配達のピザここだ此処花筵   玉田 春陽子

配達のピザここだ此処花筵   玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 これは、ウーバーの配達でしょう。「花筵」は、上野公園かな。気の利いた時事句だと思います。 迷哲 現代の花見風景ですね。「ここだ、ここだ」と立ち上がって合図する景が、生き生きと描かれています。 木葉 ウーバーなどの配達はどこへでも行く。花見の場所にもピザ到着。「ここだ、ここだよ」と呼ばう姿が見える、今日的な句。 可升 やりすぎでしょう(笑)。最後まで採るか採らないか迷いました。「ここだ此処」という措辞がいかにも読み手の笑いを誘おうとしている感じがします。           *       *      *  芭蕉の「木のもとに汁も鱠も桜かな」という名句は、「かるみ」という言葉を最初に付した句として知られている。汁や膾という卑近な食べ物を題材にして、俗を雅に謳いあげたという。  芭蕉と比べられても作者は戸惑うだろうが、掲句はどうだろう。今日の花見の一断面を、まるでその場に居るかのような臨場感あふれる描写で詠んだ。ピザのデリバリーは、客の携帯番号さえ把握できれば、花見の席など屋外でも配達してくれる。「ピザの配達」という現代の俗を巧みに取り入れ、作者らしい目の付け所が光る一句。 (双 25.04.30.)

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昭和の日沈没船に住む魚     星川 水兎

昭和の日沈没船に住む魚     星川 水兎 『季のことば』  「昭和の日」。季語として新しい。昭和天皇の誕生日4月月29日を祝日として、平成19年に新設された。いま昭和ブームである。昭和の世を知らないZ世代(1997年度~2012年度生まれを言うようだ)などが火付け役となっている。わずかに残る昭和の街並み、昔ながらの遊具、古い家電製品などに新鮮さを感じるという。母親世代がカラオケで歌う昭和ホップスも娘息子を惹きつける。終戦直後に育ったわれわれ老頭児(ロートル)が「昭和」と聞けば、太平洋戦争とその後の高度成長をイメージする。受験競争、交通戦争、モーレツ勤務を経験し、良くも悪くも昭和の残滓が身に付いている。  そのなかで常に思い起こさなければならないのが戦争の惨禍。それゆえ米英など連合国と闘い、軍民あわせて310万人の犠牲を出したことを忘れるわけにはいかない。旧日本軍が侵攻した南方などの海には、撃沈された艦船内に30万柱の遺骨が残るという。  作者は昭和の日にあたって、沈没船のなかに今なお眠る遺骨に思いを馳せたのだ。収容は深海の環境下にはばまれ容易ではなく、政府も手をつかねている状況だ。沈没船の船内には様々な魚が遊弋していることだろう。南の海であれば色鮮やかな魚が泳ぐさまは、逆にいっそう哀れさを誘う。昭和の日にこの情景を想起したのは、作者の非凡な想像力と思う。愛犬の名前モーゼを借りてものした作者の秀句、「野分立つ犬のモーゼと草の原」を思い出す。 (葉 25.04.28.)

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どの球も虹を宿せりしゃぼん玉  中村 迷哲

どの球も虹を宿せりしゃぼん玉  中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 愉里 「虹を宿せり」の措辞がきれいですね。私もしゃぼん玉の美しい景をと思ったのですが、できませんでした。こういうふうに詠えばいいのですね。 可升 虹の喩えがしゃぼん玉の色をよくとらえていると思います。ただ「球」がいいのか「玉」ではないのかと、上五の措辞をいろいろと考えてしまいました。 水牛 そうですね。なぜ「球」にしたのか、むしろ「玉」とした方がいいと思いました。 光迷 しゃぼん玉を吹いた時、わーっといっぱい出ていく感じが「球」にあり、これでいいのでは…。 木葉 「しゃぼん玉」は易しそうで難しかった。この句のように直截的な描写表現が結局いいのかも。 双歩 しゃぼん玉といえばだれもが詠む現象ですが、「宿せり」が上手い。 迷哲(作者)「球」か「玉」か悩みましたが、丸い感じを出そうと「球」にしました。           *       *       *     一読して頭に浮かんだのは「七色の虹が消えてしまったの」という歌詞である。「シャボン玉のようなあたしの涙」と続く。それはともかく、凧に風船、風車、そしてしゃぼん玉――春の季語に風にちなむ遊びが多いのはなぜだろうか。 (光 25.04.26.)

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万物の息吹く地球や春の月   須藤 光迷

万物の息吹く地球や春の月   須藤 光迷 『この一句』  宇宙パイロットのような一部の人を除いて、地球を見た人はいない。いつも見ているのは、ただの地面や大地であるし、飛行機に乗ったところで、見えるのは平野や山脈や大河。いずれもそれは地球の一部でしかない。それなのに、地球を詠んだ俳句は意外にたくさんある。写生を旨とする俳句ではあるが、「地球」として捉えてみたい何かが、俳人の心を動かすのだろう。  この句を読んで、どこかで同じような句を読んだ気がして調べてみたら、見つかった。   水の地球すこしはなれて春の月  正木ゆう子  「地球」のみならず、「春の月」との取合せまで同じである。光迷句は「万物の息吹く地球」と、春の生命の躍動を詠っている。また、正木ゆう子の句は「水の地球」という措辞で、生命の根源としての「水」、それをゆたかにたたえる地球を詠っている。いずれも、詠まれているのは、生きとし生けるものを育む母体としての地球である。  また、「春の月」は朧月である。夜空に霞む朧月と我らが地球が取合されることにより、句柄が宇宙に広がるとともに、少しうがった読み方をすれば、幽玄な雰囲気さえ感じられる句になっている。どちらの句も、ユニークな切り口で楚々と表現されていて、とても気持の良い句である。 (可 25.04.23.)

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故郷の花かたかごが首を振る   金田 青水

故郷の花かたかごが首を振る   金田 青水 『季のことば』  「堅香子(かたかご)」は片栗の古名で、花は初春の季語。大伴家持が越中富山に赴任した際に詠んだと言われる歌『物部の八十娘子らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花』(もののふのやそおとめらがくみまごうてらいのうえのかたかごのはな)」が万葉集にある。それにちなんで富山県高岡市は、市の花を片栗ではなく「かたかご」としている。「漢字なら分かったが、平仮名だったので『肩籠』かと勘違いした」とは、国語に明るい可升さん。ただこの感想、あながち的外れではない。というのも「かたかご」の名の由来は、花の形が「傾いた籠」に似ているからという説があるからだ。  一方、片栗の名の由来は鱗茎の形が栗の片割れに似ているから、といわれている。種子から開花まで7年かかるそうで、紫色の可憐な花は「春の妖精」とか「谷間の乙女」などと呼ばれ、各地の群生地は観光スポットとなっている。  掲句は席題「故郷」として出句された一句。「故郷」から「堅香子の花」を想起し、短時間でこんなお洒落な句を詠めるなんて何と達者な、と特選に推した。作者は新潟出身。子供のころ、紫の花をよく目にし、歌人の兄から「堅香子」という言葉を教えてもらったそうだ。表記は「かたかごの花」が普通だが、この句は「故郷の花」で切れるととると無理がない。ふるさと愛あふれる一句だ。 (双 25.04.21.)

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牛久大仏ぬっとあらはる朧かな  廣田 可升

牛久大仏ぬっとあらはる朧かな  廣田 可升 『この一句』  茨城県牛久市には河童が棲むという沼があって、昔は草深い所だった。現在ベッドタウンとして大いに発展している。うな丼の発祥地は牛久沼の渡しだという伝承も、沼のほとりに住んだ小川芋銭の河童絵も昔話だ。日本遺産になった明治のワイナリーが観光客を呼び、飲めばしびれる電気ブランの浅草神谷バーへと今につながる。古い牛久が残っていそうな市の外れには牛久大仏が立つ。掲句は「朧」の兼題にこの巨大な阿弥陀如来像をもってきた。作者によると、水戸偕楽園の「梅まつり」に行った帰りの夕刻、圏央道を走った時の実景だという。牛久大仏のまわりには森があって、突然視野にあらわれた。その情景を詠んだものだと解説した。  「ぬっとあらはる」に実感がこもる。高さ120㍍、ニューヨークの自由の女神より30㍍近くも大きい世界屈指の青銅像だ。黄昏どきこの仏像に突然出会えば、信仰がとくに篤くなくても思わず畏まるかもしれない。高速道からはたぶん頭か胸より上が見えた。下半身は隠れているが、全身が朧のなかにあると言っているのだ。鎌倉で「長谷大仏ぬっとあらはる」と詠んでも雰囲気は出るが、詠み古された感じがする。実景とはいえ牛久大仏のほうがずっと新鮮だ。「夕景の牛久大仏には凄みがあります」との作者の言に素直にうなずける。実際に体験した感覚を、まるで海坊主にでも出くわしたかのような表現、「ぬっと」で諧謔味まで出した。 (葉 25.04.19.)

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つちふるや電車で一人喋る人   星川 水兎

つちふるや電車で一人喋る人   星川 水兎 『この一句』  近ごろ昼間の電車でこんな光景を見かけることがある、との声が句会の席上でも出た。就職氷河期世代の決してビジネスパーソン風でない出立ちの男とか、耳慣れないやや甲高いアセアン語で早口に喋っている人とかである。  今でも多くの日本人は礼儀正しく車中などの公共の場では無駄なお喋りは控える。だから一人のお喋りはどう見ても異常だ。たぶんケータイで誰かと喋っているのだろうが、やはり不気味であり、イライらさせられる。誰もが不快だが敢えてかかわらず、じっと我慢している。  「つちふる」は春先にモンゴルや中国北部から大量の砂塵が日本列島を襲う現象だ。よなぐもり、黄沙などともいう。予期せぬ時に突然襲ってくるため、洗濯物がすっかり駄目になるなど、春先の厄介者である。洗ってすっきりしたマイカーが一夜にして泥だらけになって立腹した経験者も少なくない邪魔者である。  作者によるとこのエピソードに出会い、さてそれを一句に仕立てるに当たって季語の選択に逡巡したそうだ。あれこれ迷った末の季語が「つちふる」だったのだという。  言葉の選択など推敲の跡がしのばれるとても良い句だと思ったのだが、出来上がりがいささか地味だったせいもあって、句会では高得点とはならなかった。しかし、日常生活を不快にする理不尽な出来事のAとBをふたつ並べてそっと差し出し、しかも、その抑制の効いた語り口が私は好きだ。 (青 25.04.17.)

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高原のレタス縫い行く小海線   中沢 豆乳

高原のレタス縫い行く小海線   中沢 豆乳 『季のことば』  高温で野菜不作だった昨夏が尾を引いて、スーパーや青果店で高値が続いている。キャベツ一玉4、5百円というのを聞くと、おちおちトンカツも食べていられない。2、3月も寒波のせいで高値が治まらず、4月に入っても過去の価格水準に落着く気配はない。春の露地物が出回るようになっても高値止まりだ。  最近ではレタスも工場内で水耕栽培しているようだが、それで全国の品不足を賄いきれるとは思えない。レタスは今でこそ年中食べられる葉物野菜。さっと洗うだけで肉料理の付け合わせにぴったり。レタスしゃぶしゃぶというのもあって、ちょっと驚いた。卵サンドに挟めば、あのシャキシャキという音と相まって食感が捨てがたい。  「レタス」はそもそも爽涼感のある季語だ。「萵苣(ちしゃ)」と難しい古名で言うよりぐんと身近に思える。したがって句にもおのずと親近感と爽やかさが生まれる。主な産地は群馬県の嬬恋、長野県の野辺山周辺で高原野菜の代表格。  筆者は会社勤めのころ、仲間たちと泊りがけの夏ゴルフで長野県川上村を訪れたことがある。真夏とはいえ早朝や夜は冷涼で、なるほど高原野菜の産地だと思った。畑中を縫うように走る列車は、窓外に一面のレタスの薄緑を見るわけで、この句のとおりである。レタスは夏の季語にふさわしいと思えるほどだが、「ちしゃ」と呼ばれた江戸時代の伝統で春の季語になっている。  それはともかく、この句は「高原」「レタス」「小海線」の三題が噛み合っていて、とても…

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啓蟄や衝動買いの白シューズ  山口 斗詩子

啓蟄や衝動買いの白シューズ  山口 斗詩子 『この一句』  啓蟄は春の暖かさに誘われて、冬眠していた虫たちが穴を出る頃をさす時候の季語である。「地虫穴を出ず」とか「蟻穴を出ず」といった別建ての季語もある。いよいよ本格的な春が到来するという気分の季語に、作者は白いシューズを取合せ、弾む心を上手に表現している。  「衝動買い」の措辞からは、寒い冬は家に閉じこもっていた作者の、「さあ春だ。出かけよう」という心境の変化が読み取れる。白シューズという下五からは、足取り軽く春の野に踏み出す人物像が浮かんでくる。  句会では「何でシューズなのか、靴でいいのでは」とか「白でなく赤でもよかった」など、ちょっとした論争になった。しかし作者はあえて白シューズを選んだのだと思う。テニスシューズやジョギングシューズのように、シューズには運動靴やスニーカーのイメージがある。また白は真新しさの象徴で、衝動買いした散歩用の真っ白なシューズを履いて、いざ外へという場面なのである。  作者は今年84歳になられる。コロナ禍もあり、近年は句会への出席や遠出を控えておられるようだ。しばらくお会いしていないと思っていたら、毎月発行している句会報に随想が掲載された。生まれ育った新宿区下落合にある「おとめ山公園」を訪ね、目白側のお屋敷町を散策した様子や、幼い頃の思い出が生き生きと綴られている。早春の一日、好天に恵まれ普段の散歩の倍の1万歩近く歩いたという。随想には書かれていないが、足元は白シューズだったに違いない。 (迷 2…

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啓蟄や人の湧き出る地下出口   前島 幻水

啓蟄や人の湧き出る地下出口   前島 幻水 『季のことば』  虫が地中から這い出す啓蟄の候。今年は季節外れの陽気があったり、冬に逆戻りしたかのような寒気に見舞われたりした。しかし暦は季節どおりに移り、人々の活動も日ごと盛んになっている。  啓蟄と桜の季節はちょっと離れるが、いま桜を目当てにインバウンド客のラッシュを迎えている。東京駅や築地場外市場など都内各所には外国人の姿があふれる。老いも若きもカップルがいれば、小旗を先頭にツアーの一団も闊歩する。中国経済の減速により、一時見られた高級店への貸切バス横付けは少なくなった気もする。  日本の交通システムの利便さに気づき、網の目の地下鉄路線を乗りこなす外国人が明らかに増えてきた。文化慣習の異なる人々だから、滞日時の行動には多少の軋轢を生じる。それを割り引いて景気低迷のこの国にとっては得難い外貨収入だ。  この句の「人の湧き出る」は、なにも日本のラッシュアワーを言っているのではないと解釈する。ここは外国人観光客がぞろぞろ地下鉄の出口から出てくる情景を詠んだのだと取りたい。「湧き出る」の表現がうまい。あたかも泉から滾々と水が湧き出るようだという。じつは「啓蟄」の兼題に地下出口をもってきた発想は筆者も同じだった。「啓蟄の地下鉄出でし異人ツアー」がそれだが、1点句に沈んだ。高点の掲句との優劣は歴然か。 (葉 25.04.11.)

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