秩父路や門扉に鹿の皮を干し  玉田 春陽子

秩父路や門扉に鹿の皮を干し  玉田 春陽子

『この一句』

 合評会で高点を得たが半面異論も出た一句である。筆者は採らなかったのだが、「鹿」の兼題にこたえるのに十分雰囲気がある句と思う。いまどき、仕留めた鹿の皮を剥いで干す生活場面があろうかという気は確かにする。しかし秩父なら今もあり得る。なにも昔話だと断ずることはない。鹿の食害は山を持つ人たちにとって悩みの種だ。苗や若木を植えても鹿に食い荒らされて、山の再生ができないという。有害獣として駆除しようとしても、駆除後の始末にいろいろな隘路があったとも聞く。現在はジビエとして都内のレストランや道の駅などで供されるようではある。エゾシカの北海道では、以前から鹿肉ステーキは地元でお馴染みである。
 たとえ昔話にしろ、民家のどこかに鹿の皮が干されている光景を見たことがない。奈良公園や宮島の鹿を詠んだ投句が多いなかで、異彩を放つ句であった。
 何に異論が出たのか。まず「門扉に干す」である。人の出入りする家の門に鹿の生皮など干さないという声。でも筆者は秩父なら許されるかとも思うが、作者によれば実は場所は裏木戸だったと言う。それなら「門扉」は修辞ということでよかろう。「秩父路」も安易だとの声。何々路というと、句が緩んでしまう気がするとの指摘があった。異論は異論として措いて、五十年前を詠んだという秩父出身の作者は、いつもの巧者ぶりを発揮した。なめした鹿皮のあのぬめるような手触りを感じた句である。
(葉 22.11.01.)

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