踊り終へ生身の人となりにけり 宇佐美 愉
『合評会から』(三四郎句会)
賢一 ああ、疲れた。あまり無理をしないように。早くこんな光景が戻ってきて欲しい。コロナめ!
有弘 法悦から現実へ戻る瞬間をとらえた。
豊世 人の身の神仏に近づくか、又帰る。お疲れ様でした。
信 踊りは神に捧げる行動であったから一心不乱踊った後の快感が何とも云えぬ心地良さ、神では無かったと汗を拭き拭き思ったのでしょうね。
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「一心不乱に踊っている時と踊り終えた時とでは、踊り手の雰囲気は大きく変わり、子どもながらとても不思議な感じがしました」と作者は子供時代の盆踊風景を思い出す。
盆踊は平安時代の空也上人の念仏踊りが元になり、鎌倉時代には一遍上人の踊念仏が一世風靡、やがてお盆行事に取り入れられていったという。祖先の霊と一緒になって踊り、忘我の境を舞狂う。へとへとになり、倒れる寸前まで踊る。そうすることによって祖先の霊は慰められ、いつのまにか自分の悩みも消えてすっきりする。
寝て起きて、働き詰めに働いて日曜日も無く娯楽もない、極端に言えば昭和三十年代までの日本人の暮らしはそうだった。盆踊は庶民にとってまさにRecreationだったのである。
(水 21.09.09.)
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而云