しくじりし日々の記憶やおでん喰ふ 廣上正市

しくじりし日々の記憶やおでん喰ふ 廣上正市 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 若い日への追憶か。おでんを食べてほっとした気持ちが伝わります。 迷哲 おでんは昔を思い出すよすがとなる。苦い記憶がおでんらしい。 水牛 おでんはいろんな物が入っていて、連想を呼ぶからか、あれこれ思い出す。しみじみ振り返っている感じが、おでん酒にぴったり。 青水 苦い記憶とおでんを取り合わせて成功している。 百子 おでんは母の味であり、記憶を呼び起こすのですね。 ヲブラダ もちろんこれは一人酒でしょう。鮨でも洋食でもしくじりの振り返りはできません。 卓也 置き忘れていた古傷を呼び覚ます感覚。 早苗 おいしいもので忘れられるとは、ありがたいと改めて思いました。 木葉 誰にも数えきれないほどある失敗の経験。おでんを食べながら一つひとつが脳裏を駆け巡る。 枕流 おでん鍋を前にすると、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思い出がよみがえるのは何故でしょう。           *       *       *  句会で最高点の句だが、反対意見もだいぶあった。「涙、しんみり気分が気に入らない」「喰ふが気に入らない。おでん酒でいい」「日々というのが嫌」 「おでんにしくじりとか寂しい思いなんて、全くそぐわない」等々、いずれも納得できる。それにしても「おでん」人気は根強いなあと思う。 (水 23.12.10.)

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只今の声より先に北の風     田中 白山

只今の声より先に北の風     田中 白山 『季のことば』  異常に気温の高かった十一月が終わり、十二月の声を聞くとやはり季節は正直である。  急に冷え込むようになって、朝晩の寒さはことに身に沁みる。〝亜熱帯日本〟にもまだ冬はあったのだと、少し安堵する。紅葉の見ごろが例年より一週間か十日ばかり繰り下がったため、この秋は各所で紅葉狩りの混雑が続いた。テレビなどで見る限りインバウンド客が主役をつとめ、京都・嵐山や清水寺は芋を洗うような雑踏だった。  ようやく北風が吹くようになってきた。東北や北海道では一気に真冬になり、すでにかなりの積雪を記録した。ホワイトアウトといわれる、二十メートル先が見えない吹雪も起きている。ちょうど良いという「ほどのよさ」がなかなかないのが自然である。  この句は冬の到来を人声と体感で表し、なるほどと納得させる。家族の誰かが帰宅したのかピーンポーンとインタホンが鳴った。作者はドアを開けに玄関先に出なければいけない。暖かい居間から出て、いそいそとドアの取っ手を押すと、瞬間的に冷たい北風が身体を吹き抜ける。ちょっと遅れて「ただいま」の声。聴覚に先んじる体感を詠んで面白い。この場面は、たとえば秋に玄関を開けると同時に、金木犀の香が入って来る感覚にも似ているが、北風の冷感はマイナスの皮膚感覚であるせいか、よりインパクトが強い。「只今」はひらがながいいと思うのだが。 (葉 23.12.08.)

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保父の引く荷車の子ら冬日和   高井 百子

保父の引く荷車の子ら冬日和   高井 百子 『この一句』  我が家は丘の上にあり、石段を下ったところに車道が通り、それに面して公園がある。そこに毎朝と午後、近所の保育園の園児がやって来る。年長の子は歩き、小さな子は箱車に立ったまま詰め込まれて運ばれて来る。近頃は保母さんだけではなく保父さんの姿も見受けられるようになった。  幼児とは言え、5,6人まとまれば大人と同じくらいの重さになろう。それに箱車の重さが加わる。この句の作者は「荷車」としており、もしかしたら10人くらい詰め込んだ大型もあるのかもしれない。とにかく細っこい保母さんでは引くのも押すのも大変なようで、保父さんだと安心して見ていられる。  遅起きの私が散歩に出ると、この箱車によく出くわす。これが10数年たつと殺人強盗屁とも思わないワルになるなどとはとても思えない、いずれも実に可愛らしい様子である。孫のいない私ら夫婦にはこんな子がいたらと、実に羨ましい。家内は箱車についてしばらく歩くほどである。  この句はなんと言っても「冬日和」の季語を置いたところがいい。冬日和は「冬晴」という季語の傍題で、寒の最中の温かい日差しを詠むことが多いが、この句は11月末から12月の小春日和を感じさせる。  女がぐんと強くなった昨今、若い男がどんどん優しくなっていく。この句の保育車を引く保父さんも瓜実顔のイケメンなのだろう。 (水 23.12.07.)

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神の旅成層圏はいつも晴    玉田 春陽子

神の旅成層圏はいつも晴    玉田 春陽子 『この一句』  季語は「神の旅」。陰暦十月には、日本全国の八百万の神がすべて出雲大社へ参集する。そのために、出雲以外の土地は「神無月」となり、出雲は逆に「神在月(神有月)」となる。この神々の移動が「神の旅」である。由来のよくわからない俗説という見方が多いが、こんな面白い話を手ばなすことはない。  それにしても、なぜ神々は出雲に集まるのか?日本を統合したのが大和政権であるとすれば、権力を笠にきて大和や伊勢に集めるのが筋じゃないかと思わないでもない。もしかすると、キリスト教の「皇帝(カエサル)のものは皇帝に、神のものは神に」と同じように、地上の権威と天上の権威を、大和と出雲で分けたのだろうか、などと妄想が働く。  「成層圏」は、地上を取り巻く対流圏の上、10キロから50キロくらいの上空で、雲がないためにいつも晴れの状態である、と国交省のサイトにある。航空機が飛ぶのは、この対流圏と成層圏の境界あたりで、気球はまさしく成層圏を飛ぶらしい。  この句は、なによりも「成層圏はいつも晴」ときっぱり読み切った清々しさが持ち味である。ベテランの詠み手である作者は、もちろん「晴れ」などと送り仮名はつけない。「晴」の一文字が潔くていい。うがって読めば、いつも晴れの成層圏を旅する神々が、下界の争いを見て、「相変わらず阿呆やなあ、人間は」と言っているのかも知れない。 (可 23.12.06.)

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加湿器と痒み軟膏冬来る     工藤 静舟

加湿器と痒み軟膏冬来る     工藤 静舟 『合評会から』(日経俳句会) 青水 ボクの発想には全くない接近の仕方です。そのまま歳時記に乗せても、とまで思いました。 而云 う─ん!そうかなあ。加湿器も痒み軟膏もそのまま冬なんだよ。 双歩 乾燥肌で痒くなるのはよく分かる。 実千代 実は選句のやり方について、いま反省しています。よく分からなくなっています。自分がどう感じるか直感で選んでいるので、俳句の良し悪しを言葉では上手く言えないんです。  水牛 悩むことはありません。自分が感じたように選んでいいんです。それが選句の大前提です。その上で、表現方法、言葉遣いなどを検討する。 三代 すっかり忘れていましたが、冬の必需品ですね。身につまされます。 水馬 加湿器は湯気立つという季語がありますが、季重なりは気になりませんでした。 定利 立冬をこの二つで詠むとは。面白いですね。           *       *       *  「立冬」という兼題で詠まれた句。こう詠まれてみればなるほどと思い、実千代さんの言うように「いい」としか言いようがない。実はそういう句が本当に良い句なのだと言えるのではないか。「冬来たる」の季語に加湿器と痒み止めとを取り合わせて、直ちに立冬を感じさせる。子どもが作ったような句ではあるが、句作の骨法をすらりと明らかにしている。 (水 23.12.04.)

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冬来たる古傷疼くバイクのり   久保 道子

冬来たる古傷疼くバイクのり   久保 道子 『この一句』  今年の立冬は11月8日だった。水牛歳時記によると『「いよいよ冬だ」という緊張感が、立冬という言葉にはあるようだ』という。確かに、これから厳しい冬を迎えるという気構えを抱かせる。  掲句の作者は、オートバイに乗っているようだ。バイクは自動車と違って、日差や風(時には雨も)、気温など自然に直に触れながら移動するので、運転するのはとても爽快だそうだ。しかし、車と違って生身の身体を晒しているので、ちょっとした運転ミスや事故に遭うと、怪我をしたり、場合によっては生命の危機にも繋がりかねない。作者も大事故には到らなかったものの、過去には怪我をした経験があるのだろう。立冬を迎え、古傷(精神的なものもあるのかもしれない)が疼くのも理解できるというものだ。  この句、共感する人が多く高点を得たが、下五「バイクのり」に疑義を挟む意見が出た。「この句は作者自身を詠んだのか、第三者の立場で他人を詠んだのか分かりにくい。俳句では『自他場(じたば)』と言って、自分・他人・場所が明確になるように詠まなければなりません」と、水牛さん。「バイクのり」が自分の事か他人の事か判然としない、という。  ネットで調べてみたら、バイクに乗る人は「ライダー」「バイカー」「バイク乗り」などと呼ぶらしい。「バイク乗り」には趣味で乗っている人のニュアンスがあり、自分の事を「バイク乗り」と称する人が多いという。作者もそう自称していると思われる。つまり、「バイク乗り」は「自」…

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モニターに映る頸椎そぞろ寒    廣田 可升

モニターに映る頸椎そぞろ寒    廣田 可升 『この一句』  番町喜楽会11月例会の兼題「そぞろ寒」に、病院内の様子を詠んだものが3句並んだ。掲句はそのひとつで、診察室のモニターに、MRIで撮ったであろう頸椎の画像が映し出されている。医師が画像を指しながら痛みの原因を説明している光景が想像される。自分の体内、それも病巣がくっきりと示され、何やら隠し事を暴かれたような気分になっているかもしれない。 添えられた季語の「そぞろ寒」は仲秋から晩秋にかけて「何とはなしに感じる寒さ」(水牛歳時記)をいう。秋の終わり頃にふと感じる寒さは、冬の到来を予感させ、ちょっと心淋しい気分をもたらす。不安を抱えながら診断を聞く患者の心理に絶妙にマッチしている。  同じような場面を詠んだ句に「見せられし肺の画像やそぞろ寒」(玉田春陽子)があり、こちらを選んだ人もいた。どちらの句を採るかそれぞれ迷ったようだ。モニター派の意見は「措辞が客観的ですっきりしている」、「肺より骨がそぞろ寒に合う気がする」というもの。これに対し肺の画像派は「見せられしという措辞によって、医師が病状を説明している景がすぐ浮かぶ」と、臨場感に着目している。  作者によれば、長年の仕事の影響で第七頸椎が圧迫され、腕や肩に痛みが出ているとの診断だったという。団塊の世代が後期高齢者となり、医療費は膨張の一途である。選句表には「そぞろ寒診察待ちの顔と顔」(大澤水牛)の句もあった。急速な高齢化の進展で、医療も介護も年金も崩壊寸前のこの国の未来に、そ…

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立冬を知る由も無し里の熊    斉藤 早苗

立冬を知る由も無し里の熊    斉藤 早苗 『この一句』  この秋は例年にないどんぐりの不作で、熊が食物を求めて市街地に出没し、大きなニュースとなっている。環境省の集計によれば、熊の出没情報は9月までに全国で1万3千件を超える。被害者数は東北を中心に180人と過去最悪ペースで、死者も5人出ている。掲句はそうした状況を諧謔味をきかせて詠んだ時事句だが、句会では意外に点数が伸びなかった。時事句にしては臨場感が薄く、立冬と熊の出没の関係が分かりにくいと思った人が多かったのであろう。  もとより暦は人間が作ったものであり、熊が知っている訳はない。しかし熊は本能で季節の変化を感じ取り、冬が近づくと冬眠に備えてせっせと餌をあさり、栄養を蓄える。森の木の実や果物が少ない年は、やむなく人里に降りて、畑の作物や柿などの果物を食べる。熊はいわば「体内の暦」に従い、生存のために動き回っている。とすれば「知る由も無し」の中七は、「本能では知っている」という反語的ない意味合いを帯びてこないだろうか。  市街地への熊の出没はここ数年増勢をたどっている。どんぐりの不作以外にも、過疎化によって畑に出る人が減ったことや、柿の木などが放置されていることも一因とされる。人間と熊とが平和的に共存できた時代は、気候変動と過疎化により終わってしまった。「里の熊」の下五には、人間世界の甘い果物や残飯の味を知ってしまった熊たちと、その先行きを懸念する作者の気持ちが感じられる。 (迷 23.11.29.)

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鴨一家かかあ天下であるらしき  須藤 光迷

鴨一家かかあ天下であるらしき  須藤 光迷 『この一句』  居つきの鴨もいるにはいるが、近所の公園の池に鴨が飛来する季節になった。縁起のいい鳥と言われる鴨でも、環境省は鴨に送信機を付け人工衛星で飛来経路を追跡しており、農水省では鳥インフルエンザの警戒に余念がないという。真鴨に軽鴨、筆者にはとんと見分けがつかない。身体の大きさで識別できれば世話ないが、そうはいかない。真鴨の雄は繁殖期に黒っぽい首に白い輪があるそうだ。食べて美味いと言う、いわゆる「青首」がそうなのかと想像するばかりだ。軽鴨のほうはじつに雌雄の見分けが難しいようで、羽の縁の色形、尻羽の色で見分けるということである。  ともかく作者は川や池で見た鴨のひと群れを家族とみた。小難しい雌雄や夫婦の見分けなどどうでもいい。作者の目の前には仲むつましげな一家が軽やかに浮かんでいる。どうもあれが母親でいちばん威厳がありそうだとみた。実際の鴨の世界で雌が群れのリーダーであるのかどうかは知らない。他の鴨を率いているさまに、作者は人間社会の「かかあ天下」という言葉を当てはめた。  異論はあろうが、家庭内を波風なく治めるには主婦が主導権を握るのがよいとは古人の知恵。鴨一家に託して作者の持論を披露した形だ。我が意を得たりの句評も当然。「『かかあ天下』ときては上州女としては採らざるを得ません。どこでもかかあ天下が一番うまくいくのです」(百子)に出席者一同大笑い。 (葉 23.11.27.)

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処理水の騒ぎは知らぬ海鼠かな  徳永 木葉

処理水の騒ぎは知らぬ海鼠かな  徳永 木葉 『この一句』  「処理水」は言うまでもなく、福島第一原発の放射性物質を含む汚染水を処理した水のことであり、「騒ぎ」とは、その処理水を海洋に放出することに伴う、一連の騒ぎのことである。政府は適切に処理された水であると説明し、国際原子力機関のお墨付きも与えられたものの、事前に「関係者の理解」を得ることを前提とすると約束していたにも拘らず、十分な協議が行われず、事実として、風評被害や輸入禁止など深刻な問題が発生していることは周知の通りで、こうした一連のことを「騒ぎ」と呼んでいることは間違いない。作者は、「騒ぎ」に対して、明らかに批判的な目を向けているように思えるが、その矛先が、具体的にどこにどのように向けられているのかは、この句からは定かではない。  この句に詠まれている「海鼠」は、被害の当事者とも言える海産物であるとともに、「騒ぎは知らぬ海鼠かな」と詠まれることによって、とぼけた味を出して、一句を諧謔性のあるものにする役回りを担っている。処理水問題は間違いなく深刻な問題であるが、この句は、海鼠を持ち出すことによって、処理水問題の片々を語るのではなく、まっとうに自然界に棲息する海鼠と私たち人間の生き様の愚かさを対比させ、アイロニーを含んだ句に仕立てている。問題をストレートにあげつらうのではなく、このように詠むことも、俳句表現の深みであり、凄みではないだろうか。 (可 23.11.25.)

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