字余りのような八十過ぎの秋 玉田春陽子
『この一句』
この句が詠まれた酔吟会には老境の句友が多い。「晩年の始まりはどこ野分雲」という句が、別の日の番町喜楽会で高点を得た。二つの句会は同じく日経俳句会傘下であり、メンバーはおおかた掛け持ちである。年が似たり寄ったりだから人生についての感覚も似通う。選句者それぞれ天の句を一句選ぶことになっている今月の酔吟会で、二人が「天」とした。「日ごろ感じている感覚を『字余り』が見事に言い当てている」、「若ければ何の関心もわかない句だろうが、八十過ぎの我らの琴線にはツンとくる」と賛辞を贈った。
人の一生には越えるべき坂があるという。六十「耳順」、七十「而從心」と、自らの一生を語った孔子は七二、三歳で亡くなっているから八十の坂を経験していない。平均寿命が短かった戦後まで四十二歳が男の大厄とされ、特に健康に気をつけなければならなかった。現在の平均寿命は男女とも八十を優に超えている。八十過ぎた作者は余生を「字余りのような」と表現した。俳句の字余りは感心できないが長生きは慶事だ。「自分はもう余分に生きているのかなと思ったりする」と作者は作意を語る。だがどうしてどうして、まだまだ名句を作るぞとの気概が見え隠れする。句またがりをリズムよく詠んで、「秋」の一語でぴたりと止めたところなど、手練れぶりは相変わらず。この句には芭蕉の「この秋はなんで年寄る雲に鳥」のような薄暮感がない。
(葉 25.09.27.)
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