段ボールに籠りて生きる日は遅し 髙橋ヲブラダ

段ボールに籠りて生きる日は遅し 髙橋ヲブラダ

『季のことば』

 「日は遅し」とは日の暮れるのが遅いということ。俳句では「遅日(ちじつ)」という春の季語で、同類の「日永」とともに、俳人にこよなく愛されている。「日永」は春になって温みを増して来るにつれ、昼間がずいぶん長くなったなあという嬉しさを表すことに重点が置かれている。これに対して「遅日」は「暮れるのが遅くなった」ことを強調している。
 「段ボールに籠りて生きる」は言うまでもなく、公園や河原や橋の袂などにブルーシートや段ボールで囲いを作り、籠居している人たちである。この人達にとって夕暮れから宵の口は目当てとしているゴミ捨て場などを巡回する潮時であろう。日暮れが遅くなるのも良し悪しということがあるようだ。
 「『用なしだけんど死ねんもんね』日向ぼこ 熊谷愛子」というどきっとする句もあるが、掲出句にはこれと相通ずるところがある。ただ「段ボール」句の方は見たままを何の造作も加えずに、そのまま詠んでいる。どちらがいいと比べる必要は無く、どちらも読むものの心を打つ。
 感情の迸りに駆られて、人はいとも簡単に命を断つことがあるが、一旦立ち止まれば、そう易易と死ねるものではない。「何が面白くて・・」などと言う人間がいるかも知れないが、ただ「生きる」ことが目的の人生だってあるのだ。そんなことを思わせる句である。
(水 21.06.11.)

この記事へのコメント

  • 高橋ヲブラダ

    家の近くに路上生活をしていらっしゃる方々がいて、その皆さんの日々の生活は伺い知れませんが、どのように時間を過ごされのか、またその時間はどのようなものなのでしょうか。寝起きする場所がどこであろうと、他人の生活を勝手に想像することは、敬意に欠けることでしょうか。
    柳 美里の「JR上野駅公園口」はすごい小説でした。
    2021年07月04日 23:11