いまごろは黄菅に埋まる尾瀬ヶ原  井上庄一郎

いまごろは黄菅に埋まる尾瀬ヶ原     井上 庄一郎

『季のことば』

 黄菅(キスゲ)は夕菅(ユウスゲ)の別名でユリ科の多年草。7、8月ころの夕刻、草原などにラッパ状の黄色い花を咲かせ、翌朝しぼむ。風情あふれる花だが、鹿の食害や宅地開発などで、植生が脅かされているとも聞く。自然が豊富な尾瀬には、まだまだ可憐な黄菅がたくさん咲くのだろう。
 山男で鳴らした作者は、関東一円の山は熟知している。もちろん、尾瀬には何度も足を運んだに違いない。仮に想像してみよう。ある夏の盛り、作者は下界の酷暑をよそに爽やかな秋風を頬に受けながら、尾瀬ヶ原を歩いていた。陽が西へ傾くころ、夕菅があちこちに咲き誇り、山小屋へと道案内をしてくれているようだった──といった情景か。九十歳を過ぎた今は、足を気遣い山登りは控えているが、思いはこの季節の尾瀬に飛ぶ。
 俳句は、基本的には詠まれた十七音がすべてだ。作者の思いや句の背景などを盛り込む余地はない。ただ、ときとして作者のあれこれを知ると趣が深まることがある。この句は正にそれで、「今はもう行けなくなったが…」の思いがひしひしと伝わり、味わい深い。(双 19.09.12.)

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