てっぺんにたどりつかぬに花疲れ   大澤水牛

てっぺんにたどりつかぬに花疲れ   大澤水牛

「この一句」

 一読してすぐの感想は「なんと無精な、もっと我慢を」だった。花見に出掛けた以上、初志貫徹、いかに人波にもまれようとも、それが吉野の山であろうが、箱根の山であろうが、山桜に紅枝垂、また染井吉野など、しかと花を見、心に留めるべきだと。それができないのは体力の衰え、気力の衰えの為せる業。この一句は、そういう老人の作品、高齢社会の産物ではないか、と。
 しかし、再読、三読するうちに、味わいが変わってきた。「花疲れ」とは、首を曲げたり、目を細めたりして様々な花を見て歩くことによる体の疲れ、人々と行き交うことなどによる気の疲れをいうのだろう。作者は、それらと同時に頭の中の花に疲れたのではないか、と気付かされたのである。桜を見たことで、それまでの桜の記憶が一気に甦り、動く気が失せたのでは…、と。 
「さまざまのこと思ひ出す桜かな」という芭蕉の句が作者の脳裏を掠めたかどうかは不明。ただ、桜の花がなければ春の世はさぞ長閑だろうとか、容姿の衰える嘆きを花の色に託してとか、桜は様々に詠まれてきた。となると、桜の楽しみ方も様々でいい。必ずしも天辺まで行く必要はあるまい。中腹で一服、天上・眼下の花を眺めつつゆるり一献というのも一興ではないか。(光)

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