盃置けばはや短夜の白み初め   大澤 水牛

盃置けばはや短夜の白み初め   大澤 水牛 『この一句』  何とも羨ましい、溜め息が出そうな一句である。明け方までミステリー小説を読み耽っていたのか、句評などの書き物をしていたのか、詳しくは問うまい。盃を置き、ふと気付いて外を見れば、空は白み始めていた、というのだ。鳥の声が聞こえたかもしれない。「あぁ、もう朝か」とゆっくり周りを見渡す男の姿が浮かんでくる。  羨ましく感じる第一の理由は、体力である。かつて昭和の末期、バブル経済の時代に夜を徹して遊んでいた覚えはある。しかし、あれから30年。そのようなエネルギーは失せた。第二の理由は、根気である。何事にせよ、一心不乱に夜を徹してという気力はなくなった。小生の場合、陶芸を趣味とするが、目が霞むのはともかく、集中力が途切れてしまう。  新型コロナウイルスの登場で、暮らし方が大きく変わった。外出自粛、「三密」回避によって、居酒屋に立ち寄ることもほとんどなくなった。その結果、家飲みとなり、ついつい酒量は増えがちなのだと聞く。だからと言って、「休肝日を」とは言わない。それは24時間365日、真面目に働いている心臓に対して失礼だから。 (光 20.07.09.)

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枕辺の欧州ニュース短き夜    水口 弥生

枕辺の欧州ニュース短き夜    水口 弥生 『この一句』  「一体何を言おうとしている句なのか分からない」という疑問が発せられるかも知れない。しかし、新聞の国際面に熱心に目を通す人や、「時差」というものに敏感な旅行好きの人には、とても面白い句だと受け取られるに違いない。  この句を見て、そうだ、「短夜」と「欧州ニュース」はまさにぴたり合わさるなあと感じ入った。しかし、この飛び離れた二つを合わせて、俳句に詠もうとする人が居ようなどとは思いもしなかったので、本当にびっくりした。  作者は眠りが浅い質なのだろう。ちょっと寝ては覚めるの繰り返しで、夏の夜はすぐに白々明けとなる。たぶん一晩中「ラジオ深夜便」を音量を絞って付けっぱなしにしているのではないか。タラララ、タン、タターン・・という、あの眠気を誘うような、時には目を醒まさせるような合いの手メロディが流れて次のテーマに移って行く。そして午前4時、5時にはニュースが流れる。  日本の午前4時、欧州大陸は夜9時、イギリスは夜8時。その日一日の出来事を集約して報道する時間だ。この作者は欧州でのあれやこれやを日本で真っ先に知る一人なのだ。「ドイツの女首相、偉いわねえ、頑張ってるのねえ」などとつぶやきながら、またまどろむ。実にユニークな句材を取り上げたものである。 (水 20.07.08.)

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眠る子の握りこぶしや柿の花   谷川 水馬

眠る子の握りこぶしや柿の花   谷川 水馬 『この一句』  柿は梅雨の頃に白い小さな花をつける。柿若葉の中に隠れるように咲き、数日で落花するので、咲いているところよりも、落ちた花を見ることが多い。雄花と雌花があり、品種によって雌花だけが咲くもの、両方とも咲くものがあるという。花は秋に蔕(へた)となる緑の大きな萼(がく)に囲まれている。黄みがかった白色で、四片の花びらが塊り、先端を反り返らせた形で咲く。 作者は柿の花を赤ん坊の握りこぶしに見立てている。まさに言いえて妙で、小さく寄り集まった白い花弁は、幼子の無垢な手とイメージが重なる。実際に柿の花を見ないと湧かない発想だと思う。句会でも「図鑑で調べてみたら、本当に子供の握り拳のような形をしている」(命水)と得心した人が多く、「柿若葉の下に乳母車を停めたのではないか」(水牛)という解釈もあった。 柿の花言葉は「自然美・優しさ・恵み」など、少し地味なこの花に似つかわしいものが並ぶ。掲句は柿の花と握りこぶしが似ているというだけでなく、眠る子への優しい視線が心に残る。柿の花の中には子房があり秋の実りを待っている。幼子の健やかな成長と子孫繁栄を願う親心も重なり合っているからであろう。 (迷 20.07.07.)

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真ん中で墓が見守る田植かな   岩田 三代

真ん中で墓が見守る田植かな   岩田 三代 『この一句』  日経俳句会の上期合同句会で、13得点という圧倒的人気を博した句だ。参加者は40人弱だったので、3人に1人が採った勘定だ。選んだ方々の句評を集約すると、「ご先祖さまに見守られ、今年も米作りが始まった。懐かしいような羨ましいような、いつまでも残したい日本の原風景」ということのようだ。  筆者も似た様な風景をあちこちの地方で見かけた。広い田圃の中央に、一際目立つ堂々たる墓が建っていた。青田であったり、稲穂であったり、季節はさまざまだったが、田植こそ似合いそうだ。そんな景色に出会う度に一句に仕立てたいと何度も試みたが、なかなか上手く詠めなかった。  自分が詠もうとして叶わなかった風景や句材を、ほかの人が見事に575に収めた一句に出会うと、一も二もなく惚れ込むことは、誰しもあるのではないだろうか。この句は正にそれだった。実に素直な詠み方で、情景がすっと頭に浮かぶ。農耕民族のDNAゆえか、妙に懐かく暖かな気持ちにさせてくれる。  「土に生きた人は死んだ後も自分が耕した田を見守り、豊かな実りを子孫に届けたいと願ったのでしょうか」という作者の気持ちが、しっかりと読者に届いた秀句で、上半期の収穫の一つだと思う。 (双 20.07.06.)

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焼茄子の熱々の皮むしりをり  山口 斗詩子

焼茄子の熱々の皮むしりをり  山口 斗詩子 『この一句』  茄子は漬物も良し、煮ても焼いても揚げても、どんな味付けをしても食べられる。しかし、茄子の仄かな旨味が最もよく味わえるのは、焼茄子ではなかろうか。  ただ焼茄子はこの句が言うように「熱々の皮をむしる」のが一苦労だ。焼き加減も大事だが、これはガスの直火でも魚焼レンジでも、あるいは油を引かないフライパンでもいいから、皮が真っ黒になるまで焦がし、果肉が十分柔らかくなるのを見計らって、すぐさまヘタに近い方の皮を摘まんで剥いてゆく。もの凄く熱いから、水を掛けながら剥く人がいるが、これは厳禁。旨味が全部逃げてしまう。傍らに氷水を置いて、時々指を浸して熱い焦げ皮を剥く。剥き終えたらバットに並べ、それを氷を盛った大きなバットに置いて冷やす。冷えたら卸し生姜をちょっぴり載せ、出汁で割った醤油をかければ出来上がり。  焼茄子の熱い皮を剥くのが面倒だというのなら、焼いたばかりの真っ黒焦げをそのまま皿に載せ、ナイフで裂け目を入れ、そこにバターを落とし込み、卸しニンニクを混ぜた醤油をたらたらと掛けて、スプーンで果汁ごと掬って熱々をフーフー啜り込む。ビールにも合うし、冷やした吟醸酒なら絶好の相性である。  焼茄子の作り方に身が入り過ぎて句評を忘れてしまった。この作者の焼茄子はさぞや美味かろうという感じが伝わって来る、実に良い句だ。 (水 20.07.05.)

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明易や明けきる前の街若し    中嶋 阿猿

明易や明けきる前の街若し    中嶋 阿猿 『この一句』  なんといっても下五の「街若し」が読むものの気持ちをぐっとつかまえにくる。この句にはふたつの読み方が成り立ちそうである。一つは夜明け前のこれから街が動き始めるという清新なイメージ。もう一つは、前夜からの延長で未明に至るというイメージ。「石段をだだっと駆け下りて来る新聞配達」をイメージした水牛氏は前者、「やさぐれて、未明の歓楽街を彷徨」した頃を思い出した、双歩氏は後者の解釈である。朝の清新なイメージと解釈するのが普通で順当なのだろうが、「明けきる前の」という措辞が、後者で解釈する余地を与えてくれている気がして捨てきれない。  もう何十年も前の話だが、ウィリアム・アイリッシュの書いた『幻の女』というミステリーを読んだ。女房と喧嘩をして街で見知らぬ女性と酒を飲み、家に戻ると女房が殺されていた。アリバイを証してくれるはずの街で出会った女が見つからない、すなわち「幻の女」という話である。この小説、「夜は若く、彼も若かった」という書き出しで始まる。当時、この書き出しは名フレーズとして、ファンの間でずいぶんもてはやされ語り草になった。このフレーズが頭の片隅にあったせいか、筆者も無頼の果ての未明という気分で読んだ。そう読んでみると、若いのは街ばかりではなく、作者も若い、あるいは若かったあの頃と読めてくる。久しぶりにミステリーを読んでみようかという気にさせられた。 (可 20.07.03.)

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毛虫焼く火炎放射の沖縄戦    野田 冷峰

毛虫焼く火炎放射の沖縄戦    野田 冷峰 『この一句』  一瞬、戸惑った。「毛虫焼く火炎放射の」という上五中七の後には「煙かな」とか「新兵器」のような言葉が続くものと予想した。つまり一句一章である。だが、その予想は見事に裏切られ、何と「沖縄戦」というアッと驚く言葉が出現した。となると、これは二句一章の取り合わせで、「毛虫焼く」の後で切れることになる。  椿や山茶花に群がった毛虫退治に、竹の先に襤褸切れを巻き、油をしみ込ませたものを燃やして…という焼き討ち作戦をとったことがある。葉や枝への毛虫の蝟集ぶりが物凄かったからだ。しかし、そこから壕に逃げ込んだ沖縄の人々に発想を飛ばすのは、常人の及ぶところではない。いかに句会が6月23日、沖縄忌に近かったとしても。 言葉遣いについては、何と不愛想なという印象が拭えない。不愛想は武骨とも言い換えられる。ただ、そのぶっきらぼうさが、戦争の暴力性、理不尽さ、悲惨さを表現する一助にもなっている。話は逸れるが、沖縄は日本から独立し、琉球に戻る方がいいのではないか。日米安保条約の基地問題をどうするかは、本土に返還して。 (光 20.07.02.)

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一駅を涼暮月の帰り道      星川 水兎

一駅を涼暮月の帰り道      星川 水兎 『季のことば』  選句表でこの句を目にした時、「涼暮月」の読みも意味も分からなかった。手元の歳時記に見当たらず、辞書にあたると「(すずくれづき)陰暦六月の別称。涼しい暮れ方の月の意」(明鏡国語辞典)とある。意味が分かって句を読むと、なかなかに趣が深い。  昼間は蒸し暑かった夏の一日も、日暮れになると涼しい風が感じられ、ふと見上げると月が浮かんでいる。涼しげな月明かりに誘われ、いつもは電車に乗る一駅を歩いて帰ろう。そんな場面が浮かんできて、一服の清涼剤を得た気分になった。  陰暦六月は万葉の昔から様々な異称で呼ばれてきた。最も知られているのは水無月(みなづき)だが、ほかに「常夏月」、「風待月」、「水張月」、「鳴神月」、「松風月」、「蝉羽月」などがある。雨や風など気候の変化が大きく、作物の成長を左右するこの季節の特徴をよく捉えている。気温や天気の変化に目を凝らしてきた先祖たちの知見が凝縮されているように思う。  歳時記を何冊か見たが、水無月の傍題として常夏月や風待月はあっても、涼暮月は探せなかった。この風雅な季語を見つけてきた作者の努力だけでも、十分に票を投じる価値があると思う。 (迷 20.07.01.)

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母の名と同じ店ある梅雨晴れ間  大沢 反平

母の名と同じ店ある梅雨晴れ間  大沢 反平 『季のことば』  この稿を書いている六月十七日の南関東は、まさしく「梅雨晴間」である。多少の雲はあるものの青空で湿度が低い。気持ちのいいこと申し分ない。いつの日か作者は久々の好天に誘われ、街歩きに出かけたにちがいない。いつものコースをちょっと外れて、ふと見ると店の看板か扉の表示が目に入った。なんと、母親の名前と同じ店名ではないか。八十を越えた作者のご母堂だから、もちろん流行りのキラキラネームではなく昔風の名前だろう。まず何という名前か何の店か、読み手はひとしく気になる。興味をかき立てる「母の名と同じ店」で評者もこの句に惹かれた。  そのうえ梅雨晴れのある日の出来事である。ありし日の母親を思い出した作者は、小さな幸福感を味わった。また、読み手にもちょっぴり爽やかな気分をお裾分けしてくれた。今年もすでに猛暑の兆しがみえはじめているが、盛夏まであと幾日か。梅雨の季語は「梅雨寒」「梅雨出水」「梅雨闇」など鬱陶しいものが大半だが、「梅雨の明」は安堵感を、「梅雨の月」と「梅雨晴間」は梅雨期のコーヒーブレークを感じさせる季語だ。 (葉 20.06.30.)

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晩節は妻の裏方毛虫焼く    玉田 春陽子

晩節は妻の裏方毛虫焼く    玉田 春陽子 『この一句』  冒頭「晩節は」で始まるところがいかにも面白い。晩節にはいくつかの意味があるようだ。辞書には 1.人生の終わりの頃、晩年 2.晩年の節操 3.末の世、末年 とある。晩節というとすぐに「晩節を汚す」とか「晩節を全うする」という文句が思い浮かぶが、これは二番目の意味からきているのだろう。人生も終わりにさしかかると、なにやら不安定な状況になり、つまらぬことに手を染めたり、間違いを起こしたりすることが多いという戒めだろうか。  掲句は、退職した高齢者が奥さんに言われて、毛虫の始末をしている光景だろうか。庭木の手入れなどは普段は奥さんまかせだが、毛虫だけは奥さんの手に負えず「あなたの出番よ」というところだろうか。会社に行かなくなって毎日家にいると、家庭の主導権を握るのは俄然奥さんの方。亭主は素直に従うのがよろしい。毛虫の始末であれなんであれ、頼まれるのは頼りにされている証拠である。  筆者は一度も毛虫を焼いた経験がないが、この亭主は毛虫が焼けるのだから大したものである。いずれにせよ「妻の裏方」に徹しているかぎり、「晩節を汚す」恐れはない。毛虫にははなはだ迷惑だろうが、家庭的には微笑ましい一句である。 (可 20.06.29.)

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