生ビール交わす手と手の手話踊る 伊藤 誠一
『この一句』
ある日の句会で天地人の人の評価を得た句である。面白いとみんなの注目を集めたものの、もっと推敲できるのではないかとの注文が付いた。理由ははっきりしている。手の多さだ。三回も手を使う必然性があるのか。皆さんの指摘は容赦ない。まあその通りでもある。でもボクは、敢然として手を多用する勇気にほれ込んだ。若い作者の意気こそが貴重なのだ。
情景は清々しい。手話を使う二人が久しぶりにビアホールで再会したのだ。注文した生ビールもさることながら、二人の関心事はそれぞれの近況報告の方にあるのだ。周囲の目を気にするなんて余裕はもとから無い。双方の手が高速で翻る。その真剣で真摯な様子を表現するには手と手が欠かせないし、手話も欠かせない。当然である。
確かにもっと思考せよと言われれば工夫の余地は出て来るだろう。だがこの句の荒削りな中に込められた喜びの発露には、目を見張るものがある。健常者目線で安易に踊るなんて措辞を使って良いものだろうか、との指摘には説得力がある。でも作者には二人の会話が踊って見えたのだ。喜びにあふれていたのだ。
俳句作りには万全の注意が欠かせない。でもそれと同じくらい、感性の発露が求められる。他者への不用意発言は絶対に駄目だが、この場合の踊るは許容範囲のうちに在るようにボクには見える。
(青 25.07.29.)
この記事へのコメント
迷哲
ビアホールのあちちで久闊を叙してビールが酌み交わされる、それを「手話」踊ると詠んだのではないでしょうか。囲碁を「手談」ともいいます。そんな解釈もありそうな気がします。
酒呑堂