秋冷の朝五枚刃の剃り心地    廣田 可升

秋冷の朝五枚刃の剃り心地    廣田 可升 『季のことば』  「秋冷(あきびえ、しゅうれい)」は「冷やか」「ひやひや」という伝統的な秋の季語の言い換え言葉で、ことに近頃は「しゅうれい」という歯切れの良い響きが好まれて、盛んに詠まれるようになった。  もともとは残暑にうんざりしている時にふと感じる「冷え」を捉えた季語で、芭蕉に有名な「ひやひやと壁をふまへて昼寝かな」があるように、この「冷え」をなんとも有難いものとして受け止める気分がある。昔は初秋の季語で、今は三秋通しての季語とされているが、どちらかといえば仲秋から晩秋にふさわしい。   番町喜楽会10月例会で人気を集めた句で、「意表をつく取合せですが、五枚刃で剃ったすっきり感と秋冷の朝の爽やかさが、うまく響き合っている句だと思います」(迷哲)、「秋冷の朝と五枚刃の組み合わせがぴったりきました」(満智)、「体も冷えた洗面所でカミソリが滑らかに滑る。五枚刃の良さ」(てる夫)というように、「五枚刃カミソリ」の剃り心地と「しゅうれい」の気分との絶妙な噛み合わせを称賛する声が多かった。  私もこの句を採ったのだが、「五枚刃」というのが唐突で果たして通じるだろうかと少々疑問を抱いた。しかし、何の問題も無かったようだ。安全剃刀の元祖ジレットが十数年前に売り出した、刃が5枚付いているフュージョンという剃刀だ。何しろよく切れるし、ブキッチョなアメリカ人でも大丈夫なように安全にできている。入浴時にこれを使って頭のてっぺんから顎の下までするすると剃って…

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ビア祭り主役の新酒ノンアルコール 前島幻水

ビア祭り主役の新酒ノンアルコール 前島幻水 『この一句』  俳句の世界で新酒と言えば、その年にとれた新米で造った日本酒を意味する。昔は農家や村の造り酒屋が新米の収穫後すぐに醸造したので、新酒は秋の季語とされた。掲句は意外にもビールの新酒を取り上げ、昨今のノンアルブームを絡ませてユニークな味わいの句となっている。  ビールは暑い盛りによく飲まれ、歳時記でも夏の季語に分類されている。ところがその年に収穫された原料を使って醸造した新酒ビールが出回るのはやはり秋だという。主原料の大麦は初夏に熟し、ホップは8月~9月初旬に収穫される。どちらも乾燥保存できるので一年中ビール造りはできるが、採れたてのホップを使った新酒は9月下旬から10月上旬でなければ味わえないようだ。  ビールの本場ドイツミュンヘンで、毎年秋に「オクトーバーフェスト」と呼ぶ世界最大のビール祭りが開かれる。新酒の時期に合わせたのだろうが、各国から600万人が訪れるという。先日のテレビニュースでも取り上げられていて、各メーカーが競ってノンアルコールビールを売り出し、どんどん飲まれている映像に、びっくりした。  掲句は、まさにその光景を活写している。作者はドイツ留学の経験があり、奥様はドイツ人。聞けばオクトーバーフェストにも行ったことがあるという。ドイツ人1人当たりのビール消費量は日本人の約3倍。同じテレビニュースが句材かも知れないが、現地事情に詳しいだけに、「あのドイツでノンアルか」との感慨はひとしおだったに違いない。 (迷 …

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秋冷やそろそろできる猫団子   斉山 満智  

秋冷やそろそろできる猫団子   斉山 満智   『合評会から』(番町喜楽会) 青水 猫団子という言葉を知らなくて、調べて見たら出ていました。最近の猫ブーム、犬ブームを反映した句でしょうか? 水兎 炬燵解禁になるまで、多頭飼いの猫はかたまりますよね。素晴らしい観察眼! 斗詩子 猫団子って?とグーグルを開いてみたらなるほど、猫ちゃんたち二匹以上になると確かに頭を突き合わせて団子状で眠ってますね。寒くなるとお互いに暖め合う姿も多くなるのかな。 水牛 昔から、猿団子という言葉がありました。猫団子はそれを応用して、最近できた言葉ではないでしょうか。           *       *       *  寒さが募って来ると、二匹や三匹の猫が寄り添うようにして寝入っているのを見掛けることがある。軒下の物入れの上やエアコンの室外機の上で。「いい場所を見付け、親子仲良くか」と微笑ましく思った。家猫ならば可愛さ一入だろう。  一方、掲示板に「野良猫が増えています。避妊手術を」という張り紙も。「世界的には人口爆発で食糧難、だが日本は少子化で…」ということが頭に浮かび、「人間はなんと身勝手なものか」といささか複雑な気持になった。 (光 24.10.26.)

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久留里から角打列車新酒酌む   向井 愉里

久留里から角打列車新酒酌む   向井 愉里 『この一句』  飲ん兵衛待望の新酒が盛んに出回る季節。全国に1400以上ある造り酒蔵、1万を超す銘柄があるという。好みの新酒をいまや遅しと待ち望んでいることだろう。近ごろは海外にも日本酒通が増え、昨年の輸出額は前年に比べ90%近くも伸びて410億円となっている(日本酒造組合中央会)という。訪日外国人の8割以上が滞在中に日本酒を飲むという統計もあり、人気の居酒屋体験が大きく働いている。  それはさておき、この句を見たとたん「角打列車」という味わい深い言葉に惹かれた。全国の私鉄、とくに経営の厳しい中小はあの手この手の誘客作戦に余念がない。JRといえどもローカル線は腕組みをしているわけにはいかない。調べてみたら今年の久留里線の角打ち列車は7月14日だった。走る列車の中、里山風景を見ながら新酒を酌んだらこんな贅沢はない。付け加えれば、窓を背に一升瓶のケースにお盆を載せて座り料理や和菓子まで出る角打ちだそうだ。  もしこのイベント列車と新酒の季語が一致している実体験ならなお素晴らしいと筆者は合評会で評した。新酒年度とは7月1日から翌年6月30日までを言うらしく、7月は間違いなく新酒の時期。不明を恥じるばかりだ。おわびに作者の弁を――。「久留里に人を呼んでくるために木更津から出ているイベント列車です。列車の中で試飲ができます。久留里には酒蔵が五つあって、新酒まつりもやっているようです」。 (葉 24.10.24.)

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秋冷や見知らぬ駅に降りる通夜  中村 迷哲

秋冷や見知らぬ駅に降りる通夜  中村 迷哲 『この一句』  「秋冷」、「見知らぬ駅」、「通夜」といかにも寂しげな言葉が連ねられ、互いに響き合って、まるで映画か小説のワンシーンのような情景を描いている。とても完成度の高い句である。その完成度の高さは、ややもすれば出来過ぎの感を与え、正直に言えば採ろうかどうか迷った句でもある。  いまどきは、家族だけでこぢんまりと葬儀を行うケースが多く、また会社勤めから離れたこともあり、遠くまで通夜に出かけることはなくなったが、現役時代には誰しもが経験している場面である。スマホがなかった時代、案内状を片手に見知らぬ駅に降り、見知らぬ町の葬儀場を探して行ったものである。  作者によれば、最近、親しかった先輩が突然亡くなられて、通夜に馳せ参じた経験を詠んだとのこと。「見知らぬ駅」はもちろん初めての駅を意味するが、それと共に、突然の訃報をまだ信じられないでいる自身の気持ちもこの言葉に託したとのこと。俳句は限られた音数で、しかも説明することを嫌う表現なので、こういう暗喩は気分としてしか伝わらない。作者の言葉を聞いて初めてわかることである。  作者の思いを踏まえて改めてこの句を読んでみると、それでなくても完成度の高い句が、より彫りの深い句として読み手に伝わってくる気がする。自句自解の効用と言うべきだろうか。 (可 24.10.22.)

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白湯一杯飲んで出かける敬老日  横井 定利

白湯一杯飲んで出かける敬老日  横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 敬老日といって気負うわけもなく、白湯一杯飲んでさあちょいと出かけるか、という元気な作者を思い浮かべて採りました。気取らずにいい句だなあ、と。 実千代 敬老、敬老っていうのを、私あまり好きじゃあなくって。白湯一杯飲んで自然に出かけてゆく様子が、とてもいい。 而云 敬老の日に白湯一杯飲むって、ちょっと格好良いなあと感じました。 明生 白湯一杯飲んで、お年を召した作者は勇んでどこへ出かけるのでしょう? 健史 からだを気遣うやさしさ。ほのぼのとした味わい。           *       *       *  白湯は健康にとても良いらしい。体が温められ、動脈や毛細血管を広げ、血流が良くなり、体内の老廃物が排出されやすくなる。さらには、胃腸が温められ、内臓の働きが活発になり基礎代謝や免疫力を向上させる、などとネットには効能が並んでいる。医学的裏付けはないようだが、冷たい水を飲むよりは明らかに身体に優しそうだ。  作者は普段から健康法の一環として白湯を飲んでいるのだろう。今日は敬老の日。御年87歳の作者は、自治体が主催する「敬老の集い」に招待されている。出かける前に日課となっている白湯を一杯。四肢の末端まで血の巡りが良くなった。来年は米寿を迎える作者は、今も元気に俳句作りに励んでいる。その源は白湯にありそうだ。大先輩を見習って、筆者も白湯を飲み始めた。 (双 24.10.20.)

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秋冷の谷より満ちて奥箱根    中嶋 阿猿

秋冷の谷より満ちて奥箱根    中嶋 阿猿 『この一句』  句を読んだ時、川沿いに建つ湯の宿をイメージした。陽が落ちたのだろう。川から冷気が這い上がってきて、温泉街全体が秋冷の底に沈んでいく。「満ちて」の措辞が効いており、秋の冷気がじわじわと谷を埋めていく様子が浮かんでくる。格調高く整った句で、奥箱根の固有名詞も秋冷の気分によく合っていると思った。9月の日経俳句会において、「冷やか」の兼題句で一席となったのもうなずける。  これに対し、句会で「こうした地形は日本全国にあり、奥吉野でも成立する。奥箱根が動くのではないか」(水牛)との指摘があった。「○○が動く」というのは俳句特有の言い回しで、別の季語を持ってきても句として成立するような場合、「季語が動く」と言ったりする。  固有名詞は大きなパワーを持っており、上手く使えば、その場所の様子、雰囲気、歴史といったものを、一言で伝えることが出来る。ただし、その固有名詞のイメージや由来が、読者に共有されていることが前提となる。あまり知られていない固有名詞を使うと、意味の通らない句になるリスクをはらんでいる。  奥箱根はよく知られている地名と思うが、範囲が広すぎて、奥箱根のどこをイメージしたかによって句の印象が違ってくる。湯本や塔ノ沢は谷沿いに旅館が建ち並び、句の雰囲気に合うが、奥箱根とは言い難い。さらに登った強羅や仙石原は谷がなく、句のイメージから遠い。もう少し範囲を絞った地名の方が、よりしっくり来たのではなかろうか。 (迷 24.10.…

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別姓に何の支障が秋刀魚焼く   須藤 光迷

別姓に何の支障が秋刀魚焼く   須藤 光迷 『この一句』  九人もの候補者が乱立した令和六年の自民党総裁選。候補者はあちらこちらで舌戦を繰り広げ、政策(とんと具体的には見えないが)やら思想信条をアピールする。争点のひとつが選択的夫婦別姓を認めるか否か。自民党総裁すなわち日本国首相であるから旗幟を明らかにせざるをえない。世論は分かれるが国民の大勢は選択的夫婦別姓を容認。生活上必要な女性あるいは心情的にそうありたい人には認めればいいという意見だ。二十年来、別姓問題は日本社会の方向を示す政策課題であり続け、与野党保守派、リベラル派の間で対立が絶えない。  センシティブな問題に切り込んだのがこの時事句だ。作者は「別姓に何の問題があるのか」と明快に断じる。夫婦別姓が当たり前になると、家庭のかたちが変わると主張する保守派の立場と相対する。一読にべもない姿勢にもみえるが、下五に「秋刀魚焼く」という庶民の「いとなみ」を持ってきた。句意と秋刀魚焼くとの相性がどうかと、合評会の場では疑問視する声もあったようだが、これが句の表情を和らげている。世間の論争など無意味で、自分は普段と変わらぬ平凡な生活を送っていると言いたいのだ。政治家の右往左往ぶりを鋭く批判しながら、柔らかく俳句に落とし込んだのは作者の手腕と思う。  「最後の挑戦」と5回目の総裁選で念願果たした石破総裁は首相になった途端に「別姓容認派」から「慎重派」になった。それだけこの問題に慎重な保守派が党内に多いのだろう。 (葉 24.10.15.)…

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もういいよもういいよねと秋の蝉 久保田 操

もういいよもういいよねと秋の蝉 久保田 操 『この一句』  鶯は「ホーホケキョ」、時鳥は「トッキョキョカキョク」や「テッペンカケタカ」、小綬鶏は「チョットコイ」など、よく知られた鳥の鳴き声がある。蟬にも蜩の「カナカナ」やミンミンゼミの「ミーンミンミン」などの聞きなしがある。秋の蟬、つくつく法師は「ツクツクホウシ」や「オーシツクツク」と鳴く。九州大学の理学部ニュースのサイトによると『鳴き始めの「ジー」から、「オーシンツクツク、オーシンツクツク」というメインメロデイを繰り返した後、途中で「ツクリヨーシ、ツクリヨーシ」とパターンが変化し、「ジー」と鳴き終わります。オスが鳴く生物の中で、このように鳴き声のパターンが途中で変化するものは、他に類を見ません』という。その上で「前・後半パートで、鳴き声を聞いたオスの応答が異なることを発見」したそうだ。  私の耳には、その後半部分は「ツクイーヨ、ツクイーヨ」と聞こえるが、作者にはどう聞こえたのだろうか。「もういいよ、もういいよ」とでも聞こえたのか、掲句は独自の聞きなしを詠み込んだ面白い一句。『秋蝉の哀しさを詠んで秀逸。「もういいよもういいよね」のフレーズが、疲れた蝉が死を懇願しているように聞こえる』との木葉さんの句評が的確だ。  そういえば、作者には「師走くる嗚呼嗚呼嗚呼と鴉鳴く」というユーモラスな句もあったっけ。 (双 24.10.13.)

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荒庭にあかあかとあり鷹の爪   大澤 水牛

荒庭にあかあかとあり鷹の爪   大澤 水牛 『この一句』  庭の畑に生った唐辛子の色づきを詠んだ叙景句である。この夏の猛暑でほとんどの作物が枯れて荒れた庭に、唐辛子だけが枯れず残り、実を赤く熟している。読めば景が立ち上がって来る分かりやすい句で、9月の日経俳句会の兼題「唐辛子」の句で最高点を得た。  園芸サイトを見ると、唐辛子は高温に強く、病害虫も少ないので、育てやすい植物とある。6~8月に小さな花が咲き、青い実を付ける。熟すにつれ赤い色を増して行き、水分が抜けて真っ赤に枯れたものを鷹の爪と呼ぶ。  掲句はその鷹の爪となった唐辛子を詠んでいるが、「荒庭」「あかあか」「あり」という、あ音の重なりが印象的で、赤さが増幅されている。さらに下五を、青いものもある唐辛子でなく鷹の爪としたことで、赤さをダメ押ししている。  この句を読んだ時に、なぜか夕陽が赤々と唐辛子に照り付けている景を想像した。思うに、「あかあか」の字面から、奥の細道にある芭蕉の句「あかあかと日はつれなくも秋の風」が頭をよぎったのであろう。俳句に造詣が深く、古今の句に通じる作者のこと、芭蕉の句を下敷きに字面と音の「本歌取り」を仕掛けたのではなかろうか。あ音の重なりと併せて、作者の遊び心を感じた一句である。 (迷 24.10.11.)

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