湯豆腐や相棒おらず湯気ばかり 藤野十三妹
『この一句』
湯豆腐という鍋物は、一人か二人で食べるイメージが強い。小鍋仕立で一人酒の肴としたり、恋人や夫婦差し向かいで味わう場面が浮かぶ。大人数になれば、やはり寄せ鍋とか水炊きとか、具材の多い鍋が選ばれるであろう。
掲句は、ひとりで湯豆腐鍋に向かう人を詠む。下五の「湯気ばかり」の措辞が心に響く。以前は鍋の向こうに相棒がいて、おしゃべりしながら食べたのに、いま目にするのは湯気ばかり。愛する者を失った悲しみが、じんわりと伝わってくる。
作者は一年半ほど前に、長年連れ添ってきた相棒(夫)に先立たれた。これまでに詠んだ句は「老夫ありし去年の師走のなつかしき」、「亡き人の故郷遠し夏の月」など追悼の句が大半だ。掲句もそれに連なるものだが、どこか吹っ切れた感じがある。「相棒おらず湯気ばかり」の言い回しには、自分を客観視し、一人で鍋の前に座る姿を面白がる俳味も漂う。
亡くなった夫の埋葬先の調整、遺産相続の手続きと、この一年半は後始末に追われる日々だったと聞く。そうした年月を経て、悲しみは胸の奥底に沈潜し、少しずつ前を向き始めた作者の心境を映した句ではなかろうか。「久保田万太郎の句『湯豆腐やいのちの果てのうすあかり』の続編みたいだ」という大澤水牛氏の句評を添えておこう。
(迷 23.12.13.)
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