すさまじや骨組み残る芝居小屋  野田 冷峰

すさまじや骨組み残る芝居小屋  野田 冷峰

『季のことば』

 芝居小屋といえば、筆者は一九六〇年代末の新宿花園神社の「紅テント」を想起する。唐十郎率いる一座のアングラ芝居は全共闘世代の若者に支持され、また社会に爪はじきにされた。同時代の寺山修司の「天井桟敷」劇も思い出す。
今や老境の作者のノスタルジーだろうか。この句の芝居小屋とはなにか。新型コロナ禍の現在、野外の芝居小屋がどこかにあるのか無いのかは知らない。ともあれ骨組みだけの芝居小屋がそこにある。やはりコロナ禍が演劇活動を止めてしまい、予定されていた公演を断念したのかもしれない。
 「冷まじ」という季語。今年はことにネガティブな感懐を抱かせる。江戸俳諧時代からの「冷まじ」は秋の涼しさを通り越して寒いという、「秋深し」の類題の意味合いがあり続けたようだ。が、現代では心象的かつ事物的なものに移りつつあるのではないか、というような解釈も合評会で披露された。筆者もそれに納得する。
骨組みだけが取り残された芝居小屋は晩秋のうすら寒さを通り越して、まるで冬の寒さを感じる。それとともに、今年の演劇・興行界の苦悩を暗示していて、まさに「すさまじや」にふさわしい光景だと思う。こうした受け取り方がこの句の本意とは離れているのか、正直いまだに分からない。
(葉 20.12.10.)

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