身に入むや類想類句といふ奈落 廣田 可升
『この一句』
俳句を長年作ってくれば、「類想類句」という落とし穴にはまってしまうことがある。初心者のころは、何がなんでも五七五に従って句にしようとして、出来上がったものが他人の作品と似ていることなど気づかない。ところが俳句に慣れてくると、「はて、これは以前に誰かに詠まれたのではないか」と気になるものである。
手練れの作者がこの境地におちいり、「身に入む」ほどのうすら寒さを覚えたようだ。類想といい、類句といい、筆者もふくめ‟俳句作りの壁”を前に悩む人は多い。それを奈落に落ちたようだと作者は詠んだ。類想類句と一口に言うけれど、その定義はありやなしや。類句は、読めば大抵の俳句愛好家すぐ分かるほどの単純さがある。「あの有名句とよく似ているね」と。いっぽう、類想(ちょっと驚き。この言葉は辞書にない)はどうだろうか。この句は同じような発想だから、類想だと決めつけられないのではないか。俳人は森羅万象に感じて俳句を作る。同じ発想になるのは避けられない。日経俳句会では毎回百句を超える投句があり、兼題には同じ発想で作られた句がいくつも並ぶ。そのなかで、この句は他より優れているという評価が下され高点を得る。
乱暴に私見を言わせてもらえれば、類想と類句が一つに重なるとまずいということになるのではないかと思う。和歌連歌の世界でも、先人の余情・用語を取り入れた本歌取りがあるとも思う。
(葉 24.09.28.)
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