亭主打ち女房はこぶ今年蕎麦 田中 白山
『季のことば』
「今年蕎麦」とは歳時記に見ない季語である。おそらく作者は「今年米」とか「今年酒」などの季語を蕎麦に敷衍したのだろう。「新蕎麦」という九月兼題に対し「走り蕎麦」というただ一つの言い換えに飽き足らなかったのか、今年蕎麦なる新しい季語を考えたのではないか。句友全員が新蕎麦あるいは走り蕎麦として投句しているなか、作者は「今年蕎麦」と一工夫した。俳句に新味を打ち出そうとしたのだと筆者は理解している。
「今年蕎麦」には新蕎麦、走り蕎麦がもつ収穫したてというイメージはやや乏しい。逆に言えば蕎麦の鮮度の長さを感じさせる。この先三カ月程度は今年収穫した蕎麦の新物に違いないのだから。気候が逆の南半球タスマニア島産の蕎麦が、春先から初夏にかけて日本の端境期を補っている。日本産の新蕎麦と風味がどう違うのか、蕎麦通でない身には分からないが、いつも美味しく賞味している。生鮮物はいまや外国産を含めれば年から年中手に入る。とはいえ蕎麦はこれからも国産の初物が珍重されるのだろう。日本人の味覚の原点の一つである。
掲句はごくありふれた情景ではある。町中の小さな蕎麦屋では亭主と女房の二人で切り盛りしているところが多い。亭主が店奥で蕎麦を打ち、茹で、注文の品に仕上げる。かたわら女房は客あしらいしながら出来上がったものを運ぶ。年季の入った夫婦でもよし、店開きしたての若夫婦でもよし、夫婦の息が合った生業がこの句の風景にある。
(葉 22.09.12.)
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