寛解や栗の花さへ芳しく 谷川 水馬
『この一句』
この句の作者が水馬さんであると知って嬉しくなった。ぜひこのコラムで採り上げたいと思ったが、病状にまつわることなので想像で書く訳にも行かず、作者にメールで問合せた。
以下は、その問合せに対する応え、すなわち、作者の「自句自解」である。
「中咽頭がんの手術を2回続けてやって、もう4年が経ち、経過観察のCT検査も年2回に減って、検査前の恐怖心もほぼ無くなりました。しかし、やはり一度がんを患うと”完治”という言葉ではなくて、“寛解”というなんとも鬱陶しい響きの言葉しか使えなくなります。本当に、私には似合わない感覚なのですが、”寛解”とともに生きなければならないのだなと思えた時に、身の回りのもの全てが、一期一会とか『ありがたい』と思えるようになったのは誠に不思議なことです。これまでなら『迷惑な匂いやなあ』としか思えなかった栗の花の匂いも、『そうかそうか頑張って花を咲かせているんやね』と思えるようになっている自分の気持ちを込めた句です」
栗の花の匂いは、男性の生あるいは性を想起させる「迷惑な匂い」である。その匂いさえ「芳しく」思えるとは、まさに作者自身の生が漲りつつあることの暗喩だと解釈しても、あながち的外れではない気がする。
(可 22.07.07.)
この記事へのコメント
迷哲
金田青水