夜の秋五輪マーチの虚ろなる 徳永 木葉
『この一句』
この句は2020年の夏を象徴している。出されたのは8月1日の句会。新型コロナウイルス騒動がなければ、社会は東京オリンピックに湧き返っていただろう。そういう想いが募るだけに、五輪マーチが耳に入れば、その響きは虚ろなものとなり、ひとしお身に沁みるものとなる。選手達はどうしているのだろうか、などと…。
そう、上記のような読み方が一般的なのだろう。だが、私は「虚ろなる」という一語に引っ掛かった。そしていささか臍曲がりの解釈をした。虚ろには、1年延期という結論に至った、馬鹿馬鹿しい騒動への皮肉が籠っている、と。来年、オリンピックは「完全な形で行う」そうだが、年を違え、十分な練習もできずに競技しても完全なのだろうか。
さらに、「夜の秋」という季語が、決まり過ぎるほどに決まっている。薄ら寒い感じは季節の変わり目のせいなのだが、それが五輪に狂奔する人々の心の貧しさに向けられたようにも思えるからだ。例えば、なぜ「選手村を、コロナ患者の一時収容施設に」という声が上がらなかったのか、である。本当に寂しい限りである。
(光 20.08.14.)
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