秋深し萬年橋に探す亀 須藤 光迷
『この一句』
芭蕉の旧跡をたどる深川吟行で、萬年橋のたもとで詠まれた句である。
江戸は17世紀末には人口百万人を超え、しっかりとした町割りと水道まで普及した世界最大の都市に発展していた。この大都市の消費を支えるための物資を運ぶ大動脈が隅田川。関西、東海からの産物を日本橋に運び、房総・常陸さらには東北の産物を利根・荒川水系から受け継いで繋ぎ、それを脇から支えたのが運河小名木川であった。その小名木川が隅田川に流入する門戸にあるのが萬年橋である。
塩、米、麦、味噌醤油、酒、海産物、野菜、木材などをせっせと江戸に運んだ小名木川。江戸時代から大正の関東大震災までこの水運は生きていた(細々とだが昭和30年代までは実用に供されていた)。河口の萬年橋も重要な橋。この橋番は収入源として川で取れる鰻、泥鰌を売り、「放し亀」を売ることを認められていた。「放生」という、捉えられた生き物を放ち逃してやることによって果報がもたらされるという俗信に基づいた行いで、特に「亀は万年」ということから萬年橋の亀の放生は名物になっていた。広重の「名所江戸百景」の萬年橋の図も吊るされた亀だ。
放された亀は「あ、またか」とその辺に撒かれた餌を食べ、のそのそしているうちに橋番や付近のガギ共にまたまた捕まえられて吊るし亀にされる、という話が残っている。古典落語の本題に入る前のマクラとして昔はよく使われた。この句はそういったことを巧みに詠み込んだ傑作である。
(水 21.10.24.)
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