エコバッグはみ出す野菜春一番  大下 明古

エコバッグはみ出す野菜春一番  大下 明古 『この一句』  今年の春一番はずいぶん早く吹いた。関東では2月4日、立春の翌日だった。去年より18日早く、これまででもっとも早かったという。春一番は、立春から春分までに吹く強い南風のこと。期間限定なので春一番が吹かない年もあるとか。この言葉を聞くと何となく「春がきた」という気にさせられる。  立春、春一番と耳に嬉しいニュースを耳にして、作者は買物に出た。スーパーの野菜売場には春野菜が溢れ、心も晴れやかに。あれもこれもと、ついつい買い足して持参のエコバッグはすぐに満杯になった。店を出れば、はみ出した野菜が折からの春一番にあおられたのかも知れない。いかにも春らしい明るさに満ちた掲句は人気を呼び、高点を得た。  「春キャベツ、新じゃが、新たまねぎなど春の野菜で一杯になった買物袋。そこに春一番。なんと生命力に溢れた句。エコバッグで時代を切り取ってみせるところも欲張りで素敵」という阿猿さんの感想が、他の選者の声も代弁している。作者は主婦らしく、葱、大根、水菜、小松菜、葉付き蕪、芹などの野菜も上げるが、実は買物へ行くのは在宅勤務になった夫だ、と落ちをつけた。 (双 21.03.05.)

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ダムの名は江戸より五十里辛夷咲く 杉山三薬

ダムの名は江戸より五十里辛夷咲く 杉山三薬 『この一句』  地名や場所を詠み入れた句は、そこに行ったことがない、馴染みがないとなれば受け手の心に届かないのだろう。この句の中七(八音ではあるが)の「江戸より五十里」に覚えのある人にとっては、それだけで感懐を持つに違いない。「五十里」は地名では「いかり」と読む。筆者は行ったことはないが、うろ覚えながら読みだけは思い出した。調べて見ると、由来は会津西街道にあった会津藩関所および宿場が江戸からちょうど五十里だったので地名になったという。そこに造ったダムだから五十里ダム。  作者は昔から行動派である。しかも単独行が好きのようでもある。かつての作者句に「右木曽路左伊那谷夏木立」がある。これらの地名は誰もが知っており、すぐにイメージが湧く。句会で高点を得た。掲句の「江戸より五十里」がどこを指すのか、選句者たちはピンと来なかったのではないかと思う。偉そうに言う筆者だってはじめは分からなかったのだから褒められないが。本来やらねばならない句の評価をしたい。鬼怒川上流にある五十里湖は、とうぜん山中にあり中々に由緒あるダムのようだ。その湖周りに辛夷の花が咲き興を添えた。地名を借りてはるばる来たものだと作者は言っている。 (葉 21.03.04.)

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子を胸にスマホ片手に東風を行く  金田青水

子を胸にスマホ片手に東風を行く  金田青水 『おかめはちもく』  女性の句だと即断してしまった。幼子を(左手で、だろうか)胸に抱いている。そして右手にスマホを持ち、誰かと会話を交わしながら、東風(こち)の吹く中を一歩一歩、前に進んで行く。たいへんだなぁ、すごいなぁ、若いお母さんは、と同情した。ところが作者が分かって、拍子抜けした。句作りの名手と認められている堂々たる男性の作であった。  男性が女性の姿や行動を見て、それを句にしても何ら不都合はない。作者が自らの姿を隠し、異性風に詠むのも、もちろんOKである。女性の句だと思い込んでしまったのは、当方の判断によるもので、それについて作者に文句を言う筋合いはない。しかし、句の構成についての考えを述べるのならば、許して頂けるかも知れない、と考えた。  この句、上下をひっくり返してみたらどうか。即ち「東風を行くスマホ片手に子を胸に」とするのだ。上五から中七、下五へと次第に劇的になって行くはずだ。さらに東風はどちらかと言えば緩やかに吹く風だと思う。ならば上五は「強東風や」と行く手もある。作者にお願いする。句の直しは、勘違いの悔しさをぶつける紙つぶてほどに受け止めて頂きたい。 (恂 21.03.03.)

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6ミリのバリカン坊主東風強し  谷川 水馬

6ミリのバリカン坊主東風強し  谷川 水馬 『この一句』  この句の評価のポイントは、何と言っても「6ミリ」の具体性にある。春先に東から吹いてくる東風(こち)にバリカンで刈り上げた坊主頭をぶつけ、早春の荒々しい息吹を感じさせる。6ミリという数字が、具体的な映像を立ち上がらせ、読者の印象を強めている。  床屋でバリカンの刈高を表す単位に、昔は厘や分が使われた。一分は約3ミリで刈高も同じだが、三分刈りは6ミリ、五分刈りは9ミリ程度とされ、必ずしも比例している訳ではない。関西では枚という単位が一般的だったらしい。最近の家庭用のバリカンを見ると目盛が3ミリ、6ミリ、9ミリと3の倍数で刻まれている。  刈高6ミリは、うっすらと地肌が見える程度の坊主頭。散髪後のすっきりした頭を、強い春風が撫でて通り過ぎる。春の訪れをまさに「体感」する一瞬だ。最初に句を読んだ時は「バリカン坊主」の言葉から、少年のクリクリ頭をイメージした。しかし作者は近年、髪を短く刈り込んでいるので、自分のことを詠んだのかも知れない。 みんなの俳句のバックナンバーに「禿頭をすべりゆく風春浅し」(水牛)という句がある。髪の少ない頭ほど、季節の変化を捉える敏感なレーダーになるようだ。 (迷 21.03.02.)

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梅東風や絵馬に「けい算がんばる」と 嵐田双歩

梅東風や絵馬に「けい算がんばる」と 嵐田双歩 『この一句』  「東風」と言えば、大方の日本人は菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」の歌を思い出す。それに「絵馬」を掛け合わせれば、これは間違いなく天満宮あるいは天神様の話だろう。しかも単なる「東風」ではなく「梅東風」なのだから、いよいよもって天神様の話だろう。  学問の神様である天神様の絵馬と言えば、なんと言っても合格祈願の絵馬である。大学入試はもとより、中学受験、国家資格試験など、この季節の境内には、さまざまな合格祈願の絵馬がぶら下がっている。第一志望だけをきっぱり書いたものもあれば、細かい字で多くの志望校が並び、こちらが受験料の心配をしてしまうものもある。   この句のハイライトは「けい算」の「けい」の二文字である。仮にそれが「計算」と漢字表記されていても、句の意味はまったく変わらない。けれども、句が表現する世界はまったく違うものになる。「けい算」が彷彿させる、あどけない子供の姿が消えてしまう。さらに言えば、この句は実は神様になにも祈願していない。「ボクは頑張るから神様見ててね」という健気な句である。この絵馬に出会った作者の幸運と、それを見逃さなかった炯眼に一票を投じた。それにしても、子供をダシにするなんて、ずるいなあ! (可 21.03.01.)

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強東風や一息ついて杖の人    星川 水兎

強東風や一息ついて杖の人    星川 水兎 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 よく見かける風景。がんばれの気持ちが伝わります。 てる夫 向かい風となってよほど歩きにくかったのでしょう。老人の散歩、時間はあるのですから、ゆっくり行きましょう。 可升 杖を使ったことがないので、実感としてはわかりません。けれども、おそらくこう云うことになるのだろうなと思わせる、説得力のある句だと思います。 *       *       * 歳時記を繰ると春風もいろいろで、「東風」「貝寄風」「涅槃西風」「春一番」「春疾風」などが出てくる。それぞれに表現する時期や場面が微妙に異なるのだろう。 春一番は気象用語の感が強いのに比べ、東風という雅な響きは伝統俳句的である。東風でも強東風となれば、か細い老人は歩くのに難儀する。この句の情景はたしかにお馴染みではあるが、作者の優しい視線が見えて気持ちが良い。東風にあおられちょっと立ち止まった杖の老人に、手助けしましょうかという気分もうかがえる。 日頃の句会活動で作者の行き届いた気配りを知る評者には、作者を知ってはじめて「さもあらん」と思った次第である。「一息ついて」の中七が臨場感をもたらせる。 (葉 21.02.28.)

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皆中を外す矢羽根に東風強し   池内 的中

皆中を外す矢羽根に東風強し   池内 的中 『この一句』 「皆中」は弓道の用語。皆(みな)中(あた)るという意味で「かいちゅう」と読む。矢を射ることを「射(しゃ)」といい、例えば、競技会などで八本放って的にすべて当たれば「八射皆中」などと使う。逆に全部外すことを「残念」と言う。などと偉そうに解説している筆者は実は弓道を知らない。弓道をやっている娘から聞き齧った、単なる受け売りである。  弓道歴が長い作者は、仕事の合間を縫って近所の道場で腕を磨いているらしい。「的中」という俳号は弓道からいただいた。聞けば、合気道もやっているという。俳句も作るし、革細工の腕前は趣味の域を超えているとか。まさに文武両道である。そんな作者でも「皆中」するのは難しいという。まれに「皆中」できた時はさぞかし嬉しいだろうし、その日の酒の味は格別だろう。ところが、もう少しで快挙達成だったのを春の風、つまり東風に邪魔されたのだ。「風さえなければ皆中したのに」と残念がっている的中さんが浮かぶ。  この句を採った明古さんは『東風の強さが感じられますが、「に」を改めるほうがより広がりのある句になるのでは』と言う。確かに、「矢羽根に」を「矢羽根や」と切ったほうが句が締まるが、この句の眼目は何といっても専門用語「皆中」にある。 (双 21.02.26.)

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守り人の消えし灯台野水仙    中村 迷哲

守り人の消えし灯台野水仙    中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 日本から灯台守の姿が消えたのは15年前とか。無人化・省力化、さらにリモートという時代の流れを感じ、考えさせられました。 木葉 「喜びも悲しみも幾年月」という昭和の名画と主題歌が蘇ります。灯台守はいまやなく無人の灯台に。伊豆下田の白亜の灯台を背景に白い野水仙の群落があるのみ。 幻水 伊豆下田の灯台にはもう守り人はいないと思うが、今は一面に野水仙が満開だろう。 *       *       *  句意はきわめて明確。「あの白い大きな灯台から、灯を守る人がいなくなって幾歳月…。だが、春が来れば水仙は以前と変わらず綺麗な花を咲かせている」…。人間と自然、歳月と郷愁である。ちなみに日本で最後の有人灯台は五島列島の女島灯台で、灯台守が姿を消したのは2006年12月のことだった。  雨の日も風の日も嵐の夜も灯を守り続ける灯台守の仕事は、つらく骨の折れることに違いないと思う。だが、社会の安全のために灯は消せない。縁の下の力持ちそのものではないか。コロナ社会で灯台守に相当する仕事となると、看護師や保育士、また宅配弁当の配達人など。口だけの人はいらない。 (光 21.02.25.)

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昨日とは違う香のする東風の空  斉山 満智

昨日とは違う香のする東風の空  斉山 満智 『この一句』  春の兆しを感じるタイミングは様々であろう。ある人は朝、水道の洗顔水で冷たさが心なしか緩んできたと感じたとき。ある人は、春一番が吹いたとテレビで報告する気象予報士の一言で。作者は東風が吹いている空に窓を開けて見上げたら、昨日までの匂いと違うのを感じ取ったと詠んでいる。  季節の変わり目を昨日と今日で截然と分けられるものでは当然ない。「昨日とは違う香」の措辞はまちがいなく修辞と思うのだが、自分が感じ取った春が近いとの微妙な感覚を、俳句に表現するのには必要な修辞だったと思う。女帝持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」の一首を引き合いに出して比べるほどもなく、何事もテンポの早い現代では「昨日と今日の差」を詠むことこそむしろ普通に思える。  この句は「東風」の季語を詠みこむにあたって、空の匂いを持ってきた。これまた女性ならではの細やかな感覚であると思う。東風が運んできたほんの微かな匂いは何であろうか。梅の香でもいいし、子どもたちが公園で遊ぶ元気な声を「香」と取ってもいいのではないだろうか。 (葉 21.02.24.)

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結婚のメリット問う子猫の恋    須藤 光迷

結婚のメリット問う子猫の恋    須藤 光迷 『季のことば』  「猫の恋」は発情期を迎えた早春の猫の行動をさす季語で、恋猫、うかれ猫、春の猫、猫の妻、孕み猫など、いずれも春の猫の狂態を表している。例句を見ると「恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく」(加藤楸邨)など、相手を求めて昼夜さまよい歩く生態を詠んだものが多い。  これに対し、掲句は「結婚のメリット問う子」という一種の謎かけを提示し、猫の恋を配する。理性的に損得を計り、結婚に意味づけを求める人間と、本能のまま狂おしく異性を求める猫を対比させることによって、結婚を取り巻く現代の状況を浮き彫りにする。 少子化・晩婚化の進展で日本の婚姻率はピーク時の半分以下に落ち込んでいる。厚労省の統計によれば、生涯未婚率は女性で14.0%、男性は23.3%に達する。価値観の多様化が「結婚しない」という生き方を選ばせ、格差社会の拡大が「結婚できない」とう現実を生んでいるように思える。  作者の家庭であろうか、適齢期の子供に「誰かいい人いないの?」と聞いたところ、逆に「結婚して何かいいことがあった?」と聞き返している場面が想像される。作者(あるいは奥さん)が、この問いにどう答えたか、気になってくる。 (迷 21.02.23.)

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