庭先に干されしおまる曼珠沙華 斉山 満智
『この一句』
「おまる」とは乳幼児や病人用の室内便器。健康成人だけの家庭には無縁のものだが、乳児や寝たきり老人を抱える家には必需品だ。おまるは有史以来重要な家庭用品として生き続けてきたものなのだが、「不浄のもの」として常に日陰に押しやられてきた。こうして俳句に詠まれることなど滅多に無いことで、この句はその点でも特筆大書すべきものである。
古代日本語で排便することを「まる」と言い、時にはその落下物のことも言っていた。排尿は「ゆまる」と言うのだが、いかにもという感じである。『源氏物語』などで想像する奈良平安の大内裏や貴族館は実に優雅だが、実際は極めて不便な暮らしを強いられていた。その最たるものが「用足し」である。今のように自由自在に水道配管して必要箇所にトイレを設けるというわけにはいかない。屋敷内でもぐんと離れた所に設けられる。十二単をまとった御婦人方は間に合わないこともしばしばだったに違いない。というわけで「おまる」は大昔からの必需品だった。
さてこの句の鑑賞だが、私は一読、この「おまる」は乳幼児用のものではなく寝たきり老人のものではないかと思った。ただ食べて、排泄するだけの日々。真っ白なおまるが真っ青な秋空に干されている。その主人公が遠からず行く浄土を飾るという曼珠沙華があかあかと陽に映えている。
(水 24.09.12.)
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