徘徊のごと歩きたる遅日かな 廣上 正市
『合評会から』(日経俳句会)
加藤 暖かくなってきたので、散歩にでも出かけたのでしょう。私も気のおもむくまま散歩に出かけるので、その気持ちがよくわかります。ところが、年のせいか思わずよろけたりして、徘徊老人のように見えるのかも知れません。それでも本人は一生懸命に歩いているはずで、「頑張れ」と応援したくなります。
工藤 健康のため歩かねば、と距離をかせごうと無理するが、いつの間にか体力を超え、疲れ果てている。
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「俳諧は徘徊なり」というと語呂合わせに聞こえるかも知れない。しかし、かの「おくの細道」にしても、紀行文と言えば聞こえはいいが、徘徊の記録と見做すこともできる。俳句には吟行という句友らと名所旧跡などを訪ねる催しがある。芭蕉は曽良を連れてそれをなしたのだと…。
この一句の散歩は、日が落ちるまでには大分時間がありそうなので、気の向くままにテクテク、ブラブラという次第なのだろう。子雀の声を聞き、葱坊主に目を留めながらの逍遥である。これは一人吟行にほかならず、いずれこの散歩から生まれた句が披露されるのではないか。
(光 21.05.14.)
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