僅かなる片蔭に待つ赤信号 久保田 操
『合評会から』(酔吟会)
鷹洋 わかるわかる。片蔭を探して電柱に寄り添って信号が青になるのを待つ。2、3人が密になっていることもある。
水馬 私も影がどんなに細くとも影らしい黒いところに立ちますね。
水兎 私も3メートルくらい後ろの木陰で信号が変わるのを待ちます。真夏は僅かな陰でも違いを感じます。
* * *
今回「片蔭」に投句された23人の句のほとんどは視覚的であり、逆に取り合わせの句は二つ三つに過ぎなかったかと思う。目の前にある夏の外界、ことに歩いているとき立ち止まったときの描写が多かった。この句は信号待ちの作者が暑さに耐えかね、ちょっとの木陰に逃げ込む自画像を詠んだものだ。選句者も異口同音に「私もそうです。そうします」と同調している。たとえエアコンが十分利いた車を運転しているとしても、木陰のあるところまで進んで停車するのが人情だろう。まして太陽熱でとろけそうになった歩道にある作者にとって、片陰は砂漠のオアシスにほかならない。「僅かなる」が切実さとちょっぴりの情けなさを一語で表して実に効いている。
(葉 21.07.30.)
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