生きること生きていること水澄めり 山口斗詩子
『この一句』
作者が体調不良やコロナ禍で、句会に顔をお見せにならなくなって久しい。それでも、毎月メール投句で句会に参加され、欠席選評も欠かさず送って来られ、それらを通してご健在を確認している。今春には、会報に随想を書いて欲しいとお願いしたところ、快くお引き受けいただき、ご自身の育った下落合の「おとめ山公園」散策にまつわる一文を頂戴した。亡くなられたご主人とのお見合いのエピソードなども交えた読み物で、初稿から最終稿に至るプロセスも含めて楽しませていただいた。
さて、この句。「生きること」と「生きていること」はどう違うのだろうと、思わず考えさせられてしまう。「生きること」は、まさに生きる営みそのもので、能動的な意志のようなものが感じられる。「生きていること」には、受動的に自身の生の在り様を振り返るような視線が感じられる。両者のあわいにあるもの、あるいは、両者合わさったものが、人生なのかもしれない。「水澄めり」の季語は、そのように人生を見つめる作者の心境を反映しているのだろう。
いずれあてずっぽうの解釈ではあるが、さらりと平易に詠まれているのにも拘らずとても意味の深い句である、という実感は間違っていない気がする。作者のつつがなきことをお祈りしたい。
(可 25.10.13.)
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