蝉しぐれまとひて山の郵便夫   中嶋 阿猿

蝉しぐれまとひて山の郵便夫   中嶋 阿猿

『この一句』

 『郵便配達夫ルーラン』というゴッホの絵がある。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というジェームズ・M・ケイン作のミステリーがある。『イル・ポスティーノ』というイタリア映画は、亡命した詩人と彼に郵便を届ける島の青年との交流譚だ。郵便物という私信を人々に届ける配達員には、何かしらの物語性を帯びているのだろう。様々なジャンルで主人公に選ばれている。
 掲句は、郵便配達員が蝉しぐれを浴びながら山の奥を走り回っているという景を描き、句会では一二を争う人気だった。それにしても「郵便夫」とは、何とも古めかしい響きだ。この句を採った人も「どことなくノスタルジアを感じさせる」(水馬さん)や「古い言葉を持ってきたもんですなあ」(水牛さん)と気になった様子。「夫」には「労働に携わる男」という意味があるが、今はほとんど遣われなくなった。
 作者によると、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ山形県の立石寺での吟だという。山寺とも呼ばれるこの寺は山の上に聳え、参道は千段を超える階段だ。途中には芭蕉を偲ぶ「せみ塚」もある。その階段を作者があえぎながら登っていると、郵便配達の男性が平然と追い越して行ったという。「郵便夫」が醸し出す物語性と、芭蕉へのオマージュも込めたであろう〝蝉〟しぐれが、絶妙な効果を発揮して味わい深い。
(双 21.08.22.)

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