泣きじゃくる赤子の頬に花吹雪 久保田 操
『季のことば』
桜ほど日本人に愛されてきた花はない。咲くにつけ散るにつけ、桜の花に心情を重ねて俳句や短歌に詠んできた。花と言えば桜を指し、関連する季語も多い。散る桜を表す季語だけでも、落花、飛花、花散る、散る桜、花の塵、花筏など枚挙にいとまがない。花吹雪もそのひとつで、咲き誇った桜が風に散り乱れる様を吹雪に譬えたものである。
掲句はその花吹雪に泣きじゃくる赤ん坊を取り合わせる。眠る赤ちゃんや笑う子供と桜の花を詠んだ句は時々見るが、泣きじゃくる子は意外性があり、俳諧味を感じる。実際に見た光景を詠んだ写生句でもおかしくないが、意識して取り合わせた句と考えたい。花吹雪は盛りを過ぎた桜が、最後に見せる壮麗な滅びの舞である。これに対し、泣きじゃくる赤子は懸命に生きようとする生命力の象徴といえる。滅びの美と生命の泣き声が一句の中で交錯する。
同じ日経俳句会に「花吹雪両手に受けて吾子駆ける」(岩田三代)の句も出され、高点を得た。花吹雪を掴もうと駆け回る子供の姿が浮かんできて、微笑ましい。幼子と花吹雪の句が、同じ句会で並んだのは偶然も知れない。しかし滅びをはらんだ花吹雪の妖しい美しさに対抗するものとして、無意識のうちに幼子のパワーを求めたと思えてならない。
(迷 21.05.05.)
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