から松の散るや十勝に雪近し   徳永 木葉

から松の散るや十勝に雪近し   徳永 木葉 『この一句』  読めば広大な十勝平野の晩秋の景が浮かび、季節感と詩情あふれる句である。十勝平野は北海道東部に広がる台地で、石狩山地と日高山脈を背負い、太平洋に面している。畑作と酪農を中心に、機械を活用した大規模農業地帯として知られる。農場はカラマツやシラカバの防風林で区切られ、雪を頂く山脈を背景に、緑の短冊を敷き詰めたような景観が美しい。  その防風林のカラマツが、秋が深まると落葉するのである。一般に松は常緑樹だが、日本固有種であるカラマツだけは落葉する。針状の松葉が緑から黄色、黄土色へと葉色を変え、ハラハラと散る様は風情を誘う。北原白秋はその詩に「からまつはさびしかりけり」と詠い、小林秀雄作曲の「落葉松」は秋の雨に落葉するカラマツを嫋々と歌い上げる。  さらにこの句の詩情を深めているのは、「散るや十勝に雪近し」という措辞である。カラマツが散れば、そろそろ雪が降るといのは、実際に住んだ人にしか分からない感覚であろう。句会での可升さんの「あぁまた厳しい冬が来るんだなぁと思いつつ、逝く秋を惜しむ気持ちが伝わってくる」という句評に大いに同感した。作者は十勝平野の中心の帯広生まれと聞いている。幼い頃から目にした風景と、体に浸みこんだ北の大地の季節感。十勝に産まれ育った者でなければ詠めない佳句ではなかろうか。 (迷 24.11.29.)

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造船所失せし運河や鰡飛べり   須藤 光迷

造船所失せし運河や鰡飛べり   須藤 光迷 『季のことば』  鰡(ぼら)という魚、とにかく群れたがる。神田川や目黒川などの潮が混じる河口近くに大群が押し寄せ、テレビのニュースにもなる。水面いっぱい渦を巻くように泳ぐ姿は目を見張るほどだ。おもに内海を棲みかとする大衆魚なから、水質汚染が激しかった時代には臭みがあって敬遠され気味。ただ、きれいな海で獲ったメスの卵巣は「からすみ」に加工され、酒飲みが珍重する。出世魚の代表としても有名で、六度名を変え最後の名「とど」は「とどのつまり」の語源となっている。鰡について知られることは大方これくらいだろうか。  「鰡飛ぶや――」と俳句に詠まれる。釣り船に乗るか、河口近くで水面を見つめていなければ、こういった場面はそうそう見られない。競艇レース中の選手が飛び跳ねる鰡の一撃を受けて失神したという珍しい話もあって、大型魚の飛び跳ね方はかなりのもののようだ。  掲句の出来た場面と鰡の飛び様はどうだろうか。まずは運河べりの造船所跡という舞台設定がいい。大型船の造船所ではなく、中小の漁船などを造っていた所と思う。造船業の衰退、漁業の不振を物語って物寂びた雰囲気を醸している。いまは破れ果てた外観と赤錆びた船台でも見えるのか。上五中七で過不足なく運河周辺の光景を表現している。そこに鰡が勢いよく飛び跳ねたのだ。「静」のなか鰡の一瞬の「動」を詠んだ、秋らしい句である。 (葉 24.11.27.)

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はつ冬やほんに小さな秋でした  金田 青水

はつ冬やほんに小さな秋でした  金田 青水 『この一句』  江戸時代の謡「声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす」をもじった「声はすれども姿は見えぬ、ほんにお前は…」という戯れ歌がある。「ほんに(本に)」は、誠に、本当に、実に、という意味の副詞。似た言葉に「ほんの(本の)」があるが、こちらは、「ほんの一つ」など、次にくる言葉が取るに足りないものであることを表す語だ。掲句は「ほんの小さな秋」ではなく、やはり「ほんに小さな秋」がピッタリ。  暦の上では冬を迎えたが、11月になっても各地で夏日を観測するなど、今年も実に暑かった。気温的には〝夏〟が長かったせいで、誰もが秋は極端に短く感じたはずだ。掲句は、その昨今の気象異変をさらりと句に収めた。選者が口を揃えて言っているように、「ほんに小さな秋でした」のフレーズが何とも軽妙で、口語表現がうまく嵌まっている。暑い暑いと言っている内に、とうとう季節は初冬になった。ふり返ってみると実に秋が短かったなあ、との詠嘆を、童謡の「ちいさい秋みつけた」を借りて、洒落た言い回しになっている。  「今年は長い夏が終わったと思うといきなり冬の寒さで、本当に秋が短かった印象です。それを『小さい秋』の歌をうまく使い、『ほんに』『でした』と柔らかい口調で描写しており、うまいなと思いました」との千虎評がすべてを言い表している。 (双 24.11.25.)

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やれ笑へやれ走るなと七五三  玉田 春陽子

やれ笑へやれ走るなと七五三  玉田 春陽子 『季のことば』  「七五三」といえば十一月の風物詩であり、正式には十五日に三歳(男女)、五歳、(男児)、七歳(女児)が氏神に参る行事であると誰もが知っている。両親、祖父母にとってとにかく目出たい。一、三、五、七、九の奇数が縁起良いと言われるのは、中国の陰陽思想からきているとのことだ。そういえば、神前結婚式の三三九度の盃、三の膳付きの祝い膳はそれぞれ七菜、五菜、三菜だという。奇数信仰は今の世も厳然と生き残っている。  筆者は都内人形町あたりをよくブラつくが、この時季七五三参りの集団が目につく。子宝、安産の神社である水天宮は雑踏になるほど混む。パパ・ママ、じいじ・ばぁばを従え、ちびっ子たちが「わがまま」を尽くす日である。窮屈な着物、袴を着せられたちびっ子も大人も、神主のお払いが済むとどっと疲れが出てくる。その後に控える記念撮影がまた一仕事。疲れてご機嫌ななめなのに「笑いなさい」などと言われても。撮影が終わっていち早く表に出ようとして「走るな」と叱られたりと、受難の時間。  その日の情景を見てきたように生き生きと詠んだのが掲句だ。親としての経験ある向きなら一にもなく採りたくなる。筆者にはこの句に飛びつく理由がもう一つあった。関西にいる孫がこの句会当日、七五三参りだと聞かされていたからだ。この句を見て、今ごろそうなのだろうと頭に浮かんだ。巧みさで最高点の一角を占めた七五三句である。 (葉 24.11.23.)

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箸で食べるペペロンチーノ文化の日 廣田可升

箸で食べるペペロンチーノ文化の日 廣田可升 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 私は基本、家で食べるスパゲッティは箸でいただきます。ぺペロンチーノはオリーブ油と唐辛子と大蒜ですよね。箸で十分です。よく分かります。 てる夫 私も箸で食べています。で、いただきました(笑)。 春陽子 箸の文化の日本です。何でも箸で食べますよ、という感じがいいなぁと思っていただきました。 水牛 私は、家でもどこでも、スパゲティはスプーンとフォークでいただきます。でも、確かにぺペロンチーノは箸でもいいかなぁ。いや、似合いますね(笑)。           *       *       *     実に愉快な句である。一読してニヤリとし、わが意を得たりという気持ちになった。それにしても「文化の日」という兼題に、パスタと箸を組み合わせ…イタリアと日本の食の文化交流という答えを出した作者の機知には、ほとほと感心した。  世界には様々な麺類がある。原料も小麦に米に蕎麦など、いろいろ。それを食するのに使う道具も。だがやはり、何を食べるにしても箸がいい。使い勝手が。ナイフとフォークで舌平目のムニエルをなどというと、考えただけで肩が凝ってくる。 (光 24.11.21.)

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金継ぎの碗の温もり秋時雨    中嶋 阿猿

金継ぎの碗の温もり秋時雨    中嶋 阿猿 『この一句』  金継ぎとは、陶磁器の割れたり欠けた部分を漆で補修し、金粉や銀粉で装飾を施す漆芸技法である。縄文時代の遺跡から漆で継いだ土器が出土するほど古くからあるが、室町時代に茶の湯が盛んになると、技術的に洗練され、継いだ跡を景色として賞玩するようになった。近年は趣味として取り組む人も多く、各地の金継ぎ教室は若い女性らでにぎわっているという。  掲句は晩秋の一日、金継ぎされた碗を手に、その温もりに癒されている人物を描く。日常遣いの食器は金継ぎに向かないので、おそらく抹茶碗であろう。季語の秋時雨が、少し肌寒く侘しい感じを醸し、碗の温もりが両手からじんわり伝わって来るようだ。  時雨は冬の初めに、ぱらぱらと降る通り雨のこと。角川俳句大歳時記によれば、時雨は京都の歌人たちに歌の題材として愛されてきた歴史があり、「時雨という季語は京都で生まれ、京都の初冬の美意識として完成した」とされる。晩秋に降る秋時雨は、近づく冬と秋の終わりを意識させ、しみじみとした情感が深まる。作者は金継ぎの碗を手に、日本の伝統文化が育んだ技術と美意識の出会いを、掲句で演出したのかも知れない。 (迷 24.11.19.)

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秋深し他人の空似とすれ違ひ   植村 方円

秋深し他人の空似とすれ違ひ   植村 方円 『合評会から』(日経俳句会) 朗 秋は人恋しくなる季節。すれ違った人に懐かしい人の面影が重なったのでしょう。 阿猿 しばらく会っていないけど気になっている人、もう会えない人の面影。「あ、違った」というときのちょっと寂しい感じが秋ですね。 ヲブラダ 不思議感が、珍しい季語の側面ですね。 枕流 秋が深まるとすれ違う人も隣に住む人も気になります。           *       *       *  晩秋の爽やかな散歩日和だったのだろう。気分がいいから、思わず歩みが捗る。さっさと歩いていて、しばらく会わなかった人にすれ違った。声を掛けようかと思う間も無くすれ違ってしまったのだが、振り返ってみると、やはり人違いのようだった。そんな一瞬のところを詠んでいて、上手いものだと感心した。  令和6年の今年は夏が異常に長くて、秋をしみじみ味わう暇も無く冬になってしまった。と、思ったら11月に入ってから秋の日が訪れた。なんだか化かされたような気もするが、晩秋の気分を味わい直している。  我が家の近所にドブ川を暗渠にして「せせらぎ緑道」と名付けた2kmばかりの散歩道がある。することの無い老人たちの憩いの場になっており、この句のような情景が連日出現している。 (水 24.11.17.)

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小鳥来る百年蔵の喫茶店     星川 水兎

小鳥来る百年蔵の喫茶店     星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) 愉里 蔵を改装して今時のおしゃれな喫茶店に仕立てた風景なのでしょう。「小鳥来る」という季語に合っているかなと思って頂きました。 てる夫 百年蔵ですから、土蔵造りで壁も分厚く、中も薄暗い感じの喫茶店を想像しました。落ち着きのある憩いの場所になっているのでしょう。いい喫茶店を見つけたものだという感じです。 明生 百年も続いてきたような蔵が、今は喫茶店となっている。そこへ小鳥が飛んでくる。新旧の時代と生命が入り混じったような句だと思います。           *       *       *  今どきの観光風景を切り取った句になっているとみて、いただいた。酒蔵か味噌醤油の蔵かはわからないが、カフェ処を併設した蔵は少なくないだろう。蔵めぐりが外国人に人気を得ているという。発酵技術は日本のお家芸、外国人も醸造の現場を見たい。歳月を経た蔵のなかを見学したあと、利き酒にほんのり酔い、カフェコーナーでランチを楽しむ。「小鳥来る」の季題に、これら海を渡って来た外国人客を重ねたとも思える。ともあれ、コーヒーの香とともに日本酒でも味噌、醤油でもいいが、かすかな匂いが漂ってくる句になったのではないか。 (葉 24.11.15.)

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秋時雨蕎麦懐石の果つる頃    水口 弥生

秋時雨蕎麦懐石の果つる頃    水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 青水 大満足の吟行の、大満足のうまい蕎麦。真夏日だった昼間が嘘だったように、最後にはらりと秋の時雨が。吟行を締めくくるにふさわしい一句。 双歩 蕎麦屋で一句、と選び、中でもリズムが良いこれにしました。 迷哲 打ち上げ会場の蕎麦「石はら」は、世田谷らしい味わいのある店でした。しゃれた器に盛られた料理と漆塗の片口で頂く地酒。宴果てて外に出れば、秋時雨がぱらぱらと……。           *       *       *  句友と名所旧跡や野山などを訪ね、目に入ったものなどを詠む吟行。このときは豪徳寺から世田谷城址、松陰神社など東急世田谷線の沿線探訪で、電車や招き猫、懇親会などを句材とする競作となった。「俳句は写生」といわれるが、どの場面を切り取り、どう料理するかに作者の個性が滲み出て興味深い。  吟行の楽しみの一つに、散策を終えての歓談がある。酒も入るので、和気藹々の談論風発が繰り広げられる。この一句は、その懇親会もお開きに、というところを詠んだもの。美味を楽しんだ蕎麦懐石に、降り始めた秋時雨を取り合わせたことで、名残惜しいけど…という感じが巧みに表現されている。 (光 24.11.13.)

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主老いて荒れたる庭や薮枯らし  杉山 三薬

主老いて荒れたる庭や薮枯らし  杉山 三薬 『この一句』  私の庭を覗き込まれたような句だな、それにしてもまさにその通りなんだよなと思った。身体が十分に言うことをきかなくなって、庭の手入れを怠りがちになると、途端に藪枯らしがはびこる。  生垣を覆い、庭木に巻きついてよじ上り、次の木に移る。あっという間に庭を覆い尽くし、しまいには陰になった樹木を枯らしてしまう。長年丹精込めて仕立てた庭や庭木も、ちょっと寝込んだり、忙しかったりで半月ばかり放っておいただけで、その間もちろんヤブガラシを追いかけるようにその他諸々の雑草も盛大に茂るから、庭は雑草オンパレードで目も当てられない惨状を呈する。  今年の夏から秋がまさにこの状態になった。なんとも形容し難い猛暑の連続で、草むしりなんてとんでもない。10分もしゃがんでいたら熱射病になりそうだ。しかも、いつまでたっても涼しくならない。10月に入ってからも30℃を超える日があるという、まさにキチガイ沙汰の令和6年夏秋だった。もうどうなとなりやがれと不貞腐れるよりしょうがない。  ブドウ科ヤブガラシ属の蔓性植物で、東南アジアから東アジア、日本列島に広く繁殖する。地下茎がぐんぐんと四方八方に伸び、一旦生えてしまうと根絶するのが困難な厄介な雑草だ。これが茂るような荒れた庭の家は貧相に見え、庭の手入れもままならぬビンボー人というわけで別名「貧乏葛(びんぼうかずら)」と言う。 (水 24.11.11.)

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