南瓜煮る阿房列車の過ぎてゆく  星川 水兎

南瓜煮る阿房列車の過ぎてゆく  星川 水兎

『この一句』

 俳句を鑑賞するなかで取り合わせの妙というのものがある。へぇー、この季語にこれを小道具に持ってきたかという驚き。うまくはまれば二つの物がぶつかり合い(二物衝撃)、1+1がそれ以上の効果を生むといわれる。
逆にひとつの対象物を詠むのが「一物仕立て」。ある一点に絞ってそのぐるりを表現すれば、焦点がはっきりしているだけに明快な句になる。二物衝撃はと言えば、はまらなければただの難解句となってしまいそう。それでも、なかには空想を刺激し読者を夢幻の世界へいざなうこともある。
 上掲の句。南瓜を煮ている作者にとって「阿房列車の過ぎてゆく」とはどういうことなのか。作者に聞いてしまえば、南瓜を煮ながら内田百閒の『阿房列車』を読み進めていただけという。しかしそれを知らぬ読者は「南瓜」と「阿房列車」の関係を知りたくなり、句に吸引力が生まれる。筆者は好奇心にかられてこの句を採った。
同じ句会に「始祖鳥の夢切れ切れに夜寒かな」という句もあった。これについては当欄の11月15日付けで論じられているが、採った人の弁は「ちんぷんかんぷんだが、夜寒に始祖鳥がなんとなく合っていて面白い」というものだった。二物衝撃、難しいようで易しく、易しいようで難しい。
(葉 20.12.18.)

この記事へのコメント

  • 酒呑洞

    句会でこの句を見たときには、「何だこりゃ、ヒトをバカにした句だなあ」と思ったものです。が、南瓜のぐつぐつ煮える感じと阿房列車の感じは一脈相通じるところがあるような気がしてきました。内田百閒という人は面白い俳句を作り、小説も一風変わってて大好きです。私、現役時代、運輸観光を担当していたので、「一日駅長」はじめ国鉄のイベントに出てくる百閒老人に何度か話をきく機会がありましたが、何しろ偏屈で、人の質問を無視するので「なんだクソジジイ」と腹の中で毒づいた覚えがあります。
    2020年12月18日 22:42