賽銭の多寡気にしつつ初詣   山口 斗詩子

賽銭の多寡気にしつつ初詣   山口 斗詩子

『この一句』

 七福神詣の吟行句として詠まれた句である。七ヶ所もお詣りをするので、最低でも七回は賽銭をお供えするわけだが、通常はもっと回数が多くなる。本殿の他にも、境内にはたくさんの祠があり、それぞれに百円を供えると結構な金額になってしまう。それを避けるため、日頃十円玉を貯めておいて、袋に詰めて持参する人がいる。また、場合によって百円と十円を使い分けている人もいる。本殿には百円、小さな祠には十円というような使い分けである。ところが、これもなかなかうまく行かない。例えば、山手七福神の場合、恵比寿神は目黒不動尊(瀧泉寺)の三福堂という祠に祀られている。本堂のお不動様に百円を供え、七福神詣の本来の対象である恵比寿様に十円では本末転倒ではないかと、ふと思ったりする。そんなこんなで思い悩んでいると、そもそも賽銭の多寡に何の意味があるのか、と開き直ってみたくもなる。この句を読んで、作者の心のうちをそんなふうに想像してみた。けっこう面白くて、身につまされる句である。
 七福神詣をしていて、他にも困ったことがある。ここはお寺か、神社かという問題である。お寺なら合掌して祈り、神社なら拍手を打つということになるが、それがよくわからない場所も多い。七福神と「神」を名乗るのだから、そこは「神の社」であるはずだが、実際にはお寺にお詣りするケースが多い。薩長政府の神仏分離によって、それでなくてもややこしいものが一層ややこしくなった名残りだろうか。
 とはいえ、神仏を敬う心さえあれば、賽銭の多寡も、合掌と拍手を違えても、誰にも咎められることはないだろう。それよりも、本年の七福神詣ばかりは、平安無事を祈願するために、疫病神の荒れる町に出かける矛盾が気にかかる。
(可 21.01.04.)

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