難病の癒ゆる日ありや薄暑光 徳永 木葉
『この一句』
病気にまつわる句を評するのは難しい。どうしても、句そのものよりも病気という事実が先に立つ。いうまでもなく、病気の当事者は作者であって評者ではない。どんなに言葉を尽したところで、他人事をとやかく論じているに過ぎないとの誹りは免れないであろう。ましてや難病である。それでも、この句にコメントを書きたいと思った。
この句が読む者を惹きつけるのは、やはり、「薄暑光」という季語を用いたことにあると思う。歳時記によれば、「薄暑」は、初夏のころ、やや暑さを覚えるようになった気候、と説明される。それはやや汗ばみ始める頃でもあり、もやもやした気分が作者の不安な心境につながるところがある気がする。そんな薄暑の季節にさす光が「薄暑光」である。
ここで「薄暑光」が用いられたのは、中七の「癒ゆる日ありや」のあとに、五音の「薄暑光」を置くことによって句調が整うから、ということだけだったのかもしれない。しかし、筆者には、「薄暑光」の「光」が、「癒ゆる日」につながる希望を表す文字に思えてならない。作者にそういう意図があったかどうかとは別に、そのように解釈することで、句の重みはいっそう増す気がする。
いずれにせよ、一日も早く、作者に「癒ゆる日」が訪れることを願うばかりである。
(可 23.05.12.)
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