春愁やさん付けで呼ぶ元上司   田中 白山

春愁やさん付けで呼ぶ元上司   田中 白山

『この一句』

 かつて、終身雇用・年功序列・企業内組合などが日本的経営の特徴として、どちらかというと肯定的に語られる時代があった。いまや非正規雇用が増え、新入社員は早期に転職、能力主義という名の選別、高齢化に伴なう定年延長や再雇用の増加など、当時からは想像も出来ない労働環境に変貌している。そんな状況なのに、相変わらず名前ではなく役職で上司を呼ぶ慣行が生きていて、部下を君付けや呼び捨てにする職場も多いようだ。
 掲句はそんな会社の慣行を背景にした一句であるが、「作者がさん付けで元上司を呼ぶ」とも、「元上司が作者をさん付けで呼ぶ」とも、どちらともとれる句である。例えば、昨日まで部長だった人が再雇用された時には前者だろう。あるいは、退職したのだから上も下もない、お互いにさん付けでやろうじゃないかという元上司は後者である。当日欠席された作者に自解をお願いしたところ、退職して久々に会った元上司からさん付けで呼ばれ、「嬉しいやら、寂しいやら、ちょっと複雑な気分」だったとのことで、後者であった。
 この句を採ったものの、この句に「春愁」の季語が合うのだろうかと少し思ったのだが、作者の「ちょっと複雑な気分」というのを聞いて、なるほどこれは「春愁」だと思った。上司を部長と呼ぶ安心感、呼び捨てで呼ばれて飲み屋に誘われる幸福感。そういうものも、あの時代には、たしかにあった。
(可 22.03.10.)

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