春光や我れ単線の客となる 金田 青水
『合評会から』(酔吟会)
道子 春の暖かい日に、単線のゆったりした時間に身をゆだねる姿が映像として浮かんできていただきました。
而云 これは、日頃よく知っている場所ではなく、人があまり行かないような場所へ、わざわざ訪ねて行くのだと思います。それが「我れ単線の」という措辞に表れている気がします。
愉里 私は単線をよく使っています。春になると、単線が走っているような観光地では、いろいろな集客キャンペーンをやっていますね。
てる夫 「我れ単線の客」という措辞に、「どこそこに行ったんだ」とか「どこそこに行くんだ」ということを天下に知らしめたい思いを感じます。「春光」の気分の良さに合っている気持ちのいい句です。
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「単線はありふれているし、乗っているのは我に決まっているだろうと思って採りませんでした」(三薬)という厳しい評もあったが、「春光」という季語によく合っている。「我れ単線の客となる」という大仰な詠み方が効果を発揮している。
あちこちが傷んできて、ついつい出不精になってしまう自らを奮い立たせ、見知らぬ土地を訪ねようというのだ。乗り込んだはいいが、乗客が誰もいなくて急に心細くなったりする。
(水 23.03.28.)
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