何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

何もない十一月の過ぎてゆく   斉山 満智

『季のことば』

 一月から十二月まで月名はすべて季語とされている。ややこしいのが、睦月、如月、弥生・・・神無月、霜月、師走という陰暦(旧暦)の異称と新暦の十二ヶ月との関係である。年によって日にちにずれがあるが、新暦が概ね一ヶ月ほど旧暦より先行している。だから睦月というのは新暦では二月になる。「さくらさくら弥生の空に」は旧暦三月だが、新暦で桜が咲くのは四月である(もっとも地球温暖化で近頃の関東では三月中に開花するが)。日本国中の神様が出雲に集まり、若き男女の結びつきを協議するという神無月は旧暦十月だが、新暦では十一月である。
 今でも粋がってこの異称を用いる俳人が多いが、新暦三月を「弥生」、九月を「長月」などと単純に言い換えて詠むと、句意や季節感を損なう原因となり、混乱を招く。ただし慣例で一月を「睦月」、十二月を「師走」という呼称が定着しているので、この二つはさておき、他の月はこの句のように数字による月名で詠んだ方がすっきりする。
 この句は十一月をまことにうまく詠んでいる。7歳・5歳・3歳の子供や孫のいない家庭にとっては、それこそ何にも無い月である。しかし農業の盛んだった時代の十一月は、一年で最も大切な祭日の一つ「新嘗祭」(にいなめさい・11月23日)が行われる重要な月だった。稲をはじめすべての農作物の収穫を終え、天皇が神に収穫を感謝し、新穀を供えて祀り、それを食べる儀式を行う。万民もそれに習い、新穀を醸した新酒で祝った。それも今や「勤労感謝の日」などというわけのわからない祝日に堕している。
(水 20.11.20.)

この記事へのコメント