泡溢れ快気祝の生ビール 髙石 昌魚
『この一句』
生ビールの泡がもくもく盛り上がり溢れるのは至極当たり前のことで、それを事新しく詠んでも句にはならない。しかし「快気祝の生ビール」ということになると別である。途端に晴れやかな気分が盛り上がってくる。
俳句では、「ビールの泡」が「溢れる」というような犬棒式の常套句を用いることは避けるべきとされている。しかし、時にはかえってこれが効果を顕すことがある。この句などはまさにその典型であろう。家族、親類縁者、友人などが取り巻く乾杯の雰囲気がストレートに伝わって来る。そして何より、病から立ち直った作者自身の喜びと安堵感が溢れている。
「快気祝」と言うからには、風邪など数日間寝付いたくらいの軽い病いではない。何か良くない所の手術を受けたり、かなり重い症状でひと月ほどは入院していたに違いない。その挙げ句の「全快・退院」は誰だって嬉しいが、特に七十代以降ともなれば「蘇生」という言葉を噛みしめることであろう。日記の中の一節を取り出したような、なんでもない言葉を無造作に並べた句だが、しみじみとした気持が込められていることが分かる。(水)
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