買い物に出し妻いづこ遅日なり  須藤 光迷

買い物に出し妻いづこ遅日なり  須藤 光迷

『季のことば』

 2月が足早に終わり桃の節句も過ぎれば、日暮れがやや遅くなったと実感する。歳時記には「遅日」と「日永」は同意だが、遅日は日暮れが伸びることに重きが置かれるとある。我ら老句友の平均年齢は70をゆうに越える〝日暮れ族〟だ。毎日が暇と言っていい年金生活。なかにはまだ現役で頑張っている人もいるが、おおかたは日がな一日夫婦顔を突き合わせて余生を過ごしている。
 そういった日常の中でこの句の「妻いづこ」に同感する。作者の妻は夕食の食材を買いにスーパーに行ったのか、はたまた新しい春の装いをと思い立って都心のデパートにでも出掛けたのか。想像するばかりで実情は分からない。留守番の亭主は手持無沙汰である。俳句をひねったり読書もしたりして時間をつぶしているが、それにしても帰りが遅い。そろそろ腹が減って来たなあというところか。筆者ならスマホで「今どこ?」「帰りは何時ごろ?」などと訊きたくなるが、うるさがられるのが落ちでこれは禁じ手。
 愛妻家であり我慢強い作者のことだから、悠然と帰りを待っている。その姿が目に浮かぶ。この句からは夫の苛立ちめいた気配はうかがえない。妻の帰りを待つ世の亭主族の心情を詠みながらも、それと一線を画す感じがするのである。妻を気遣いつつ遅日だからしょうがない、と下五を収めたところに作者の余裕がみえる。
(葉 24.03.22.)

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