油壷帆に遊びをり赤トンボ 池村 実千代
『おかめはちもく』
油壷は東京近辺では知られた地名だが、全国的に有名というわけではない。無論、その情景や雰囲気を知る人はそれほど多くないだろう。俳句に固有名詞を詠み込む場合、この知名度ということが問題になる。聞いただけで誰もがその辺りの景色を思い浮かべる地名だと、季語以上の働きをする。しかし、そうした名所は既にたくさん詠まれているから、安易に用いると古臭い陳腐な句になってしまう。と言って、誰も知らない地名では読者が何の感慨も抱かず、役立たずの言葉になってしまう。さてこの「油壺」はどうであろう。微妙なところである。
神奈川県の三浦半島突端の三崎にある油壷は、その名の通り湾口がすぼまり湾内はまるで油壺のように年中波一つ立たない海だ。両岸切り立った崖で鬱蒼たる森。実に静か。岬の上は戦国時代に栄えた豪族三浦氏の新井城があった。油壺湾と新井城の岬を隔てたもう少し大きな湾は小網代湾。両方とも絶好の船着場で、素晴らしいヨットハーバーが三つ四つある。作者はそこに自家のヨットを係留していて、しばしば通う場所のようだ。それですっと「油壺」と詠んだに違いない。慣れ親しんだものだと、ついこうした用い方をしてしまう。
油壷のヨットハーバーには赤蜻蛉が手でつかめるほど舞い、帆や綱に止まる。秋晴の湾内のヨットハーバーののんびりした感じが「帆に遊びをり」によく現れている。というわけで、この句は語順を入れ替えただけでがらりと変わるのではないか。「赤蜻蛉帆に遊びをり油壷」 こうすると油壷という珍しい地名も生きてくる。 (水 21.09.16.)
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