御仏の右ほほ染める寒あかね   金田 青水

御仏の右ほほ染める寒あかね   金田 青水

『この一句』

 景を詠むにあたり、あれこれ詰め込んだり、漠然と描写するのではなく焦点を絞ることが大切、とは俳句の入門書のよく説くところ。この句がまさにその好例だ。仏像に冬の夕日が差している景を詠んだのだが、「右のほほ」に焦点を絞ったことで臨場感が増した。多分、寒茜は仏像の右側全体を照らしていると思われるが、作者には殊のほか右頬の茜色が印象深かったのだろう。その気持ちを素直に描写して好感が持てる句である。
 作者は普段、散歩を兼ねた一人吟行でスケッチの腕を磨いている。この句も七福神詣での吟行詠だという。筆者は参加しなかったが、亀戸七福神のスタート地点、寿老人を祀る常光寺には石造りの阿弥陀如来像が鎮座している。写真を見ると、大きくて立派な座像だ。掲句の御仏はこのことと思われるが、聞くところによると、この寺を訪れたのは昼下がり、まだ空が茜に染まる前だ。おかしい。写生を得意とする作者に似合わぬ想像の一句だろうか。
 実は作者は、吟行への参加が決まれば、よほど遠方ではない限り一人で下見をしていると聞く。今回も亀戸に数回足を運んだという。ということは、当日の景色ではなく、下見の折りの夕景色だったのだろうか。ともあれ、句作に真摯に向き合う姿勢には頭が下がる思いだ。
(双 21.01.22.)

この記事へのコメント

  • 金田青水

    評者の暖かな眼差しにまずは、御礼申し上げます。
    自句自解する必要がないくらいな丁寧な鑑賞です。
    ご指摘の通りで、少し右に首を傾けているように見える常光寺の阿弥陀様と、この日の寒茜のすばらしさを合体させたくて、いささか潤色いたしました。
    2021年01月23日 08:48
  • 酒呑洞

    吟行句の面白さと言うか、ややこしさは、事実関係をどこまで尊ぶかという点にあるようです。この句の場合も、評者は常光寺に一行が到着したのは昼下がりで、まだ茜さす頃合いでは無かったのではないかと。私も現場に居合わせていましたから、評者のおっしゃる通りと証言します。ただ、七福神の最後、布袋尊の龍眼寺あたりまで来た時には、まさに寒茜があたりを染めていました。作者はそれを見て、ああ、さっきの阿弥陀様のほっぺたも赤く染まっているに違いないと、この句が成ったのでしょう。こうした創作は大いに許されるべきものと思います。芭蕉さんなんか、在ったものを無視し、無かったものを平気で在らしめることなど、自由自在です。
    2021年01月23日 12:31