短日や窓辺の妻の老いにけり 大沢 反平
『季のことば』
「秋の日は釣瓶落とし」という成句がある。今ではもう「釣瓶」など知らない人の方が多くなっているに違いないのだが、それでも未だにこの言葉がラジオから聞こえてくる。それだけ晩秋の日暮の早さが印象深くて、若いアナウンサーもこうした耳に馴染んだ慣用句を使ってしまうのだろう。これを俳句世界では「短日」と詠み、引っくり返して「日短か」あるいは「暮早し」とも用いる。昔も今もとても人気のある季語だ。
日没の早さが気温の低下と重なって、「もう間も無く年の暮れだ」という焦燥感を煽り立てるのだろう。高齢者とあれば人生の終幕への思いもあれやこれや湧き上がってくるだろう。こうした思いと「短日」という季語の取り合わせが実にしっくりして、我ながら惚れ惚れする一句が出来る・・ことがある。ということで、毎年この時期になると「短日」の句が新聞雑誌の俳句欄にどさっと出て来る。
この句は「老い」との取り合わせから、一見、凡百の「短日」句に右へ倣えのマンネリ句のように思えるが、実はなかなか深い。窓辺に座り、西に落ちる日を眺めやる逆光の中の妻を「老いたなあ」と見つめながら、自らを見つめているのだ。「窓辺の妻」という叙述が部屋の奥から妻を見守る作者を浮かび上がらせる。句友たちも「こう詠む人こそ己の老いを実感している」(十三妹)、「老を感じるのは、こんな瞬間です」(卓也)と的確に読み取っている。
(水 24.12.03.)
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