桜さくら今日もどこかで人が死ぬ 嵐田双歩
『この一句』
合評会でこの句に対する選評を聞いていて、「桜」あるいは「花」に対するイメージは実にさまざまだなと思った。「桜の樹の下には死体が埋まっている」という小説を思い出した人がいた。戦前の軍隊や特攻隊の「散る桜」をイメージする人もいた。また、西行の「ねがはくは花の下にて春死なん」の歌も忘れることができない。
それぞれニュアンスは異なるが、日本人の死生観の中心に、「桜」あるいは「花」のイメージが纏わりついていることは間違いなさそうだ。いっぽうで、「桜」に華やかで浮かれた気分を感じるという人もあり、この方にとっては「桜」を「人の死」と取合わせることには違和感があるようだった。花見の宴会など、現代はこのイメージの方が主流かもしれない。
この句は季語の「桜」に「今日もどこかで人が死ぬ」という至極当たり前の措辞を取合わせただけの句である。俳句は具体的なモノやコトを詠むことを善しとするのに、ここで詠まれている死は、誰かの具体的な死ではなく、抽象的で一般的な死である。こういう句はひとつ間違えば達観や観念論に傾斜してしまう恐れがある。しかし、この句は外連味なくさらっと詠まれたことで、読み手に「あゝ、そうだなあ」と共感させる、しみじみとした味わいのある句になっている。「桜さくら」と表記を変えてダブらせたことも、とても効果的である。
(可 21.04.19.)
この記事へのコメント