる姿は可憐である。「青春の喜び」や「切望」という花言葉がよく似合っている。地中海地方が原産のアヤメ科の球根植物で、水耕栽培にも適している。2月の番町喜楽会の兼題に寄せられた句を見ると、庭に咲いた花や窓辺の鉢、あるいは教室のクロッカスを詠んだものが半数ほどあった。  その中で掲句は見廻りの猫を取合せて、意表を突く。多くの草花が枯れて色を失った庭の隅に、クロッカスがぽつぽつと咲き、春到来を感じさせる。ところが縄張りの見廻りに通りかかった猫は、「我関せず」とばかりまたぎ越して行く。その無関心ぶりに何とも言えぬ可笑しみ、俳諧味がある。可憐なクロッカスと無関心な猫の遭遇を、「またぎゆく」という動詞ひとつで鮮やかに描いて見せた作者の手腕に感心した。  クロッカスの兼題句で最高点を得たが、採った人は猫好きが多かった。「花を見もせずに上手にまたいでいく猫の景がぱっと浮かびました。猫をよくわかっている方の句ですね。ユーモラスで好きです 満智」という句評がそれを代表としている。  ところでこの猫はどんな色だったのだろう。白猫の方がクロッカスの色が映えるように思えるが、意外に黒猫だったかも知れない。そんな連想もまた楽しい。 (迷 25.…

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春立つやなにやら動く池の中   嵐田 双歩

春立つやなにやら動く池の中   嵐田 双歩 『季のことば』  「春立つ」とは二十四節気の『立春』を和訓でやさしく言ったものである。寒が明けたばかりのこの頃は寒さが最も厳しい頃合いである。しかし、「暦の上ではもう春なのだ」と無理して、やや粋がって春を感じ取ろうとする気負いがある。「立春」という季語にはそうしたところがある。ところがそれを「春立つ」と大和言葉で言うと、不思議と暖かくなる。  音読みはどうしても硬い感じを与え、訓読みや我が国古来の大和言葉にすると柔らかい感じになる。年季の入った俳句詠みはそうした点をよく心得ていて、両者を上手に使い分ける。  温度計はまだまだ冬の気温を示しているが、自然界の動植物は早くも動き始めている。散歩の道すがら、路傍にはイヌフグリが空色の花を付け、踊子草が赤紫の可憐な花を咲かせている。枯木だってよく見ると、ぽちっと小さな粒と、それより少し大きな粒を膨らませている。小さな方はやがて葉になり、大きな方は花を咲かせる芽である。  池の水はよく澄んでいて、蓮や睡蓮、その他もろもろの水草の芽はまだ見えないが、水底の泥がちょっと動いた。気の早い水棲昆虫が目をさましたのか。それともこちらの目の錯覚か。とにかく、もう春なのだ。そうした微妙な季節の移ろいをきちっと詠み止めた一句である。 (水 25.02.19.)

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「みんなの俳句」来訪者が26万人を超えました

「みんなの俳句」来訪者が26万人を超えました  俳句振興NPO法人双牛舎が2008年(平成20年)1月1日に発信開始したブログ「みんなの俳句」への累計来訪者が、令和7年2月16日に26万人を越えました。この盛況は一重にご愛読下さる皆様のお蔭と深く感謝いたします。  ブログ「みんなの俳句」はNPO双牛舎参加句会の日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の会員諸兄姉の作品を取り上げ、「みんなの俳句委員会」の幹事がコメントを付して掲載しています。  このブログのスタート当初は一日の来訪者が10人台でしたが、最近は一日平均150人を超えるようにになっています。「みんなの俳句」への累計来訪者は発信開始後11年弱かかって10万人となり、それから5年後の令和5年9月に20万人、その1年3ヶ月後の令和6年12月に25万人になりました。それから僅か二ヶ月後に26万人に到達、最近のこのブログへの注目度が高まっている現れと幹事一同大いに励まされております。これからも力を尽くしてこのブログを盛り立てて参る所存です。どうぞ引き続きご愛読のほどお願いいたします。      2025年(令和7年)2月18日 「みんなの俳句」幹事一同

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バレンタイン婆もときめきチョコ用意 山口斗詩子

バレンタイン婆もときめきチョコ用意 山口斗詩子 『季のことば』  「バレンタイン」は比較的新しい季語。二月の番喜会にはこのほかにも「スカイツリー」「トランプトリック」「キャリーバッグ」など長いカタカナ語が出てきた。句を現代風にと思えばカタカナ語の使用が避けられない側面もある。「インフル」「コロナ」などはそのまま日本語になっているし、カタカナで書く以外に道はない。ただ、古来の動物名、植物名は漢字でというのが、筆者が勝手に守っている作法。これも時代とともに変わっていくのだろうがカタカナの乱用は避けたいと思う。句評から横道にそれてしまった。  1960年代から流行り始めたバレンタインデーも下火になった。職場に合理主義が浸透したことや、カカオ豆の不作によりチョコレートの値段がバカ高くなったせいだ。一粒数百円もするチョコは、ほんとうに大事と思われている人の口にしか入らない。  作者のご亭主はすでに亡くなって久しい。それでもこの時季になると、亡き人にチョコをあげたいと思うのだろう。仏前に供えるため店へ走る姿が浮かぶ。老婦人の浮き浮き感が表現されている。「ときめき」という、昔の女学生のようなことばを使っているのも効果的だ。これがほのぼのとする雰囲気を醸し出している。いつまで経っても「あなたは恋人よ」という艶やかさを感じさせる。  バレンタインなどのカタカナ語を使えば勢い字数が多くなるのはしかたない。ぜんたい字数の多くなった句ではあるが、「上六」をご愛嬌とすればちゃんと十七音におさまっていて煩雑…

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立春大吉婆の読経はまだ続く   大澤 水牛

立春大吉婆の読経はまだ続く   大澤 水牛 『季のことば』  旧暦の立春は正月、つまり一年の始まりだった。その目出たい日に、「立春大吉」と書いた札を玄関などに貼り、一年間の厄除けと招福を願う習慣がある。実際に立春大吉札を貼ってあるのを見たことはないが、あちこちの寺社や通販大手のアマゾンでもお札が手に入る。自筆の札でも良いらしい。縦書の「立春大吉」は左右対称なので、例えば、札が貼られたガラス戸から侵入した鬼が、ふり返ると裏から見た立春大吉札が目に入り、自分はまだ外にいるんだと錯覚して玄関から出て行く、というユニークな言い伝えもある。  掲句の「婆」は作者の母。99歳で亡くなるまで矍鑠としていたという。毎朝、仏壇の前でお経を唱えていたそうだ。今日は立春。立春大吉札が貼られた家では、いつもと変わらぬ母の読経の声が部屋に満ちる。何とも立春らしい穏やかな光景だ。  この句は875の破調だが、声に出して読んでみてもまったく気にならない、というかむしろリズムが良い。「575でないものは俳句ではない」と言いきった高浜虚子に、「凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり」という上5が13音の句がある。その虚子句について三村純也という俳人は「575を踏まえての字余りは、実際には圧縮される。乱暴な言い方をすれば、早く読めばいいのだ」という。掲句は「立春大吉」で大きく切って、ややあって「婆の読経は…」と読み下せば、余韻が長く続く。破調ではあるが、長年の作句生活で575が身体に染みこんだ作者にしか出来ない芸だと思…

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いつの間に少年の顔寒稽古    廣田 可升

いつの間に少年の顔寒稽古    廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 空手や剣道の教室に通う子供たちとよくすれ違います。「あれっ、あの子、随分大人っぽくなったな。顔も精悍になって」と思うことがままあります。 迷哲  口元を結び、真剣な表情で寒稽古に取り組む子供。「いつの間に」の上五に親の驚きと喜びが滲みます。 斗詩子 まだ幼顔の子供が、暑さ寒さの中を必死な形相でその道に励む姿は頼もしく見えますね。ある日、こんなに大きくなったのだと成長した顔付にはっとすることも。 可升(作者) 孫の事です。空手をやってるんですが、形を構えたりするとき、はっとするような表情を見せる。久々にみると少年らしい顔付になっていてびっくりしました。           *       *       *  「親が無くても子は育つ」ともいわれるが、子供の成長は真に速い。「ちょっと見ない中に」の成長ぶりに驚かされることも多い。普段、顔を合わせることの少ない孫となれば、なおさらだろう。最近は、マラソンなどの「朝練」には出合うが、柔道や剣道の「寒稽古」は珍しくなった気がする。それはともかく、成長の歓びを、顔付に託す形でまとめている作り方に好感が持てた。 (光 25.02.13.)

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酒断ちて丸一年よ初不動     堤 てる夫

酒断ちて丸一年よ初不動     堤 てる夫 『この一句』  作者はある日禁酒を思い立ったのだろう。持病を抱える句会の長老だから、健康を気にした固い決意のもとか、あるいはちょっとした思い付きだったのかも。とにかく禁酒の毎日が始まった。  元来酒豪で、連れ添う人もまた酒を愛する人だ。句友らとの付き合い酒も多いから、いつまで続くのか自身半信半疑だったのかもしれない。それが、気が付いたら丸々一年経っていた。自分の意志堅固に驚いたのかどうか。その間の心情が「丸一年よ」の「よ」に表れている。同じく感嘆を表現する場合の「や」ではなく「よ」となったのだろう。  そもそも禁酒と禁煙はどちらが難しいのか、議論のあるところだ。禁煙の方がより困難というのがどうも優勢のようだが、「禁煙はいつでもできる。実行しては喫煙再開を繰り返せるから」というインチキ話もある。本来は「断酒、断煙」と言うべきだろう。患者に禁酒を宣告するのは医者の常。しかし宣告を固く守れる人は少ない。よほどの重病でないかぎり、適当な言訳をしては飲んでしまう。深酒だけ避ければ健康に良いし、二日酔いもなく酒席での失敗もない。缶ビール一個、ぐい呑み一杯くらいはいいだろうと自己弁護してしまえば真の禁酒とは言えない。  きっぱりと一滴も飲まない断酒を貫いた作者には賛辞を送るべきだ。「初不動」の不動明王は「揺るぎない守護者」の意味があるとか。これは新年にあたり改めて断酒を誓った句だと思える。 (葉 25.02.11.)

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初春の移住あいさつ二人半    岡田 鷹洋

初春の移住あいさつ二人半    岡田 鷹洋 『合評会から』(日経俳句会) 三薬 うまいとこ見てるなと思った。一人は身ごもっていて、そうすると二人半。二人半がとにかく上手い表現。 青水 ボクの住んでいるところも古い住人が出て行って、代わりに分割した敷地に若い夫婦が引っ越してきます。お腹の大きい奥さんも目立ちます。時事句として秀逸。 迷哲 移住してくる人がちっちゃな子どもを連れていたとも読める。どっちにしても人が増える予想と新春の漢字がうまく合って、めでたい感じなので、頂きました。 方円 若夫婦がチビを連れて、あいさつに来たのでしょう。新生活への緊張と夢を持って、そのはつらつさが伝わります。 芳之 なるほど、こういう言い方があるのかと勉強になりました。           *       *       *  いまどきそういう表記があるのかどうか分からないが、昔は「中人」という表記をする銭湯や芝居小屋があった。また、飯屋の品書に小丼で出すのを「半人前」と書いてあったりした。といったことからすると、この句は若夫婦が幼い子を連れての隣近所への挨拶回りということになる。それに対して、この句は「ご亭主がお腹の大きくなった愛妻を帯同しての引越し挨拶だ」と解釈した人もいる。  どちらともとれる。ただ、幼児を連れての挨拶回りだとごくフツーの情景となる。やはり、この「半」はまだ若奥さんの腹中にあると見た方が、微笑ましく、希望の膨らむ初春風景にふさわしいように思う。 (水 25.02.09.…

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