穀雨かな土の呼吸を聞きをりぬ 水口 弥生
『季のことば』
しんみりとして気分の休まる、とても良い句だ。7日付けのこの欄に載せた「鋤き畑の穀雨の雨になりにけり 正市」という句とも相通じる気分があるが、この句は畑とは限らず、庭先のほんの小さな植込みでも良いし、町中の公園でも、あるいは住宅街の小道でもいい。植物、動物あらゆるものを生み育てる大地の息吹を「ゆく春」の中で感じ取っている。
「穀雨かな」と冒頭に据えたことにより、この普段見慣れない聞き慣れない季節の言葉についてあれこれ考えさせる。これを意図してこしらえたのだとしたら、ものすごく技巧的な詠み方だなと思う。
俳句は季節の歌である。季語を詠み込むことによって、季節の移り変わりとともに、自然界の動きや人間世界の種々相に思いを馳せることになり、それに載せて、その時々の自らの思いを述べるという筋道になる。
そういう順序に従ってこの句を読み直すと、さらに思いが深まる。たまたまカレンダーに書いてある細かな字を読んでいたら「穀雨」とあった。昔の暦の言葉らしいので早速辞書で調べた。なるほどそういうことなのかと、今までさしたる感慨も抱かずに眺めていた地面が、なんだか急に息づいているように思えてきた。──果たして作者がそんな思いからこの句を作ったのかどうかは分からない。が、なんとなくそんなことまで感じる句なのである。
(水 23.05.09.)
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