新涼や訪ふ人の顔やさし   山口斗詩子

新涼や訪ふ人の顔やさし   山口斗詩子

『季のことば』

 「訪ふ(おとなふ)」というのだから、作者が訪ねて行った先の人だろうと思うのだが、訪ねて来た人ということも考えられる。しかし、それは深く詮索せずともよかろう。とにかく久しぶりに会った相手の表情がやさしくてほっとしたのだ。これも新涼のおかげなのだろうと安堵している。この時期の情景がよく浮かぶ佳句である。問題は「新涼」という季語についてである。この句は何月何日頃を詠んだものなのかと考えたら、分からなくなってしまった。
 「新涼」は初秋の季語。俳句で「秋」は8,9,10月、それぞれ初秋、仲秋、晩秋とされている。すなわち「新涼」とは、暦が秋に変わり改めて感じる涼しさを云い「8月の季語」となる。しかし、8月と言えばむやみに暑い。夏の絶頂であり、「秋涼し」なんぞと乙にすましてはいられない。
 ところが俳句は虚構の世界に遊ぶところがあるから、季節を先取りして知的ゲームを楽しむことがある。暑いを涼しいと言う、洒落や粋の世界である。
 さはさりながら現実世界との折り合いをつけねばならぬこともある。実際に、秋なのにこのクソ暑さと毒づくこともあれば、暑さの中の涼しさということもあるからである。こうしたことを考えると、季語には使用時期が定められてはいるものの、そこにはある程度の幅が認められても良さそうだ。「この季語は何日から何日まで」などと杓子定規でなしに、「その頃に見合った趣」を尊重して使用期間の伸縮を認めるのだ。「季感の尊重」と言ってもいい。この句を眺めて、「季語の広がり」ということを考えた。 (水 22.09.05.)

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