月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり

月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり

『この一句』

 この句を読んだ時、こんな詠み方もあるんだと驚きを覚えた。また、俳句はまぎれもなく定型詩であると改めて感じた。「作った」とか、「嘘だ」とかいう選評があったが、その通りだろうと思う。〈あの海〉を「海」とか、「ラ・メール」と発語した時、〈あの海〉は〈作った海〉、〈嘘の海〉になり、ほんとうの〈あの海〉から離れる。それが〈言葉の海〉の宿命であり、〈詩の海〉の始まりだろう。そして、一般的な〈あの海〉ではなく、作者の固有の〈あの海〉に近づこうとする。つくづく人間はややこしい生き物、妄想のかたまりみたいなものだ。
 自句自解を求められた作者は、小学生の頃アームストロング船長の月面着陸を見て、記憶に焼きついてしまい、それ以来月を見るとこんな感じがすると説明した。おそらく「記憶あるような」という措辞は作者の奥床しさがそう表現させたものだろう。実際の気分は「記憶あり」ではないかと勝手に想像する。人が錯覚と呼びそうな、そんな「記憶」は筆者にもある。でもこうして結語し、詩にするのはたやすいことではないと思う。感性のみずみずしさのなせる技だと思う。
(可 19.09.27.)

この記事へのコメント

  • 双歩

     1977年公開の「カプリコン・1」という映画は、人類初の月面着陸はフェイクでは、と暗に匂わせているとして評判になった。今でも、「月面着陸はキューブリックが撮ったらしいね」などとどこかの居酒屋で流言を飛ばしている酔客がいるかもしれない。
     宇宙服を着たアームストロング船長の映像が、妙に鮮明だったのをこの解説で思い出した。
    2019年09月27日 22:29
  • 水牛

    もうあれから満50年なんですねえ。あの当時の新聞社の体制はまだ極めてお粗末で、アポロ11号月面着陸が全世界にテレビ中継されているのを社会部デスクに座って、同時通訳(この言葉もこれがきっかけで定着)の西山千さんと言いましたっけ、次々にこぼす日本語だかなんだか分からない片言隻句を書き取っては、原稿を作ったことを思い出します。そんなことをやりながら、「こんなことがあっていいものなんだろうか」なんてボーッとしながら考えました。爾来半世紀、私はゆりさんのおっしゃるように、月面をふわふわ歩いてる感じで生きてきました。
    2019年09月27日 23:22